益山双陵(쌍릉:サンヌン)
双陵全景(右大王墓、左画面外 小王墓)

双陵は名前の通り大小二つの古墳である。7世紀の百済後期の横穴式石室墳で、南北に200mほど離れて向かい合っている。百済武王(무왕:ムワン)と、王妃、善花公主(선화공주:ソンファコンジュ)の陵と伝えられている。そのため、北側の大きい方を大王墓(대왕묘:テワンミョ)、小さい方を小王墓(소왕묘:ソワンミョ)という。王妃、善花公主は新羅から来た后とされる。「三国遺事」に出ている薯童伝説であるが、実際に武王の時代は、百済と新羅との関係が悪かったときで、新羅の王族をもらう余裕はない。また、「三国史記」にはこの話が出てこない。ところで、熊津時代の東城王は新羅と婚姻同盟を結び、高句麗と戦った。この話が武王の話に転化したのではないかとも言われている。

1916年に発掘されたが、石室は陵山里古墳群と同じく、平斜天井構造であるが、陵山里古墳群より規模が大きい。すでにそのときには盗掘が行われていて遺物は少なかったが、大王墓からは木製の棺が発見されて、台形の身に弧型の屋根が着く、元の姿を復元することができた。公州武寧王陵に近い形である。棺材はコウヤマキで朝鮮半島にはない。日本から輸入されたものである。

他の遺物も百済末期のものと推定されるものが多い。近くに武王が作った弥勒寺があるなど、武王関係の遺跡が多いので、実際に武王陵である可能性も高いと考えられているが、具体的な証拠はない。しかし、7世紀の古墳がここにしかないこと、副葬品などから王陵級であることは確かである。いずれにしても、弥勒寺を中心に扶余と同じ形の石室墳が出現するところが興味深い。

なお、双陵は、清州韓氏一族が祖先の墓として祭ってきたところでもある。前8世紀頃にできたとされる箕氏朝鮮が、前195年頃成立した衛満朝鮮に倒されたとき、その子孫の準王が益山の地に移ってきて、馬韓国の王になったと伝えられる。その子孫が韓氏一族だというのである。この地域で王陵級の墓はここしかないので、自分たちの物として祭っていた。史跡に指定されて、祭祀の道具など一切は撤去されたが、2007年、大法院(最高裁判所)の判決によって、拝礼石が再び置かれるようになった。

大王墓 小王墓 小王墓(2000年の様子)

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