(参考)薯童伝説と炭焼き長者伝説

(1)
薯童伝説と類似している話は東アジア一帯に広がっている。日本での炭焼き長者伝説がそれである。まず薯童伝説を見てみよう。

武王の母は都の南の池のほとりで寡婦暮らしをしていたが、その池にすむ龍と情を通じ、武王が生まれた。子供の頃は芋を売って暮らしていたので、薯童と呼ばれた。彼は新羅の真平王の3番目の娘の善花公主が比類のない美人である事を知り、出家して上京し、子供達に自作の歌である薯童謡を歌わせた。「善花公主が毎夜人知れず、薯童に会っている」という内容の歌である。これが都で流行して、怒った真平王は善花公主を都から追放した。このとき王后が公主に純金1升を贈った。

薯童は隠れて善花公主を待っていたが、善花公主と出会い、百済まで連れて行きたいと言った。公主はこの男が誰だか分からなかったが、出会いを喜んで男について行って情を交わした。ここでその青年が薯童であることがわかり、公主は童謡の霊験を信じた。

百済に着くと、公主は純金を取り出して「生活の計画を立てよう」と言った。薯童が笑って「これは何だ」と聴いたので、公主が「これで百年間豊かに暮らせる」と言ったところ、薯童は「自分が芋を掘ったところに、このような土塊がある」と答えた。公主は驚いて「これは天下の至宝だ。金のあるところが分かるなら、この宝物を両親のいる新羅の王宮に移すのはどうか」と言って、金を掘り出した。山のようになった金の運搬法を「獅子寺」の知命法師に相談したところ、法師が神通力で新羅の宮中に運び込んだ。それを見た真平王は感心した。こうして人心を掴んだ薯童は王となった。

王となってある日、師子寺に行こうとして龍華山のふもとの大池まで来たところ、弥勒三尊が池の中から現れた。王妃がここに大きな伽藍を建てたいと願い出て、王はこれを許した。それが弥勒寺である。新羅の真平王も工人を送って寺の建立を援助した。

(2)
これに対して日本の「炭焼き長者」伝説の代表的な話に、大分県三重の真名野長者伝説がある。

三重の山里に炭焼き小五郎という貧しい若者が炭焼きをしながら1人で暮らしていた。そこへ都から玉津姫という娘がやってきた。娘が信仰していた観音のお告げであった。小五郎はためらうが、姫が小五郎に小判を与える。小五郎はそんなものは炭焼きの窯にいくらでもあるといって淵に投げつけてしまった。山に行ってみるとそれは黄金でできていた。この花嫁のおかげで小五郎は金山の所有者となって、一朝にして長者となり、真名野長者と呼ばれた。

長者夫妻の娘般若姫は橘豊日皇子(用明天皇)の妃として都に迎えられるが、周防の浦で難破して死んでしまう。長者夫妻は娘の供養のために石に仏の姿を彫った。これが臼杵石仏である。

前半部分は大きく2つのパターンがあるが、青森から沖縄まで日本全国に広がる。「今昔物語 巻30」にも類話が掲載されている。後半部分は地元のことに結びつけた話で、これも各地の伝説で同様のことである。薯童伝説も、炭焼き伝説も一人で男が生計をたてること(薯掘り・炭焼き)、妻がお告げ(童謡・観音)などでやってくること、妻に福分があること、金の価値を教えられ(純金・小判)、金持ちになること(新羅王室、百済王・長者)。後半に地元のことを結びつける(臼杵大仏・益山弥勒寺)など共通点が多い。

(3)
炭焼き長者伝説は、タタラ師や鍛冶師が全国を回って話をすることを通じて広まったと考えられている。もともと炭焼きは鉱山の精錬や鍛冶の技術に附随して発達したものである。炭は精錬のために必要なのである。その関係からか、滋賀県伊吹町の製鉄遺跡近くには、金糞(金属くず)や炭焼という小字名が残っている。「炭焼き」は「たたら」や「金堀」の職業集団に所属していたのである。

冶金技術は朝鮮半島から日本にもたらされた技術である。そのため、「金」がキーワードとなる「炭焼き長者伝説」と「薯童伝説」はよく似ているのである。薯童伝説は弥勒信仰が織り込まれるなど、それぞれ違いもあるが、基本的なところは一緒であった。同様の話は中国広東、苗族、雲南省の白族にも伝えられていて、日韓はおろか、ひろく東アジアの文化の共通性を感じさせる。(参考 日本昔話事典、日本文学大事典、三国遺事など)

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