百済王神社(大阪府枚方市)
百済王神社

大阪枚方市の百済王神社は百済王敬福が創建したと言われる。敬福は、百済最後の国王、義慈王の王子禅元(善光)の曾孫であるが、百済が滅亡したときに豊璋とともに日本に来た。豊璋は百済復興運動で百済に戻るが、禅元は日本にとどまって、持統天皇より百済王(くだらのこにきし)の姓をたまわって難波に生活した。

敬福が陸奥守として赴任していたとき、聖武天皇の東大寺大仏鋳造のために陸奥で産出した金を献上し(749)、その功績によって氏寺として百済寺、氏神として百済王神社を百済寺の隣に建立した。百済寺は焼けてしまい、今は礎石を残すだけであるが、伽藍配置は新羅の感恩寺に似ていると言われる。両者とも丘陵の上にあり、百済王敬福の権威がうかがい知られるが、さらに、百済寺の発掘調査によって 百済王氏が有力氏族であったことが改めて確認された。

百済王氏は敬福以降繁栄した。皇族とも親交が篤かった。敬福の孫百済王明信は、藤原継縄の妻で後宮を取り仕切った。藤原継縄は、藤原種嗣暗殺事件後に桓武天皇に重用された右大臣である。こういう関係からか、桓武天皇も17回もこの地に行幸し、百済王氏を「朕の外戚」と言うほどであった。百済王氏は敬福の4世孫、豊後のときに三松に姓を変えた。庭前に三本の古い松があったことにちなんでいる。

神社には「牛頭天王」の額がかかる。百済王の祖先が渡来系と言うことを示すのだが、素戔嗚尊がソシモリに下りたという記紀などの伝承に基づく。韓国語のソは「牛」、モリは「頭」を指すからである。

牛頭天王の岳(左行) 百済寺伽藍配置図 百済寺の礎石

金漢重墓・高麗橋    目次     HOME     杜本神社板石