美濃須衛古窯跡群
1号窯跡(左)と2号窯跡(右)

須恵器はそれまでの柔らかい(植木鉢のような)土師器にかわり、朝鮮半島から導入された焼き方である。須恵器を焼くために多くの人が朝鮮半島から渡来し た。日本で大規模な窯がでるのは、5世紀、大阪からであるが、原料の粘土や燃料、組織された工人集団に恵まれたところでは大規模な窯が継続的に営まれるよ うになった。

美濃須衛古窯群は7世紀後半から8世紀初頭にかけて美濃地方の須恵器の生産を独占したという。8世紀全体でも大量に須恵器を生産して、最終的に鎌倉時代ま で作られ続けた。 各務原市須衛の天狗谷遺跡もその一つで、いくつかの窯跡と住居址と古墳が見つかっている。その中で1号窯址は平安時代の灰釉冬期を焼いた窯、2号窯址は8 世紀後半の窯で、全長7.8m、幅2.00mになる。燃焼室が地下に堀り込まれたところが特徴である。

美濃の窯は中央政府の影響を直接受けていると言われる。そのため中央政府の力が弱まると、窯の生産も弱まる。ところで、この地域には中央との関係を思わせ る遺跡や、地名が多く残されている。多くの古代寺院跡があり、その一つが山田寺(さんでんじ)。地名に飛鳥、蘇原、入鹿池(木曽川対岸の犬山市)などがあ る。また、伝蘇我石川麻呂墓もある。




2号窯跡 2号窯跡(上側から) 天狗谷2号墳(7世紀後半)
 
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