大津宮

大津宮は667年に中大江皇子が飛鳥から遷都した宮である。中大江はここで即位して天智天皇となるが、その死後、壬申の乱がおこり、これに勝利した大海人皇子が飛鳥浄御原で即位したため、大津宮は5年間という短命で終わった。山麓から湖までの距離が短いせいもあるのか、「京」は作られずに「宮」だけ作られたようである。戦争に備えるための臨時の都として営まれたのかもしれない。

ここに宮が遷された667年、ヤマト政権は新羅・唐に対する危機感にあふれていた。660年に百済が滅び、663年の白村江の戦いに百済復興軍とともに戦い、新羅・唐連合軍に敗北したからである。ヤマト政権は対馬から瀬戸内海沿岸に朝鮮式山城を多く築くとともに、都を大津に移した。大津は琵琶湖の水運とともに、湖の西側を通る道路を通じて日本海側につながるからである。それだけでない。大津の南は東海道と東山道が通り、高安城をはさんで山城国に抜ける交通の要地である。

大津宮が作られたときには、まだ高句麗が存在していた。高句麗・百済は日本と関係が深かったために、日本海を通じて高句麗と結ぼうと考えたようだ。事実、高句麗が日本に送った最初の公式使節は若狭湾から湖西地方を通っている。

さらに大津宮地域は渡来人勢力の強い地域で、交通の要所を握っていた。実際、都を囲む4つの寺のうち、3つは創建される以前に渡来系の寺が建っていたようだ。天智天皇も渡来人の力を取り込もうとしたようだ。このように大津宮は国際的事情と国内的事情の必要性から、ここに営まれたと言うことが出来る。

発掘地点(近江神社駅前) 説明板(近江神社駅前) 錦織遺跡の説目板(1)
 
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