益山(익산:イクサン)
弥勒寺幢竿支柱と復元された九層石塔

益山は扶余(부여:プヨ)南方30キロにある町である。馬韓、百済の中心地として発展してきた。北は錦工(금강:クムガン)で扶余郡と接し、南は万頃江(만경강:マンギョンガン)で金堤(김제:キムジェ)郡と接する。

周囲は平野で、韓国で金堤郡についで二番目に耕地率の高いところである。低地では米が作られ、丘陵地では高麗人参(朝鮮人参)が作られる。錦江や万頃江のために、水路交通も古くから発達していた。

百済文化の全盛期の600年頃に武王(무왕:ムワン)は益山に別都を築いたと言われる。そのために、弥勒寺(미륵사:ミルクサ)をはじめとして百済時代の遺物が多い。600年頃の百済は伽耶をめぐり新羅と対抗している時期であった。武王の父王、威徳王は新羅と戦闘を行い、九死に一生を得て、南朝よりも北朝との関係を強めるなど百済の改革を行っていたが、武王もそれを継いだ。

伽耶を得るためには旧馬韓地域を政治的に支配する必要があったが、そのためには山がちな扶余では不充分で、南方に向けて平地の広がる益山が拠点として適していた。そこで副都、別都としたと考えられる。王宮里に王宮があったこと。その裏山に山城を気づいたこと。王宮里遺跡を挟んで左右に弥勒寺と帝釈寺を置いたことで、王都造りは進んでいたと考えられるが、完成したかどうかについては議論されている。

新羅文武王(문무왕:ムンムワン)の時、ここに高句麗(고구려:コグリョ)の遺民が宝徳国(보덕국:ポドックク)を造り新羅と戦い、新羅末の後三国時代には後百済の勢力範囲となり、高麗初代王の王建(왕건:ワンゴン)と熾烈な戦いを行った場所としても知られる。

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