ソウルの高句麗遺跡
夢村土城出土物 阿且山4保塁説明 阿且山4保塁出土物

高句麗は4世紀初めに楽浪、帯方郡を滅ぼした後、つねに朝鮮半島の南方に勢力を広げていった。4世紀半ばは百済が強く、近肖古王が高句麗と平壌で戦い、高句麗の故国原王が戦死することもあった。4世紀末に広開土王が即位して、本格的に南方へ勢力を広げ始めた。これに対して、倭−伽耶−百済連合で対抗するようになった。369年には百済の北部の58城、700村を領有して漢城を危機に陥れた。

次の長寿王は平壌に都を遷し(427)、現在の京畿道、忠清道、江原道まで勢力を広げた。475年に高句麗は3万の軍隊で百済の漢城を攻撃し、百済の蓋鹵王が殺害された。百済は一度滅び、南の熊津(公州)に新たに都をおこした。高句麗の支配は551年、百済の聖王によってここが奪還されるまで続く。

このことによって、高句麗の漢城支配がはじまった。漢城にある高句麗遺跡は、多くが軍事施設で、高句麗の南方進出の橋頭堡として使われた。阿且山には多くの保塁を、近くの九宜洞にも保塁が作られた。さらに夢村土城や、二城山城などからも多くの高句麗の遺物が発見されている。

これらの遺物は、夢村土城入り口にあるソウル夢村歴史館で見ることが出来る。(写真は歴史館で撮影)

九宜洞保塁説明 九宜洞保塁出土物 二城山城出土物

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