爆弾低気圧で大荒れの予報が出ている中、8時30分出発。大風の一日だった。さいわい、雨は一時を除いて大したことはなかったが。傘をさそうとすると体が持って行かれる。転倒した人がいなかったことがさいわいの一日だった。 七尾は前田利家以降町造りがされたところ。道路は沿岸を走る。埋め立てられたと言うが、干拓地のように見える。加賀藩によって作られた軍鑑所の跡もある。近くには中世式山城である七尾城跡もあり、城下の区画もかなり残っているとのことだ(一部道路建設で破壊)。 万行遺跡に行く。3世紀から4世紀にかけての大型掘立柱建物群の出土したところで、非常に大きな建物が建っていたことが分かる。倉庫説と祭祀遺跡説があるようだが、倉庫説に基づく説明を受けた。この規模はおそらく国家管理のものであろうと言うことと、北方交易のための倉庫というものである。3世紀前後は北方勢力が越後まで進出してきたことが土器から分かる時代である。国指定遺跡となり、これから整備されるとのこと。
  続けて「能登国分寺跡」に行く。この地域は能登国造の勢力範囲であるが、その大興寺を転用して作られた。ほかの国の国分寺より約100年遅れた843年に作られた。塔などは風で倒れた記録があり、代わりに作られたと思われる瓦塔が出土している。近くに国府もあるはずだが、まだ場所は確定されていない。
 .jpg) 国分寺跡は整備されて公園となっている。
.jpg)  続いて院内勅使塚古墳に行く。蝦夷穴古墳よりも一つ前の7世紀前半の二段方墳。作り方は、石舞台山古墳の縮小版である。能登国造一族の墓と考えられている。
.jpg)  続けて雨の宮古墳群。江戸期に雨乞いをした場所であることから、このような名前で呼ばれている。邑知地溝の南側、眉丈山山頂の尾根筋に、前方後方墳一基、前方後円墳一基を中心に36基の古墳が存在している。1号墳の前方後方墳は日本海側で最大級の前方後方墳の一つである。4世紀中頃から5世紀初めにかけてのもので、副葬品から能登一円に勢力を持った人のものと考えられている。 邑知地溝帯を挟んで反対側にも小田中親王塚、亀塚などの大型古墳があり、それとの関係も重要とのことであった。 残念ながら、強風下では山の尾根に上ることが出来ず、資料館のみ。ここには1号墓の粘土槨の実物大模型がある。木棺の形状をしめす、内側の凹みや、最後に粘土で覆った後、板状のもので突き固めた後などを見ることが出来る。 棺は3つの部分に分けられ、足下にはその人の権威を示すもの、中には遺体など、頭上には会葬に来た人が入れた土器などが出てきた。たまたま江戸時代に盗掘されているのだが、盗掘坑が中央の遺体部分に開けられたため、ほかの遺物は残ったという幸運の盗掘であった。 展示室は墳丘の作り方、埋葬の仕方などが分かりやすく説明されていた。
  これで見学は終了。千里浜ドライヴインで昼食。ともかく風が強く、浜の道は閉鎖。
 .jpg) 波も当然高い。
.jpg)  当然バスはゆらゆら。ときどきハンドルを取られかけている。そうこうするうちに北陸道から東海北陸自動車道に入る。五箇山、白川郷あたりは雪。最高点付近の気温は2度まで下がっていた。 「城端」と「ぎふ大和」で休憩を取りつつ南下。名古屋駅で解散した。
|