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2006年8月8日
融通念仏供養碑
8月初旬、用事で栂池高原まで行った。時間によって白馬三山の見え方が変わる。朝はっきり見えていたかと思うと、もう8時過ぎには靄に隠れてしまう。そして夕方、夕日をシルエットにまた山が浮かび上がってくるのだ。うすら赤い山肌に大雪渓などの雪渓が、白い血管のように浮かび上がってくる。宿舎の前は白樺の木陰があり、楽器を吹くと気持ちよい。そこから水田を越えた反対側には「塩の道」、千国街道が通っていて、百体観音がある。散歩中に「天蚕」の繭を拾った。その道の入り口の看板が信州らしかった。

「この地帯の山菜、樹木、きのこ、地蜂の採取を禁止します」

栂池自然園にあがる。栂池からゴンドラで20分。6人乗りだが、20分は長い。特に帰りは1人で降りてきたので、退屈きわまりなかった。途中駅でゴンドラのロープを載り替える。今までのロープをはずれ、ゆっくり動きながら新しいロープに載せ替えるのだ。乗る瞬間は勢いよく滑り台(といっても数十p)を滑り落ち、ロープの上に落ちていくので、一瞬ジェットコースター的感覚を味わえる。

ゴンドラを降りた後、今度は71人乗りのロープーウェイに乗り換えて約5分。自然園の入り口につく。外から植物などを持ち込まないように、足ふきのマットの上を歩く。自然園の中はいくつかの湿原から出来ている。今年の冬が寒かったせいか、残雪はあるし、普段なら終わっているはずの花が未だ咲き誇っていて、幻想的な風景だった。その足下にはモウセンゴケが頑張って口を開けている。

午後、小谷村の融通念仏供養碑を見に行く。なぜかハングルらしきものが彫られている江戸時代の供養碑だ。2002年に一度訪問して、連れて行ってもらった人(今回と同じ人)に拓本の採り方を教えてもらった。姫川に沿っていくが、深い谷と地滑り地帯のため、トンネルと洞門が連続する。途中から中谷川に沿い、小谷温泉へ向かい山を入っていった中谷の集落の裏手、神宮寺にそれはある。もともと葛草連(クンゾーレ)という所にあったが、地滑りの危険性があって、集落ごと移転した結果、ここに移してきた。

住職に話を聞くと、神仏分離前に同じ村の中の大宮諏訪神社を管理していた関係で、葛草連にあった諏訪神社の碑を移してきたということだ。大宮諏訪神社も古いお札の中にハングル(阿比留文字?)で書かれたものがあったという。融通念仏供養碑に書かれている文字も阿比留文字ということになっているが、いわゆる阿比留文字とは字体がかなり異なる。それよりも江戸時代に発行された本の中にある「朝鮮の文字」とまったく同じ書体なのである。阿比留文字の方は神代文字の一種で、日本に漢字が入ってくる前にあったと主張される文字だが、なぜかハングルを読める知識があれば、読めてしまうと言うものである。

この本の中にはハングルには存在しない文字も含まれているのだが、まさしくその文字が供養碑の中にあるのだ。しかも御丁寧にハングルには絶対あり得ない濁点まで出ている。ということは日本人が韓国語とは関係なく彫り込んだということだ。誰がどのような目的で彫り込んだのだろう。文の中には「ナガサキ」と読める部分があって、近くの長崎集落に関係あるようだ。融通念仏供養碑の他に、碑のまわりには六済供養塔や茶湯供養塔、不喰供養塔などがあり、いずれも融通念仏宗と関係あるものと住職からの示唆があった。

葛草連は融通念仏宗の盛んなところだった。念仏は口伝で代々伝えられていた。念仏といってもとても長いもので和讃に近いものだったようだ。代が続かないことを憂慮して戦前に書き記したものを見せてもらったが、かなり分厚いもので、節回しまで書かれていて、よく覚えられるものだと感心した。最初から最後まで2時間以上かかったそうだが、残念ながら、現在は途絶えてしまった。新しくいろいろなことが分かったので、HPも改訂をすることにした。写真解説はこちらを参照
Posted by hajimet at 10:09 | Comments (0)

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