朝、ホテルの周りを散歩。 ホテルのエレベーターのボタンは、 どこもステンレスにそのまま数字が浮き彫りにされて見にくい。 ついでだが、大連、瀋陽のホテルはエレベーターが来るときに鐘が鳴る。 下りは2回鳴るのだが、ピッチも感覚も緊急地震速報のベル鐘そのもので、 無意識に緊張していることが分かる。 寝室から外を眺めると、昨年完成した鉄道が走っていた。旧満州国皇宮まで行くそうだ。
 午前中はその旧満州国皇宮を見学。中国では偽満皇宮と呼んでいる。 宮殿の生活様式を復元している。
 飛行機の時間の関係で11時頃昼食に。豆腐料理が美味しかった。 また、卵焼きに掛けられているのは、トマトソース。変わった味だった。
 飛行機は50分で延吉空港に。途中は気流の関係でかなり揺れた。 空港は野原の中にある。しかし、ここは朝鮮族自治州。 表示が一気に朝鮮語に変わった。個人的にはとてもホッとした。 (延辺の朝鮮族を扱った韓国語の分かる日本人の本が、同じような事を書いていた) ついでにガイドさんの日本語が、中国人の日本語から、韓国人と同じような表現方法を する日本語に変わった。これもホッとする。
 標識も朝鮮語。韓国とは表記が違うのも面白い。
 早速、和龍にある西古城に向かう。 途中、朝鮮族の集落を多く通過する。朝鮮族の家は入母屋造り。 煙突が建物の外にある。オンドルを使うためである。
 また、丘々の上には塔が立っている。抗日部隊の記念碑である。 延吉は朝鮮と隣接しているために、朝鮮から人々が流れ込んだのだが、 それゆえ、抗日闘争の拠点でもあった。日本側も監視をしていたところである。 延吉からロシアも近いため、抗日活動をしている人の一部はウラジオストークで 活動した。ウラジオにいた人々はスターリン時代カザフスタンなどに移住させられ、 ロシアのコリョスキーとなっている。韓国の人は、抗日運動の聖地の一つとして、 ここを訪ねてくる。
 バスは龍井を通過して小一時間で和龍の西古城に到着。 ただし、非公開なので、「車窓」見学となった。渤海時代の中京顕徳府のあとである。 整備中のため、公開されるのが楽しみである。
 周囲は田植えが終わっているが、延吉は米の美味しいところで有名である。 元来、朝鮮族の米は美味しいとされてきたが、特に美味しく、溥儀に献上していたそうである。 今も、人民大会堂の公式行事の時にはここの米が使われると聞いた。 続いて龍井中学へ行く。詩人尹東柱の出た大成中学のあったところだ。 死ぬ日まで 天を仰ぎ 一点の恥も ないことを…で始まることで知られる、 「序詩」−空と風と星と詩−の詩碑が建てられている。
 復元された中学校校舎の中は資料館になっていて、 延辺の朝鮮族の歴史が分かるようになっている(ただし、中国の観点から)。
 続いて、間島日本領事館の建物を見る。間島は延辺のことを 戦前、朝鮮や日本が使っていた別名。ここに置かれた名目は、 日本国民である朝鮮族の保護であった。
 夜は北朝鮮の店で食事。韓国風(朝鮮風でなく)と中国風の混ざった 不思議な料理であった。踊りもあったが、料理以外は撮影禁止であった。
 一度ホテルに戻ってから、マッサージに行く。 漢族が担当する。しかし、「アパヨ」「ケンチャナヨ」と聞かれた。 「韓国語が出来るの?」と聞いたら、「ちょっとだけ」と答えていた。 (丁寧な担当者だった。瀋陽では気がつかれないで終わったが、 ここの担当者は足の怪我の跡をちゃんと気がついて、マッサージしていた)。 最後の夜。なぜか3時まで眠れなかった。翌日は5時起床…(モーニングコールは6時)。
|