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2012年6月12日
中国東北部史跡紀行7日目(6月2日)

朝、ホテルの周りを散歩。
ホテルのエレベーターのボタンは、
どこもステンレスにそのまま数字が浮き彫りにされて見にくい。
 
ついでだが、大連、瀋陽のホテルはエレベーターが来るときに鐘が鳴る。
下りは2回鳴るのだが、ピッチも感覚も緊急地震速報のベル鐘そのもので、
無意識に緊張していることが分かる。
 
寝室から外を眺めると、昨年完成した鉄道が走っていた。旧満州国皇宮まで行くそうだ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
午前中はその旧満州国皇宮を見学。中国では偽満皇宮と呼んでいる。
宮殿の生活様式を復元している。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
飛行機の時間の関係で11時頃昼食に。豆腐料理が美味しかった。
また、卵焼きに掛けられているのは、トマトソース。変わった味だった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
飛行機は50分で延吉空港に。途中は気流の関係でかなり揺れた。
空港は野原の中にある。しかし、ここは朝鮮族自治州。
表示が一気に朝鮮語に変わった。個人的にはとてもホッとした。
(延辺の朝鮮族を扱った韓国語の分かる日本人の本が、同じような事を書いていた)
 
ついでにガイドさんの日本語が、中国人の日本語から、韓国人と同じような表現方法を
する日本語に変わった。これもホッとする。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
標識も朝鮮語。韓国とは表記が違うのも面白い。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
早速、和龍にある西古城に向かう。
途中、朝鮮族の集落を多く通過する。朝鮮族の家は入母屋造り。
煙突が建物の外にある。オンドルを使うためである。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
また、丘々の上には塔が立っている。抗日部隊の記念碑である。
延吉は朝鮮と隣接しているために、朝鮮から人々が流れ込んだのだが、
それゆえ、抗日闘争の拠点でもあった。日本側も監視をしていたところである。
 
延吉からロシアも近いため、抗日活動をしている人の一部はウラジオストークで
活動した。ウラジオにいた人々はスターリン時代カザフスタンなどに移住させられ、
ロシアのコリョスキーとなっている。韓国の人は、抗日運動の聖地の一つとして、
ここを訪ねてくる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
バスは龍井を通過して小一時間で和龍の西古城に到着。
ただし、非公開なので、「車窓」見学となった。渤海時代の中京顕徳府のあとである。
整備中のため、公開されるのが楽しみである。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
周囲は田植えが終わっているが、延吉は米の美味しいところで有名である。
元来、朝鮮族の米は美味しいとされてきたが、特に美味しく、溥儀に献上していたそうである。
今も、人民大会堂の公式行事の時にはここの米が使われると聞いた。
 
続いて龍井中学へ行く。詩人尹東柱の出た大成中学のあったところだ。
 
死ぬ日まで 天を仰ぎ
一点の恥も ないことを…で始まることで知られる、

「序詩」−空と風と星と詩−の詩碑が建てられている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
復元された中学校校舎の中は資料館になっていて、
延辺の朝鮮族の歴史が分かるようになっている(ただし、中国の観点から)。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
続いて、間島日本領事館の建物を見る。間島は延辺のことを
戦前、朝鮮や日本が使っていた別名。ここに置かれた名目は、
日本国民である朝鮮族の保護であった。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夜は北朝鮮の店で食事。韓国風(朝鮮風でなく)と中国風の混ざった
不思議な料理であった。踊りもあったが、料理以外は撮影禁止であった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
一度ホテルに戻ってから、マッサージに行く。
漢族が担当する。しかし、「アパヨ」「ケンチャナヨ」と聞かれた。
「韓国語が出来るの?」と聞いたら、「ちょっとだけ」と答えていた。
(丁寧な担当者だった。瀋陽では気がつかれないで終わったが、
ここの担当者は足の怪我の跡をちゃんと気がついて、マッサージしていた)。
 
最後の夜。なぜか3時まで眠れなかった。翌日は5時起床…(モーニングコールは6時)。
 

Posted by hajimet at 22:23 | Comments (0)

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