まず、「島の館」へ向かう。 解説員から説明を受ける。 生月島は江戸時代から明治にかけて捕鯨で栄えた島である。 捕鯨の様子、捕鯨で潤った様子が紹介されている。 そして、捕鯨が盛んだったことが、隠れキリシタンが残った理由であるとのことだった。 なぜ生月島にキリシタンが多かったのか、それが禁教後どうなったのか。 集落の中だけで信仰されていたので、隣の集落の信仰とずれが出たこと。 十字架の形に切った「オマブリ」の使い方が、集落ごとに異なっているとのことだった。 だが、宣教師が来なくなった事から、結果的に、当時の姿を守ることになった。 従来、隠れキリシタンの信仰は、西欧と断絶されたために変容したと捉えられていたが、 むしろ中世カトリックの姿を強く残していると捉えられるようになっている。 カトリックの信仰の方が大きく変わったと言うことは印象的だった。 明治になって復活した人も多いが、多くの人は信仰を守った。 どこの家も仏壇があり、その人がいたから自分の信仰が守られたのに、 復活すれば、それを捨ててしまうことになるが、それは出来なかった。 仏教徒であって、それとキリシタン信仰があったと語る。 復活キリシタンとの違いは、教会に礼拝に行くかどうかと言うことであった。 また、平戸(根獅子付近以外)、五島、外海の間ではサツマイモの耕地などを求めて、 人びとが交流していて、キリスト教も交流しているが、生月島との間ではなかったそうだ。 ただ、隠れキリシタンを継ぐ人がなく、調べようとすれば、最後の時期にきているとのことだった。 集落の中で親戚関係で信仰を継続してきたのに、キリシタンが解散されることで、 親戚関係が判らなくなってくると言う事態も起きていると聞いた。
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