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2016年8月21日
南漢山城と三田渡碑

2016年4月3日 ソウルに到着後、すぐに南漢山城に向かう。
新羅、百済時代に作られたとも言われるが、
現在の物は朝鮮時代、仁祖の時代に築造されたもの。
ここは、その仁祖の屈辱の舞台でもあった。
 
1636年、後金から清に国号を改めたが、太宗は朝鮮に朝貢を求めた。
明との関係を維持していた朝鮮の仁祖はこれを拒否したため、
1637年、太宗は自ら12万の軍で朝鮮に侵入した。
 
仁祖は南漢山城に逃げ込み、45日間籠城したが、ついに降伏した。
その山城が南漢山城である。
 
地下鉄8号線、山城駅からバス。どこで降りるのか運転手に聞いたらどこでも良いと。
南漢山公園で降りるように乗客から言われる。これは、山登りコースだった、
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
30分ほど上ると、南門。ここの城壁は垂直状だが、一部斜めに勾配が変わるところがある。
文禄慶長の役の倭城の影響だという。韓国の城壁は基本的に垂直に組む。
織豊系から江戸時代の日本の城壁は勾配、カーブを持たせる。
 
本来は上の構造物に耐えるための仕組みなのだが、
朝鮮では敵が登ってこられない防禦のための仕組みと考えられた。
そのため、文禄慶長の役後、一部重要な城に勾配を持つ城壁が採用された。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
城壁に沿って城内を散策。ところどころ暗門がある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
途中望楼からソウル市内を見る。漢江、三田渡との位置関係が分かる。
(実際、三田渡そばの夢村土城からの登山コースがある。)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
守禦将台

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この前からの景色。ちなみにソウル空港への進入路が目の前に。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
しばらく城壁散策。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北門

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
城の中央からバスで下山。
 
●三田渡碑 2015年8月。
ロッテ蚕室の湖水沿いに三田渡碑がある。元々漢江本流の跡。
仁祖が清に降伏した翌年、三田渡で清に対して三跪九叩頭という臣従の礼をとった。
それを記すため、清によって建てられた。
 
碑は満州語、モンゴル語、漢語で彫られる。
 
朝鮮にとっては屈辱の碑であるため、清との関係が切れた後、この碑は埋められた。
その後、日本によって掘り出されたが、解放後再び埋没。その後掘り出されたという。
しばらく別の場所にあったが、本来の場所に戻された。
 
亀趺は2つある。一つはサイズが小さく、清のから碑の土台にすることを拒否されたもの。

 
 

Posted by hajimet at 21:38 | Comments (0)

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