2016年4月3日 ソウルに到着後、すぐに南漢山城に向かう。 新羅、百済時代に作られたとも言われるが、 現在の物は朝鮮時代、仁祖の時代に築造されたもの。 ここは、その仁祖の屈辱の舞台でもあった。 1636年、後金から清に国号を改めたが、太宗は朝鮮に朝貢を求めた。 明との関係を維持していた朝鮮の仁祖はこれを拒否したため、 1637年、太宗は自ら12万の軍で朝鮮に侵入した。 仁祖は南漢山城に逃げ込み、45日間籠城したが、ついに降伏した。 その山城が南漢山城である。 地下鉄8号線、山城駅からバス。どこで降りるのか運転手に聞いたらどこでも良いと。 南漢山公園で降りるように乗客から言われる。これは、山登りコースだった、
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.jpg) 30分ほど上ると、南門。ここの城壁は垂直状だが、一部斜めに勾配が変わるところがある。 文禄慶長の役の倭城の影響だという。韓国の城壁は基本的に垂直に組む。 織豊系から江戸時代の日本の城壁は勾配、カーブを持たせる。 本来は上の構造物に耐えるための仕組みなのだが、 朝鮮では敵が登ってこられない防禦のための仕組みと考えられた。 そのため、文禄慶長の役後、一部重要な城に勾配を持つ城壁が採用された。
.jpg) 城壁に沿って城内を散策。ところどころ暗門がある。
.jpg) 途中望楼からソウル市内を見る。漢江、三田渡との位置関係が分かる。 (実際、三田渡そばの夢村土城からの登山コースがある。)
.jpg) .jpg) 守禦将台
.jpg) この前からの景色。ちなみにソウル空港への進入路が目の前に。
 しばらく城壁散策。
.jpg) .jpg) 北門
.jpg) 城の中央からバスで下山。 ●三田渡碑 2015年8月。 ロッテ蚕室の湖水沿いに三田渡碑がある。元々漢江本流の跡。 仁祖が清に降伏した翌年、三田渡で清に対して三跪九叩頭という臣従の礼をとった。 それを記すため、清によって建てられた。 碑は満州語、モンゴル語、漢語で彫られる。 朝鮮にとっては屈辱の碑であるため、清との関係が切れた後、この碑は埋められた。 その後、日本によって掘り出されたが、解放後再び埋没。その後掘り出されたという。 しばらく別の場所にあったが、本来の場所に戻された。 亀趺は2つある。一つはサイズが小さく、清のから碑の土台にすることを拒否されたもの。
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