阿部野橋まで戻り、関西本線で平野に行く。杭全神社を見る。平野川の工事で杭を全て打つことが出来たからこの名前になったというが、この地域は「百済郷」「百済郡」と呼ばれた場所で、いまでも「百済野」と言われている。杭全(くまた)は百済が転訛下とも言われる。拝殿うらに三連の第一本殿から第三本殿まであるが、元禄時代の第一本殿は「素戔嗚尊」と「牛頭天王」が祭神である。
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 平野駅と東部市場駅の間に貨物ターミナルがある。百済貨物ターミナルという名前だ。
  3月16日までは貨物の「百済駅」。実は「東部市場駅」も元は「百済駅(旅客駅)」の生まれ変わった駅だ。
  この付近が百済野といわれるのは、百済義慈王の2番目の息子、善光が姓を賜った百済王氏が港口だった難波の津のそばに拠点を築いたからである。この地に百済寺もあった。その跡が桃谷駅裏の堂ヶ芝廃寺(観音寺)だと言われている。尼寺も発見されている。
.jpg)  近くには四天王寺もある。
 ちょうど十三講詣の日だった。
  午後、枚方に移動。京橋から京阪で枚方市駅。乗り換えて1駅目の交野駅から5分ほどのところ。奈良の大仏を建立するときに金鉱を発見した百済王敬福が河内守となって拠点としたところだ。館に氏寺と氏神を造った。氏神は百済王神社として残っている。
 .jpg) 拝殿の額は「牛頭天王・百済国王」。さて、牛頭天王の牛頭。韓国語で牛はソ、頭はモリである。記紀の一書によれば素戔嗚尊は渡来系の神で、新羅のソシモリに下りたとなっている。それを「牛頭」と表したとされるのである。
 その隣は百済寺あと。薬師寺式の伽藍配置の基壇と礎石が残っている。
  場所は丘陵の頂上。百済王敬福の権威を感じさせる場所であった。
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