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2007年5月20日
もっとも保存状態が良いキトラ古墳「玄武」公開1(ツアー)

久しぶりの更新。
 
キトラ古墳の玄武公開にあわせて行われたツアーに参加した。キトラだけでなく、普段行きにくいところが多くコースに入っている。朝7時台の「ひかり」に乗って東京を出発。京都で下車して奈良交通のバスに乗り換える。高速と一般道を組み合わせて110分の行程である。橿原から藤原宮あとを抜けて甘樫丘わきで飛鳥川をわたり向原寺へ。
 
バス停の前には小墾宮跡とも言われる土壇がある(今は蘇我氏の邸宅跡との説が強い)。向原寺は日本で最初にできた寺とされる。百済聖明王が欽明天皇に送った仏像を、蘇我稲目がここでまつったとされるからだ。後に推古天皇がここで即位して豊浦宮をおき(593-603)、その後蘇我馬子が譲り受けて豊浦寺とした。住職から発掘の様子などを聞く。江戸時代や鎌倉時代、飛鳥時代の寺跡の下から、宮跡が出てきて、さらにその下から邸宅が跡が出てきているという。
 
住職の案内で一部残されている宮跡を見た。軒先だそうで、ここの上をまさに推古天皇や聖徳太子が歩いたわけだ。それにしても3段の版築は立派だ。寺の横は蘇我稲目がまつった仏像を捨てたという難波池がある(ただし、物部氏の地盤は別のところで、そちらにも難波の津江あとがある)。裏手の甘樫坐神社には立石があり、その前でクガタチをしていた。
 
続いて於美阿志神社へ。檜前にある。なだらかな丘陵地帯である。東漢氏の始祖、阿知使主をまつるが、もともとは彼らの氏寺である檜隅寺があった場所だ。道を歩いていて、寺域に入った途端に布目瓦が散乱していた。
 
寺跡には講堂、塔、金堂の跡が残されていて、塔のあとには平安時代に建てられた13層石塔がある。この地域は渡来系の勢力が強かった場所で、高松塚もキトラもこの一帯にある。講堂跡からは高松塚の覆屋が一望できる。そういえば壁画は高句麗の強い影響が指摘されている。そもそも高市郡の7割が渡来系の姓だったそうだ。
 

 
続いてマルコ山古墳。近鉄の線路をバスがわたれないため真弓丘の丘陵を歩いていく。しばらく歩くと現れる集落が「地の窪」である。ガイド氏は「窪み」の意味で説明していたが、地形的には風水で言う「気」の吹き出す「穴」のことのように思えた。
 
古墳は地の窪集落の裏手にある。整備されていて墳丘に木などが生えていないので、慶州などで見る古墳のイメージに近い。高松塚やキトラと同じく終末期のもので、石室の構造もほぼ一緒である。発掘したところ、石室は漆喰で塗られていたが、石室はなかったとのことだった。たここからみる飛鳥の風景は絶景。山の稜線がほぼそろっているのも印象的だった。
 

 
一旦飛鳥を後にして今井寺内町へ行く。中世末に作られた環濠集落である。それまで条理集落や条理を元にして作られた池、地名を眺めていたのだが、まったく異なった世界に来たようだ。中世末に一向宗門徒によって作られた集落で、江戸時代いっぱい自治が認められていた。そのために裁判を行った家なども残されている。道筋は行き止まりや食い違いになっていて防御に優れている。土蔵作りで部屋の配置もすべて決められている。
 

 
明治10年2月10日に明治天皇が即位の報告をするために橿原へ来て、今井寺内町の中心の寺、称念寺に泊まった。その車列のために軒先を削られた家が、いまでも削られたまま残っていた。今井寺内町の人が明治天皇に拝謁するときの話が残っている。しかし、明治天皇はこのとき橿原へ参拝出来なかったそうだ。2月11日、西南戦争が始まったからだ。古い町並みもさることながら、風薬の看板も面白かった。「みみづ入」である。
 
ホテルに戻っておしまい。橿原ロイヤルホテル。炭にこだわった部屋で、あちらこちらにオブジェがある。部屋は静かで快適だった。

Posted by hajimet at 10:50 | Comments (0)

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