« 授業記録(韓国語、日比谷) | Main | 授業(倫理) »


2015年2月23日
日本史授業 20150223 協調外交の終焉

浜口内閣の外傷は幣原喜重郎であった。再び協調外交が始まった。
1930年、一時的に中国と友好ムードになっていた。
その中で、日中関税協定が締結され、条件付きで中国に関税自主権が認められた。
中国は北伐終了後、国権回復と不平等条約解消を求める国民の声が強くなっていた。
そこで、国民政府は一方的に不平等条約の無効を宣言していたのである。

また、ロンドン海軍軍縮会議に参加した(30年1月〜、4月、ロンドン海軍軍縮条約)。
1927年のジュネーヴ会議が決裂したことを受けて開かれたもので、
ワシントン会議で決められなかった補助艦の比率を話し合うものであった。
海軍は対米比率7割を主張した。
 
その結果、主力艦建造禁止を5年延長すること、
補助艦総トン数比を米:英:日=10:10:7、
大型巡洋艦の比率を10:8.2:6と決めた。

これに対して野党、政友会は海軍軍司令部、右翼と結託して条約に反対する態度を示した。
理由は統帥権干犯である。天皇は軍を統帥する権利を持っていた。
一方、軍は軍隊の編成、兵器の備用、給与など行政面を扱う軍政と、
国防計画、作戦計画、兵力の使用に関する統帥面の軍令に分けられる。
軍令は軍部大臣が天皇を補弼して行うもので、
天皇に直属する海軍司令部などが行うもので、
その司令部に相談せずに、勝手に比率を変えたのは、
統帥権を侵すものだと批判したのである。

結局、10月に、枢密院と宮中側近の支援を受けて、条約を批准したが、
11月、浜口は東京駅駅頭で狙撃された。
一度回復したように見えたものの、翌年死亡した。

浜口が、軍を排除して事故の方針を貫いた点では、政党政治の勝利と言える。
しかし、協調外交、緊縮財政に終止符を打つこともはっきりしてきた。
それゆえ、対英米協調も、満蒙の問題も行き詰まりを見せるようになった。
さらに、政友会が海軍や右翼と結託したことは、彼らに政治意識を持たせることとなり、
のちの軍部の独裁へとつながるきっかけとなったといえる。(おわり)

Posted by hajimet at 16:02 | Comments (0)


日本史授業 20150219 金解禁

金解禁 
日本は1917年、アメリカにならって、金輸出を禁止した。
これによって金本位制は停止した。

金本位制は、自由兌換、自由鋳造、自由溶解、自由輸出ができることでなりたつ。
自由輸出によって金の保有量が調整されることによって、物価が安定するとされる。

金輸出が禁止されると、金の裏付けがなくなるから、銀行券が増刷されるようになり、
インフレーションが進んだ。そのため、財界では金輸出解禁を求めるようになった。
1925年頃から、各国で金解禁されていたからである。
だが、日本では恐慌が続いたため、金解禁が出来なかった。

1929年成立した浜口雄幸内閣井上準之助蔵相は、金解禁論者であった。
金解禁をするために、
 緊縮財政によって物価を下落させ、
 それにより為替相場を安定させてから、
 金解禁をすることを目論だ。

1930年1月1日、金解禁が「旧平価」で行われた。1ドル=49.85ドルである。
だが、新平価論もあった。というのも、
金輸出を禁止してからレートが変わっていたからである。
1928年の平均為替相場は1ドル=46.5ドルだった。
井上は日本の体面も考えて円高時代の旧平価を採用したが、結
果として円高になったために、輸出はふるわなかった。輸
出が振るわなかった理由はもう一つある。世界恐慌が起きていたのである。

世界恐慌
1929年10月、アメリカニュー欲の株式が暴落して、世界恐慌が始まった。
ヨーロッパはアメリカの資金により再建されたが、
ヨーロッパが復興すると、生産設備が過剰となった。
同時にソ連が出現して市場も大きく欠落した。
そのような状態なのに、投機ブームで株式市場は騰貴をつづけた。
その過剰生産が表面化して、あっと言う間に恐慌となったのである。

日本では、恐慌によって再び金輸出が禁止になると考えて、財閥がドルを買い占めた。
その結果金が日本から流出して、デフレーションとなった。

1930年3月、4月に株式が立て続けに暴落した(昭和恐慌)。
特に4月は、東京株式取引所の立ち会いを停止し、株価が6割、物価も7割に減少した。
世界物価の低下も激しいため、貿易額が6割前後に落ち込み、輸入超過となった。
その結果、中小企業の減資、解散が相次ぎ、大企業も生産制限を行った。

政府は対策として、1931年、初の統制法である、重要産業統制法を定め
指定産業の不況カルテル結成を認めた。
 
すなわち、生産、価格の制限ができるようになったのである。
この法律により、独占資本本位の重工業化が行われ、産業の合理化が行われた。
まもなく満州事変が始まる時期だが、結果として、戦時体制の下準備が行われたことになる。

農業恐慌
昭和恐慌は農村にも波及した。
農村の中心的副業は繭産業だが、米国への生糸の輸出量が低下したため、
繭価は4分の1に下がり、1930年の米価も、大豊作と植民地米移入により2分の1に下がった。
これによって農家は打撃を受けたが、
農産物の価格の下落は大きく、キャベツ50個でタバコ1箱と同じ15銭にしかならなかった。

その後も、1931年、東北地方の大凶作、32年、凶作、33年、三陸大地震、
34年、室戸台風と続き、32年の1軒あたりの農家の負債が平均837円という状態になった。
これは、平均所得とほぼ等しい額である。
農村では娘の身売り、欠食児童が増え、青田売りも増えた。

さらに、都市への出稼ぎや賃金労働の機会は閉ざされ、働き口がない上に、農村では
都市から帰農人口を多くかかえた為に、惨憺たる生活をおくらなければならなくなった。

Posted by hajimet at 15:56 | Comments (0)


日本史授業 20150219 外交政策の転換

田中義一は日露戦争で満州軍に参加したり、シベリア出兵に対して積極派であり、
武力による対中進出を主張していた。
(ただし、欧米に対しては巨超外交で、1928年に不戦条約を締結している)

1926年、中国では、国民党(蒋介石、25年孫文死亡のため)が北伐を開始して、
上海、南京などが占領されるに至った。
北伐が始まったことで、対中貿易は伸び悩み、幣原の外交政策は批判を浴びるようになった。
 
北伐軍が山東省に近づくと、
田中内閣は、3度にわたって山東省に軍を派遣した(山東出兵 27年5月、28年4月、5月)。
名目は居留民保護であるが、張作霖支援が本来の目的であった。
第一次山東出兵によって、北伐の動きは一時止まった。

この最中、27年6月、東京で東方会議が開かれた。
対中政策の確立が目的で、東京に在外公館の外交官はじめ、
関東軍司令官、陸軍次官らが集められた。
その結果、武力「現地保護」政策、満蒙分離政策、親日派の育成をはかることが決められた。
このことによって、ワシントン会議で後退した日本の対中政策を復活したのである

28年、北伐が再開されたために、再度軍隊を山東半島に送り、済南に軍を進めた。
済南は山東半島からの鉄道や、北京から南下する鉄道が交叉するところで、
近くに黄河も流れる交通の要衝であって、外国人も多く居留していた。
 
ここに国民党軍も済南城に入城した。
 
5月3日、日本軍と国民党軍の間で小競り合いが起きたことをきっかけに、
本格的な衝突にまで至った。済南事件という。
これによって城内の軍民5000人が死傷した。日本側は、引き続き山東を制圧した。
その一方、国民軍は山東省を迂回して北京に向かっていた。

一方で、対中貿易の方針を巡り、2つの流れがあった。
それは、満州武力制圧派(関東軍)、
      張作霖傀儡政権樹立促進派(田中)であった。

北京にいた張作霖が北伐軍に攻撃されると、
政府は張作霖に北伐軍との交戦をやめて、満州に「退去」し、
日本の「援助」の元に事実上独立することを勧めた。
張作霖は最初拒んだものの、北伐軍に敗退して日本の意見を飲んだ。
28年6月3日、北京発の特別列車で奉天に向かったが、
翌日朝、奉天駅手前で列車ごと爆破されて死亡した(張作霖爆殺事件、満州某重大事件)。

事件は関東軍の河本大作大佐らによるものであった。
軍の言いなりにならない張作霖を暗殺し、こ
れをきっかけにして満州に武力紛争を起こさせようとしたものであった。
政府は高元を重罰に処するつもりであったが、陸軍の反対で停職処分だけで終わった。
田中義一は、天皇に対して、関東軍は無関係と説明していたが、
天皇に「偽装は明白」といわれた。天皇の信頼を失った田中内閣は総辞職した。

一方で張作霖暗殺後、張学良が後をついだ。
そして、国民党に帰順したため、28年、北伐は終了した。

Posted by hajimet at 15:51 | Comments (0)


2015年2月22日
日本史授業 20150216 金融恐慌 社会主義運動の高揚

金融恐慌
(2)第2段階
取り付け騒ぎに続き、1927年4月に台湾の鈴木商店が破産した。
鈴木商店は砂糖や、防虫剤などに使われる樟脳を扱う会社で、
第一次世界大戦で、傍系会社を50近く持つ大商社となった。
その勢いは、三井や三菱にせまるほどであった。
しかし、戦後恐慌、震災恐慌で打撃を受け、
27年3月、台湾銀行が新規貸し出しを停止してしまった。
しかし、この結果、台湾銀行が資金を回収出来なくなり、経営の危機に陥った。

政府は緊急勅令で台湾銀行を救済しようとしたが、枢密院に拒否された。
表向きの理由は議会が開けるので、勅令は必要なと言うことであったが、
実際は一銀行、一商店のためでなく、
政策を失敗した中国にそのお金を向けるべきと言うことであった。
在華紡の権益を守れという三井の圧力によるものであった。

4月18日、台湾銀行は休業した。同日、若槻内閣が総辞職して、田中義一内閣となった。
預金者は一斉に取り付けにはしり、恐慌の第二段となった。

預金者は中小銀行に対して不安を持つことになり、
預金が大銀行に集中し、五大銀行が確立した。
一方中小銀行が取引している中小企業は経営に行きづまり、
大企業による整理統合が行われた。

(3)終息
田中内閣の蔵相、高橋是清は、4月22日から3週間、モラトリアム(支払い猶予)を実施した。
22日、23日は休業して、銀行はその間に資金を調達した。
日銀も紙幣印刷が間に合わず、裏面が白紙の200円紙幣が発行された。
5月に台湾銀行救済法が提出され、恐慌は終息した。

社会主義運動の高まり
普通選挙法の通過は、社会主義運動にも変化を生じさせた。
議会を通じての社会改革をめざすようになった。
1925年12月、労働農民党が結成された。共産党系を排除して成立したが、
26年3月に共産党系の勢力が伸び、
同年12月には
  労働農民党(左派)、
  日本労農党(中間派)、
  社会民衆党(右派)に分裂した。

1928年2月、第1回普選が行われた。その結果、労働農民党が8議席をとった。
議席数は少ないのだが、得票率は5%の高さであった。
治安維持法などで運動を抑えていた政府は、この結果に衝撃を受けた。

1928年3月15日 共産党、労働農民党系を約1600名検挙する3.15事件がおき、
5月には治安維持法が改正された(緊急勅令)。最高刑が死刑に高められたことと、
特別高等警察が創設された。
10月には共産党議長が台湾キールン(基隆)で自殺、
29年3月には労農党山本宣治が殺されるなどの事件も続いた。
さらに、29年4月16日、共産党系の人物が800名検挙される4.16事件がおきた。
このように政府は、共産党再建の動きを徹底的におさえ、共産党活動は地下化した。

Posted by hajimet at 22:11 | Comments (0)


日本史授業 20150212 護憲三派内閣 恐慌の時代

護憲三派内閣

1924年清浦奎吾内閣が成立した。清浦は枢密院議長で、政友会の協力がなかったため、
完全な超然内閣として成立した。

普選運動が広がっている中でのことだったこと、3代続いて非政党内閣だったことから、
政党側の三派が連合した。すなわち、
  政友会(高橋是清)、
  憲政会(加藤高明)、
  革新倶楽部(犬養毅)である。

政府は24年1月に政友本党(政友会から分裂した右派)を味方につけてて議会を解散した。
だが、5月の選挙は護憲三派の勝利に終り、加藤高明内閣が成立した(三派連合内閣)。
政党内閣はこの後1932年、犬養内閣が崩壊するときまで続く。

加藤内閣の外相は幣原喜重郎で、協調外交が行われた。
1925年、普通選挙法が成立し、25歳以上の男子に適応された。
有権者は4倍の1200万人に増えた。
 
だが、法案提出後、枢密院の諮問により、無産主義対策が求められた。
そのため、抱き合わせで治安維持法が成立し、
国体の変革と資本主義を否定するものを最高刑は10年の懲役、禁固とされた。

治安維持法は普選法の関係で制定されたのみならず、
同年、日ソ基本条約が締結されたことも関係する。

だが、1925年立憲政友会で田中義一が総裁となると、革新倶楽部が政友会に吸収され、
加藤内閣は単独内閣となった。その、加藤は25年に病死し、若槻礼次郎内閣となった。

1926年12月25日、大正天皇が死去して、昭和が始まった。
元号は「百世昭明、万邦共和」から来ていた。

恐慌の時代
1.戦後恐慌
 1920
大戦景気の反動で。ヨーロッパの産業が復興して、アジア市場も再開された。
大戦景気では投機的性格もあわせもったが、
日本の生産水準は世界市場に対抗できるほどではない。
そのために、株価が急落して恐慌が起きた。

この恐慌は日銀の非常貸し出しで乗り切ったが、中小企業の倒産は避けられなかった。
一方、財閥は堅実な経営を行い、地位が向上した。同時に財閥系銀行の地位も向上した。

2.震災恐慌 1923年9月1日
戦後恐慌以来の慢性的不況が続く中、関東大地震が発生した。
これにより銀行手持ちの手形の決済が出来なくなった。
地震によって東京にある会社が被災し、払い込みが出なくなったケースが続出したからである。
そのような手形を日銀の特別融資によって解消しようとしたが、なかなか旨く行かなかった。

3.金融恐慌 1927.3.15
(1)その1
 震災手形の処理は失敗した。財
界の動揺を防ぐために、企業の整理が行われなかったからである
(諸外国では、このような場合、整理する)。

ところで、1925年に成立した若槻内閣は、正常な貿易関係を開こうとした。
そのために、
金輸出禁止の解除(1917年に禁止、30年解除)、財政整理、産業の合理化が必要と考え、
まずは銀行の建て直しが必要と考えた。

そのためには震災手形の処理を改めて行おうとした、
1927年、片岡直温蔵相は公債発行によって処理を行おうとした。
一方、野党は不良銀行の公表を迫った。
そんな中、蔵相が東京渡辺銀行とあかぢ銀行で支払いを停止したと失言してしまった。
実は、この日、資金融資ができず支払いを停止したのだが、
2時には融資が出来て支払いを再開していた。
その情報が蔵相に入っていなかったのである。

これをきっかけに二流銀行で取り付け騒ぎが起き、
東京で6行が閉店に追い込まれるという事態になった(金融恐慌)

Posted by hajimet at 22:07 | Comments (0)


2015年2月19日
日本史授業 20150212 社会運動の勃興と普選運動

第1次世界大戦は各国で普選の流れを加速させた。
欧米における第一次世界大戦は、
それまでの訓練された兵士による局地戦の戦争と異なり、
国力を総動員して戦う総力戦だったからである。
 
各国では戦時体制を組んだ。
すなわち、
 ・軍事工業優先
 ・女子、青少年の軍需工業への動員
 ・食糧配給などを柱とする体制となった。
 
これに対して民衆は反戦ストライキを行った。
また、自分たちの生活が統制されるのに、
その政策を決定する政治に参加できないのはおかしいという理由から、
参政権=普通選挙権を求めるようになった。

一方、日本における大戦は局地戦であったが、
物価高騰、実質賃金下落による生活苦と、
ロシア革命、米騒動が刺激となって、社会運動が高揚した。
 
これが普通選挙運動につながるのである。

1.労働運動
1912年、鈴木文治が「友愛会」を結成。
鈴木はクリスチャンで、キリスト教精神に基づく相愛相扶による
労働者階級の地位向上、労働組合の育成を図ろうとした。
 
だが、全国組織化するうちに、次第に労働組合としての性格が強まり、階級闘争化した。
その結果、1919年、大日本労働総同盟友愛会となり、20年に第1回メーデーを主催した。
さらに21年には大日本労働総同盟となり、
21年の日本製鋼所や三菱長崎造船所の闘争に協調したりした。

2.農村
農村でも1919年以降、小作争議が頻発するようになった。
これに対して、1922年、賀川豊彦、杉山元治郎らが日本農民組合を結成した。
賀川はキリスト教社会運動、社会改良を志して労働運動を行ったが、
それに失敗して農村に拠点を移した。鈴木文治とも接している。
 
杉山は牧師で、賀川から協力を求められて運動に参加した。

3.社会主義運動の高揚
大逆事件以来、社会主義運動は下火になっていたが、
社会運動が盛んになるにつれて、その理論的背景となり得る社会主義運動も再開された。
1920年、運動家らが一同に会して日本社会主義同盟が結成されたが、
これは21年に禁止された。

学会で東大の森戸辰男が、近代社会の弊害を除く窮極の考え方は無政府主義であるとして
ロシアの革命家であるクロポトキンを研究した。だが、これにより森戸は休職に追い込まれた。

無政府主義とは社会主義を純化して突き詰めていくと出てくる考え方で、
政府の存在自体を否定する立場である。

運動界では
大杉栄の無政府主義路線と堺利彦らによるマルクスレーニン主義路線が対立していた。
マルクスレーニン主義とは、ソ連政府がとった社会主義路線のことで、
資本主義を経なくとも社会主義革命が出来ることと、
現段階においては政府の存在を必要とする立場である。

だが、ロシア革命の影響から堺の路線の方が優位になり、
1922年、堺、山川均らによって「日本共産党」が創党された。
非合法であるが、正式にコミンテルン支部と認められた。

4.女性運動
1911年、青鞜社創設。平塚らいてうによる。青鞜の創刊後の出だしの文句は非常に有名。
1920年 新婦人協会 平塚、市川房枝

5.被差別部落 
1932年 全国水平社

いずれも大衆の立場からの運動であって、参政権=普選を主張した。
1919年から20年の世界的デモクラシーも背景としている。
加藤友三郎内閣では普選について検討を始めた。
もはや原内閣のような立場はとれないほど、運動が盛り上がっていたのである。

第二次山本内閣も普選に賛成であったが、
内閣が成立した日に関東大地震が起こり、それに対応しなければならなかったことと、
皇太子(昭和天皇)が虎ノ門で狙撃されるという虎ノ門事件で引責辞任したため、
普選法が取り上げられることはなかった。

Posted by hajimet at 21:33 | Comments (0)


日本史授業 20150209 ワシントン会議(2)

3.ワシントン会議(1921年11月から)
 ヴェルサイユ条約はドイツの賠償金を英仏伊に支払うことが内容の一つであったが、
英仏伊もアメリカに対して債務を負っていたため、
債務返済をドイツの賠償金で行うことが期待された。
 
しかし、ドイツは賠償金を返済できず、
結果的にアメリカに対する債務が返済されないという状況になった。

一方、極東においてはソヴィエトが連邦制をとる動きを見せ
   (22年、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、ザカフカスでソ連を構成)、
日本は中国進出を露骨に行い、
その中国では民族運動が活発化するなど、
新たに対応しなければならない事態が発生していた。

こういう状況の中で、アメリカのハーディング大統領がワシントン会議を提唱した。
ヴェルサイユ条約は、中国が未調印、
米国もモンロー主義が強まった影響で未批准だったため、
東アジア、太平洋地域における戦後体制は確立していなかった。

アメリカの目論見は、
 @建艦競争を終了させ、各国の財政負担を軽減させることと、
 A膨張する日本を押さえることであった。
このとき、日本はシベリア、満州、山東省、南洋群島に勢力を伸ばしていて、
直接アメリカの権益と衝突することになるからである。

日本は原内閣野路痔で、対米協調路線をとっていた。
その他絵、加藤とも三部労、幣原喜重郎らを全権大使としてワシントンに派遣した。

その結果、3つの条約が結ばれた。
@四か国条約(1921 日英米仏) 
   太平洋諸島における各国の領有権を尊重
A九カ国条約(1922 日英米仏中伯蘭葡伊) 
   中国の領土と主権尊重、門戸開放、機会均等(中国の政治的独立と列国の既得権の保護)
Bワシントン海軍軍縮条約(1922年 日英米仏伊)。
   今後10年間主力艦(戦艦、巡洋戦艦、空母)を建造しない。
   主力艦の総トン数を米英:日:仏伊=5:3:1.67とする。
海軍は対米7割(3.5)を主張したが、海軍大臣だった加藤が海軍を抑えて妥結した。

しかし、四か国条約を結んだ結果、日英同盟が廃棄された。
日英同盟は日露戦争後両国の思惑がずれてきて、条約を改正を繰り返していた。
また、日本が日英同盟を利用して第一次世界大戦に参加した。
そのようなことから、英国が日本に対して同盟の廃棄を申し入れたのである。
これによって、日本の外交の基軸がなくなり、日本は孤立化の道を進むこととなった。

また、九カ国条約の締結によって、石井ランシング協定が廃棄された。
特殊権益が認められなくなる結果、日本の中国進出が阻止されたことになる。

このような3条約による体制をワシントン体制と言い、東アジア協調体制が完成した。

4.協調外交
ワシントン体制は加藤友三郎内閣、山本内閣と引き継がれた。
これは日米のの経済関係が良好だったためである。
1924年、護憲三派による加藤高明内閣が成立すると、
幣原喜重郎外相の下で、いわゆる幣原外交が始まった。

幣原は協調路線をとり、経済重視の外交姿勢をとった。
すなわち、
ヴェルサイユ・ワシントン体制の尊重、列国との協調、中国に対する不干渉政策をとった。
 
ただし、対中不干渉は表向きで、とくに経済関係には非妥協の体で臨んでいた。
というのも、中国への輸出は日本の総輸出の2割以上で、
なかでも繊維は5割以上の輸出割合を占めていたからである。
しかし、英米の対中輸出が復興したため、1921年から対中輸出は減少していたのである。

日本としては、経済面での輸出拡大と、満州権益維持を図らなければならなかった。
一方、中国では北伐の動きが強まり、
孫文率いる中国国民党と、1921年に創党した中国共産党が手を組む
第一次国共合作が行われていた。

そんな中、1825年、上海で日本人が経営する在華紡でストライキを行った。
ここで中国人労働者が死亡するという事件が起きた。
日本人監督とイギリス人警官の横暴に怒った民衆は、
5月30日に反帝国主義のストライキとデモ行進を行ったが、
イギリス警官の発砲によって13名が殺される事態となった。
この抗議は広東、香港にも広がった(5.30事件)。


これについて日本政府は中国に対して同条のポーズをとった。
中国市場を守るためのことで、怒りの矛先をイギリスに向けさせるためであった。
だが、実際は北方軍閥の張作霖に武力鎮圧を要請していたのである。

協調外交は軍縮の推進でも現れた。
海軍では老朽艦の廃棄、軍艦の建造中止を行い、
陸軍でも近代化を行うことで軍縮をした。
加藤友三郎内閣の山梨半造陸将の軍縮を山梨軍縮、
加藤高明内閣の宇垣一成陸将のそれを宇垣軍縮という。

Posted by hajimet at 21:28 | Comments (0)


2015年2月8日
日本史授業 201502025 ワシントン体制(1)

1.パリ講和会議(19年1月〜)、ヴェルサイユ講和条約(19年6月

1918年8月、第一次世界大戦は休戦し、パリで講和会議が開かれた。
戦争の関係を清算する会議である。

会議はウィルソン米国大統領による14カ条の原則に基づいて行われた。
まずは、ドイツとその同盟国の領土処分と賠償金であった。

ドイツには1320億マルクという多大な金額の賠償金が求めら、
払いきれずにルール工業地帯をフランスに占領されたり、
物価が1兆倍にあがる事態になった。

つぎに少数民族の独立である。
これは、ウィルソンの「民族自決」の原則に従って行われた。
ただし、独立が認められたのは東ヨーロッパだけである。
しかも民族の境界線に必ずしも合致していない。
ドイツとソ連の拡充を防ぐことが目的だったからである。
(でなければ、バスク問題などは解決されているはずである)

3つ目が国際連盟の創設
初の国際平和維持期間で、スイス、ジュネーヴに本部が置かれた。
ただ、ソ連、米国が加入していないこと、全会一致の原則、
経済制裁しかなく、武力制裁ができないことで、
国際連合に比べて力の弱いものであった。

山東半島で第一次世界大戦に参加した日本は、
西園寺公望、牧野伸顕らを全権として送った。

日本の目的は山東半島の権益確保と、21カ条の要求による権利確保である。
一方、中国は21カ条の要求の撤回を要求していたが、
日本の強圧的態度と米国大統領の説得を受けた。

また、中国国内ではヴェルサイユ条約締結に反対する五.四運動が起きた。
その結果、中国は条約締結を拒否した。

講和会議で、日本は
 山東半島の旧ドイツ権益を確保した。
 また、南洋群島は国際連盟による委任統治領となった。
 
委任統治はこの時に開始されたものである
領土を分割して、いきなり植民地を建設することは
19世紀末頃から違法だという考えが広まっていた。
それゆえ、保護国を迂回させて植民地建設をするようになった。
(チュニジアに対してフランスが行ったことが最初)

しかし20世紀に入ると、植民地建設自体が違法と考えられるようになった。
そこで、国際連盟から統治を委任されるという形式をとったのである。
(国連時代には信託統治領に変わる)
委託された国は、国際連盟の枠の中で統治することになる。

一方で、この地域が委任統治領になると言うことは、
日本が太平洋に権益を広げることを牽制するという意味もあった。

日本に対して、このような権益が認められたにせよ、
欧米諸国の日本に対する不信は強まり、
日本の孤立化が進むこととなった。

2.三.一独立運動

(1)民族自決
1910年、朝鮮が植民地になって以来、
朝鮮では武断政治が行われ、人びとの間に不満が蓄積されていった。

一方、民族自決は朝鮮にも適応されることが期待された。
朝鮮では何らかの形で民族の意思を示すことが必要と考えられるようになった。

1919年2月8日 東京で独立宣言(2.8独立宣言
 東京にある朝鮮基督教青年会(現韓国YMCA) で朝鮮人留学生によって行われた。
 韓国併合前から、日本に朝鮮人留学生は多く来ていたが、
 特に、保護国化されて以降は、YMCAが朝鮮留学生の拠り所となっていたのである。
 宣言文は朝鮮にも伝えられた。

1919年3月1日 京城のパゴダ公園で独立宣言(3.1独立宣言
 天道教(東学が発展した民族宗教)、基督教、仏教指導者が連合して行った。
 朝鮮中に広がる。
 「大韓独立万歳」を叫び示威を行ったので、万歳事件ともいう。

(2)なぜ3月1日だったのか。
 この年1月21日に高宗が急死した。小豆がゆを食べた直後であった。
 侍医側は病死と診断したが、毒殺説も広まっていた(今でも耳にする)。
 高宗の葬儀は3月3日に決められた。全国から京城に人が集まってくる。
 3月2日が日曜日だったために、3月1日に決められた。

総督府は、独立運動を弾圧をしたが、構造的な問題があることにも気がついた。
統治はうまく行っていると思っていたからで、
この事件は総督府にとっても大きなショックだったのである。

そのため、総督の資格を文官にも拡充し(実際に文官が総督になったことはない)、
憲兵警察も廃止された。また、民族誌の発行や会社の設立も認められるようになった。

このような統治を文化政治という。

Posted by hajimet at 10:12 | Comments (0)


日本史授業 20150205 政党内閣の成立(2)

3.原内閣
寺内内閣が瓦解した後、元老は人々の力を押さえるために政党内閣が必要と考えた。
そのため、立憲政友会の総裁であった原敬が首相に選ばれた。

原敬は、これまでの首相と異なり、家族でも藩閥でもない人物であった。
それゆえ、「平民宰相」と呼ばれた(ただし、南部藩家老の出)。
また、全閣僚(除、軍部大臣)が政友会であった。
西園寺内閣のときに、閣僚の大半が藩閥系だったことと大きく異なる。

政友会は内政については保守的、外交については対米協調の自由主義路線をとった。
それゆえ、西原借款は中止となった。
彼らの、支持基盤は財界や農村の富裕層だった。

政権の柱は積極政策であった。
高等教育の拡充、産業の拡充、鉄道網の拡充、国防の拡充である。
このなかで、高等教育については、それまで専門学校扱いであった
早稲田、慶応などの私立大学が、正式に「旧制大学」として扱われることになった。

一方で支持基盤の関係もあって、普通選挙については消極的であった。
当時、国際的には普通選挙が広がってきていたのにも関わらすである。
それまでも普通選挙権を求める動きは、20世紀に入る頃からあったのだが、
吉野作造の影響もあり、国民の間には普通選挙権を求める流れが強まっていた。

1919年から20年にかけて示威運動が繰り広げられた。
これに刺激をうけた憲政会と国民党は1920年に野党連合を形成して
普通選挙法案を国会に提出した。

これに反対した原は議会を解散し、その結果、与党立憲政友会が第一党となった。
原の考えは漸進的改革であった。
階級闘争としての普選法運動を否定していたのである(資料読む)。

このような原政権であったが、
1920年の恐慌によって積極政策が行き詰まってしまった。
また汚職事件が発生して、国民の不満がたまった。
そんな中、1921年11月、原敬は東京駅で刺殺されてしまった。

この後、
 21年11月 高橋是清内閣(政友会総裁、リーダーシップがとれず、内部対立が起きる)
 22年 6月 加藤友三郎内閣(海軍大将:非政党内閣)
 23年    山本権兵衛内閣(海軍大将:非政党内閣)
 24年   清浦奎吾内閣(枢密院偽証:超然内閣 内閣も貴族院議員で構成)、と短期
政権が続いた。

政権が流動化した理由は、山県の影響力が落ちたことが上げられる。
山県は、皇太子妃選定にあたって、候補に挙がっていた良子妃以外の人を考えていた。
そこで、21年、良子妃決定に反対する運動を繰り広げた。
宮中某重大事件と呼ばれた、この運動で山県は次第に孤立化するようになった。

さらに22年には山県が死亡する。
このことと関係するのである。

Posted by hajimet at 10:08 | Comments (0)


2015年2月7日
日本史授業 20150202 政党内閣の成立(1)

@寺内内閣
大戦中、大隈内閣につづき寺内内閣が成立した。
寺内正毅は長州閥で陸軍大将であった。初代朝鮮総督でもある。

このころ、民間では政治の民主化を求める声が高まっていた。
吉野作造が「民本主義」を唱えたからである。民本主義はdemocracyの訳であるが、
そのまま訳すと、国民主権の意味になってしまうので、
どの政体であっても国民主体で政治を行うという意味で「民本主義」と訳した。
国民のために政治を行うこと、国民の意見をとらえた政治をすることが要点である。

そのような中で超然内閣が登場したのである。
議会では寺内に対抗して、立憲同志会を中心として「憲政会」が結成された。
これに対して寺内は、1917年に議会を解散した。その結果立憲政友会が第一党となった。

しかし、寺内は政党の動きも無視することができず、
外交関係を統一するために作った「臨時外交調査委員会」のメンバーに
政友会の原敬と、立憲国民党の犬養毅を加えた。

A米騒動
ところで、第一次世界大戦による経済発展は、工場労働者数を増加させることになった。
彼らは都市に集中するので、米の消費量が増大することとなった。
しかし、農村の生産は停滞していたため、米価は上昇し、都市生活者の生活は苦しくなった。

その上シベリア出兵で軍用米を備蓄する必要が出てきた。これにともない、
米価はさらに上がることになった。

14年に1升10銭だった米価は、18年に入ると急上昇し、8月には1升50銭にまで上がった。
これは平均日給に当たる額である。

このような物価上昇に対して、投機目的で米を買い占めたり、
売り惜しみをする者が出てきて、民衆の怒りが高まっていた。

7月23日、富山県魚津で米価が値上がりした。
これに対して、8月3日魚津からほど近い西水橋町の漁師の主婦が、
米の県外移出を行うことを拒否するとともに、安売りを求めて米屋を襲撃した。
 
これが「女一揆」という題目で新聞報道された。
全国的に不満がたまっていたとであったために、騒動は一挙に全国に広がった。
1道39県、70万人が騒動に加わったとされる。
彼らは新聞社、米屋などを襲撃し、暴動化した。

政府は軍によって鎮圧をはかり、8月20日までには沈静化した(完全終結は10月)。
これまで秩父事件、日比谷焼き討ち事件などでも軍による鎮圧をはかったが、
全国規模(120地点、9万2000人出動)で展開したのは、これが初めてのことであった。

この事件の責任をとって、寺内は辞任した。

騒動は自然発生的に始まったものであった。
だが、無産者中心で、民衆団結の効果を人々に認識させる結果となった。
これをうけて元老、特に山県は、人々の力を押さえるためには、
政党内閣が必要と判断するようになった。
 
官僚中心による超然内閣政権では、このような事態をうまく収拾できなかったからである。

Posted by hajimet at 12:34 | Comments (0)


日本史授業 20150129 大戦景気

第一次世界大戦はヨーロッパが戦場となった戦争である。
自国の戦争でアジアを顧みる余裕はなかった
 
一方日本は戦争に参戦したものの、日本本土の損害はなかった。
 
そのため、欧州に代わって、
中国、インド、東南アジア、アフリカへ生糸、綿糸、綿布を輸出することができた。

さらに、欧米に物資を輸出することで好景気となったアメリカで
高級品の需要が増えたために、高級品の生糸の輸出が増えた。

この結果、日本は大幅な輸出超となった。
明治時代は一貫して輸入超による貿易赤字国であった。
実際、1914年に11億円の債務があった日本は、1920年に27億円の債権国になっていた。

さて、大戦中軍艦の需要が増えたこと、貿易が活発となったことで、船舶が不足した。
そのために、造船業が活発になるとともに、海運業も活発になった。
そして造船の原材料として使われる鉄鋼業も発展した。

さらに大戦によってドイツからの輸入が減少したため
薬品、染料、肥料などの化学工業が勃興した。
当時、これらの産業はドイツが特に進んでいた
(今でも、薬品の名前がドイツ風なのはこれに由来する)。

また化学工業では電気が必要なのだが、このころ長距離送電できる技術が開発された。
電気は単相交流で送電すると、減衰が激しく長距離送電は行いにくい。
三相交流の技術が開発されて減衰せずに長距離送電できる技術が開発され、
1914年会津猪苗代湖で発電された電気を東京まで送電するようになった。
その結果、工業原動力が蒸気機関から電力に移り始めた。

このように工業が発展したことで、工業生産量が農業生産量をこえた。
日本が農業国から工業国に代わったのである。会社数が1.7倍、資本額が3倍に増えた。
一挙に金を儲ける人もいて成金時代とも呼ばれた。西原借款もこのような背景で行われた。

一方で庶民の生活は苦しかった。一般に、景気がよくなるとインフレーションが起こるのだが、
物価の上がり方に給料の上がり方が追いつかず、実質賃金が目減りしてしまったからである。
このことが米騒動や普通選挙運動の伏線となる。

大戦景気は大戦の社会状況によって起きた好景気である。したがって、
大戦終了とともに終結に向かった。

Posted by hajimet at 12:31 | Comments (0)


日本史授業 20150129 第一次世界大戦(4)

6.第一次世界大戦の終結 
@アメリカの参戦
 17年2月1日 ドイツは「無制限潜水艦作戦」を開始した。
 中立国の商船も攻撃すると言うことである。本来、中立国の船を攻撃することは出来ない。

 米国は第一次世界大戦に中立を宣言していた。
 中立国の立場を利用してヨーロッパに武器を供給し、米国経済は潤っていた。
 しかしドイツにとっては、アメリカの武器で戦争が行われている状態を断ちたかった。
 特に、この作戦によって米国が商船を出さなくなれば、英国との団結を切ることができ、
 英国を倒せると。ドイツは考えた。
 だが、結果的にアメリカが参戦したために、ドイツのこの作戦は失敗に終わった。

Aロシア革命
 日露戦争の前後から、ロシアでは革命の雰囲気が高まっていた。
 16年、首都のペテルブルクで食糧難、燃料難がおこり、これがきっかけに
 17年11月3日にペテルブルクでストライキが起きた。
 これを鎮圧すべき軍隊は動かず、労働者はソヴィエト(評議会)を作った。
 その結果、ニコライ二世は退位し、11月7日、レーニンが一党独裁体制を築いた。
 そしてドイツに対して即時停戦した。

新ロシアからすれば、第一次世界大戦は資本家による戦争である。
資本家を否定する社会主義の立場からは、行うことのできない戦争である。
そこで、それまでの条約を破棄するとともに、戦争を即座に終結したのである。
その結果、1917年12月にブレスト・リトフクスク条約を締結して、
ドイツ、オーストリアと単独講和をしてしまった。
 
ドイツは西部戦線に軍を移そうとしたが、実際には移しきれなかった。
もはや戦車、自動車、ガソリン、ゴムがなかったからである。
 
第一次世界大戦は、18年8月休戦となった。
また、ドイツでも11月にドイツ革命が起こり、社会民主主義系の国家が成立した。

7.シベリア出兵(ロシア干渉戦争の一つ)
第一次世界大戦は終結に向かう一方で、資本主義国はロシア革命を圧殺しようとした。
フィンランド、シベリア、ウクライナから軍を進めた。
 
一方、日本はこの機会に北満州、沿海州に勢力圏を拡大しようとした。
満州の利権を分けた日露協約は、もはや存在しなかった。

18年1月、日米にシベリア出兵が要請された。
 
アメリカは日本のシベリア支配を恐れて慎重な態度をとった。
満州を門戸開放の場としようとしたアメリカにとって、
ここに日本の権益が伸びることは避けたかったのである。
 
しかし、シベリアに抑留されているチェコスロバキア兵を救済する必要が出てきた。
チェコをオーストリアから独立させるために、チェコ兵10数万がロシアに投降。
ロシア側は反革命勢力として武装解除された上、シベリアに送られたものだった。

7月、米国は「チェコ兵救援」を名目に共同出兵を提案した。
それによって8月、兵力と地域を限定して出兵することとした。
日本は12000の兵力であった。
 
9月にはシベリア鉄道とその短絡線に沿って、バイカル湖以東を占領した。
日本はシベリアに反革命政府を樹立しようとしていた。
ロシア革命に反対して亡命した「白系ロシア人」も多くいたのである。
そして、占領地域を足場にして中国全土、アジア大陸支配を目指した
そのため、兵力を20000に増強したが、増兵は日米間の対立を増大することとなった。

20年1月、チェコ軍は引き上げ、アメリカはシベリアから撤退した。
しかし、日本は情勢不安を理由として駐留を続けた。
このような日本の行動はソビエト民衆の反感を高めることとなり、
1920年にはパルチザン(遊撃隊、ゲリラ)が日本人居留民を襲撃する尼港事件も起きている。
日本は22年にシベリアから撤退するが、戦費10億もかけながら、得るところは何もなかった。

Posted by hajimet at 12:25 | Comments (0)


日本史授業 20150122 第一次世界大戦(3)

4.国交関係の調整
日本の参戦、山東省の権益確保、21カ条の要求は、欧米諸国、
特にアメリカの日本に対する警戒心を強めた。そのために国交関係の調整が必要となった。
ヨーロッパとは、ドイツ権益委譲の承認。アメリカとは満州の権益を調整が主題であった。

1519年9月 「ロンドン宣言」加入
 英仏露が単独不講和を決めた宣言で、これに日本も加入することで、
 日本も講和の条件について発言権を有することとなった。

1916年4月 第4次日露協約 
 極東における両国の特殊権益と、相互が攻撃された場合の協力(秘密条約)
 ただし、1917年、ロシア革命で、この条約は廃棄される。

1917年 イギリスと覚書を交換
 ドイツ権益継承を承認→海軍地中海進出

1917年 石井・ランシング協定
 日本の中国における特殊利益承認と、アメリカの門戸開放、機会均等の承認
  ただし、特殊利益について、アメリカは経済分野だけと解し、
  日本は政治、経済の両方と解したため、日米関係は好転はしなかった。

5.利権の拡大
中華民国は成立の背景などから、中央政府が弱く、各地に地方政府が出来ていた、
日本政府は、日本の政策に有利になる政権を支援した。大隈内閣は、北京政府ではなく、
南方政権を支援していた。

1917年孫文による広東政府が出来る(孫文は1913年に日本に亡命していた)。

寺内内閣は、それまでの武力による中国進出から
財政援助による支配権伸張に政策を変えた。

そこで、1917年、北京の段祺瑞政権に寺内の私設秘書の名前による「西原借款」を行った。
北京政府は袁世凱の死去に伴い、北方軍閥の段祺瑞が政権を取っていたのである。

日本は大戦景気でお金がだぶついていた。そこで、8借款、1億4500万円に及ぶ
巨額の借款をすることが出来たのである。

だが、この借款は、寺内内閣の瓦解ととも終わり、債権もほとんど回収出来なかったどころか、
中国の内戦激化の原因となってしまった。

Posted by hajimet at 12:21 | Comments (0)


2015年1月22日
日本史授業 20150119 第一次世界大戦(2)

(2)日本の参戦
第一次世界大戦はヨーロッパの戦争であり、日本が直接参戦する理由はない。
日英同盟は攻守同盟であるが、適用範囲はインド洋までである。
 
イギリスは8月1日、日本政府に対して参戦の可能性を伝えてきた。
開戦後、イギリスはアジアにおけるドイツ仮装巡洋艦の攻撃を依頼した。
ドイツは商船に仮装した巡洋艦を有していて、
商船だと思って近づいたイギリス軍艦を攻撃していたからである。
 
第一次世界大戦を日本にとっての天佑と考えていた政府は、
これをきっかけに、8月にドイツに宣戦布告した。
理由は、イギリスからの要請と、アジアにおけるドイツの拠点を一掃することであった。
 
この動きを見て、イギリスは仮装巡洋艦攻撃の以来を撤回したが、時已に遅かった。
9月以降、膠州湾、南洋群島のドイツ権益を奪取する。
 
だが、この動きは日本に対する列強の不信感を増加させた。
日本としては、ドイツ権益の接収を認めさせなければならない。
 
日本は1917年2月、イギリスの要請に従って、海軍の軍艦を地中海に派遣したが、
それはイギリスがドイツ権益の接収を認めたからであった。
 
(3)21カ条の要求
戦争によって列強は中国事情に目を向ける余裕がなかった。
一方で日本は中国問題を抱えていた。1922年に関東州、満鉄の租借期限が切れるからである。
そこで、この機会を狙って、租借問題を解決することと、日本の中国権益強化をはかろうとした。
1915年1月、日本は北京の袁世凱政権に21カ条の要求を突きつけた。
 
なお、中華民国成立後、中華民国政府の力が弱かったために、各地に様々な地方政権や
軍閥が出来た。日本政府は、自国の政策にとって有利な政府と、その時ごとに結びつく。
そのために、中国のどの政権と関係を持とうとしたかと言うことに留意しなければならない。
 
この時は袁世凱政権であった。孫文が中華民国を立てたあと、袁世凱が大総統となっていた。
袁世凱は自己が皇帝になって中華民国を帝国化しようと考えていた。
 
21カ条の要求の内容は
 1.ドイツ権益の継承
 2.関東州、満鉄の租借期限の延長(99年間)
 3.漢冶萍公司の合弁
 4.福建省沿岸の不割譲
 5.政府に日本人顧問と、警察の日中合同
 
2については、同様に満州の利権に関心を持つ米国の抗議があった。
また、5は、秘密条項であったが、第1次日韓協約や第3次日韓協約後の警察日韓合同と
同じく、主権侵奪の意味がある。
 
日本は1から4までは英仏などに伝えていた。
一方、中国では青島占領に対する不満と、火事場泥棒的な行動に対する抗議行動が広がった。
(現在でも青島は反日運動の中心地の一つだが、それにはこのような背景がある)。
 
だが、日本政府は5月7日に5項を除いた4項目を最後通牒として突きつけた。
ついに5月9日、要求は中国の調印する所となった。
 
中国は、何かあったとき諸外国の助けを、当てにすることは出来ないと悟り、
5月9日(のちに5月7日)を国恥記念日と定めた。
 
租借期限が延びた関東州では、組織の変更が行われ、
それまでの関東都督府が関東庁(行政)と関東軍に分けられた。
 

Posted by hajimet at 12:54 | Comments (0)


2015年1月21日
日本史授業 20150116 大正政変(2) 第一次世界大戦(1)

大正政変(2)
大正政変によって桂内閣は倒されたが、次の内閣も薩摩藩系の山本内閣だった。
民衆のエネルギーは倒閣に向かったが、そのエネルギーを、政党内閣結成の方向に
まとめることが出来なかったのである。そのために、再び藩閥系と言うことになった。
 
しかし、完全にそれまでの流れを無視することは出来ない。山本は立憲政友会の協力を
あおいだ。これによって政友会は分裂する。すなわち、政府に協力しようとする原敬を
中心とする人びとと、尾崎のように脱党する人が出た。
 
また、立憲国民党の犬養は政友会と断絶することになり、これにより憲政擁護運動は
終わってしまった
 
山本は、文官任用令を改正し、政党系も高級官僚になれるようにし、
軍部大臣現役武官制も緩和して、予備役、後備役も大臣になれるようにした。
(軍部大臣の緩和は大隈内閣で元に戻される)
 
また行政整理、財政整理も行ったが、
1914年、外国製の軍艦の輸入を巡る収賄事件が起きた(ジーメンス事件)。
これについて、国民、陸軍の反発が強まり、海軍関係の予算が議会で否決され、
退陣することとなった。
 
この次の内閣は第2次大隈内閣である(第1次は隈板内閣)。
大隈はすでに政界を引退していたが、国民人気が高いという理由で元老より指名された。
大隈が出ることで、立憲政友会に打撃を与えようとしたのである。
 
実際、1915年に行われた衆議院の選挙では、少数与党だった立憲同志会が、
立憲政友会を破って第一党になった。
 
これにより、大正政変のそもそもの原因であった、陸軍二個師団増強が議会で承認された。
時代はすでに第一次世界大戦に入っていたのである。
 
第一次世界大戦
(1)前提:三国同盟と三国協商=ヨーロッパにおける対立
 
ヨーロッパではドイツ、オーストリア、イタリアが三国同盟を組んでいた。
ドイツ、イタリアは新興国で、ヨーロッパにおける後進国。オーストリアはドイツ統一の中心に
なれずに、国力が落ちてくる時期であった。
 
ドイツは1890年ヴィルヘルム2世により、植民地を獲得する「世界政策」を採用した。
その勢力を進める軸としてベルリン、ビザンチウム、バグダードを結ぶ鉄道を計画する
3B政策を採った。
 
ドイツの国力強化とフランスの孤立化を図ろうとしたのである。
ドイツは普仏戦争の結果成立した国で、ドイツ皇帝の戴冠式はベルサイユ宮殿で行われた。
(外国大統領や首相が、わざわざ日本に来て皇居で就任式を行ったらどう感じるか?)
そのような経緯から、フランスはドイツに対して強い敵愾心を持っていた。
 
一方、1907年、露仏協商(日露戦争の対立軸だった)にイギリスが加わることによって、
三国協商が出来ていた(英仏協商 1904、英露協商 1907)。日本も三国協商側である。
イギリスは植民地の軸として、カイロ、ケープタウン、カルカッタを結ぶ3C政策を採った。
 
だが、カイロ-カルカッタ間は、ドイツの3B政策のラインと完全に平行することとなり、
英独が対立し始めた。
 
また、日露戦争によって極東での南下政策が失敗に終わったロシアは、
再びセルビアを拠点にバルカン半島に南下するようになっていた。これはドイツの軸と交叉する。
 
バルカン半島に勢力の交叉が起きると、これを「死の十字架」といい、
世界中を巻き込む戦争が起こる可能性がある。近代に入ってから少なくとも5回あった。
即ち、東方問題、第一次世界大戦、第二次世界大戦(本来はここでの対立ではないが、
結果的にここでの問題が火に油を注いだ)、
ユーゴスラビア危機、ウクライナ危機(クリミア半島)である。
 
というのもバルカン半島は民族関係が複雑で、いろいろな国が勢力を伸ばしてくる可能性が
あるからである。「ヨーロッパの火薬庫、弾薬庫」と言われるくらい微妙な地域なのだ。
 
1914年、ボスニアのサライェヴォでオーストリア皇太子がセルビア青年に暗殺された
ボスニアはオーストリア側の勢力圏の国、そこに訪問した三国同盟側の皇太子が、
三国協商側のロシアが拠点としたセルビアの青年によって殺害された。
 
両国は外交交渉で解決しようとした。周囲の国も外交交渉でまとまると考えて、
首脳も夏のヴァカンスを取るような雰囲気であった。
 
ところが、7月オーストリアがセルビアに宣戦布告した。
そうなると、同盟関係などによって多くの国が戦争に巻き込まれていった。
 
8月1日にはドイツとロシアが戦争状態になり、
8月4日にはイギリスとドイツが戦争状態になった。
 
なし崩し的に第一次世界大戦が始まったのである。
この戦争は、初めて飛行機、軍艦、毒ガスなどが使われる戦争になった。
 
戦争は短期戦で終わるとした大方の予想に反して、膠着状態に陥り、
3年間もの長期戦となってしまった。
 
このように、日本とは関係のない所で起きた戦争であったが、
日本もこの戦争に参加した。なぜ、参加したのかは次回に。

Posted by hajimet at 21:03 | Comments (0)


日本史授業 2015016 大正政変(1)

大正政変
前提
20世紀末頃、日本は対外的にも対内的も問題を抱えていた。
対外的には、朝鮮の独立運動を押さえることと、
中華民国における日本資産と居留民保護の問題。
 
対内的には不況対策と、社会運動、労働運動に対する対策である。
対外問題に対応するには、軍拡(増税)を行う必要があるが、
対内問題に対しては、財政整理と緊縮が必要になる。
 
与党や軍部は軍拡、積極財政路線を要求するのに対して、
国民は軍拡に反対する路線を支持していた。
 
このような中、第2次西園寺内閣は緊縮路線をとった。一方で海軍増強をはかった。
これに対して陸軍や山県が反発した。陸軍は辛亥革命の時に、対外資産を確保の必要から、
辛亥革命への介入を要求していた。しかし、西園寺内閣は列強と足並みを揃えて不干渉政策を
とった。このことを軍部は曖昧な外交とみていた。
 
1912年軍部は朝鮮対策のために
二個師団(独立した作戦行動のとれる最大の固定編成部隊)増強を要求した。
西園寺内閣は緊縮財政をとるために、これに反対した。
 
ところで、その最中、7月に明治天皇が死去して、大正時代になった。
また、美濃部達吉が『憲法講話』を出版するなど、新しい風潮が出てきて、
国民の間には新しい時代の始まりが期待されていた。
(新たに元号が変わると、新しい時代が来たように感じるものである)
 
そのなか、12年末に陸軍大臣上原勇作が単独で大正天皇に辞表を出した(帷幄上奏)。
陸軍と山県、軍部大臣現役武官制をたてに、新たな陸軍大臣を送らなかったために、
第二次西園寺内閣は瓦解した。
 
現行憲法では内閣総理大臣は内閣の長とされ、国務大臣の任免権を握る。
しかし、大日本帝国憲法下では総理大臣は国務大臣のひとりであって、
内閣の代表としての立場でしかない。総理大臣に任免権はないので、
このような上原のようなことが可能になるのである。旧憲法か何回か同様の事態が起きている。
 
山県ら元老が指名した次の総理大事は桂太郎であった(第3次桂内閣)
だが、藩閥に対する不満が国民の間にある上に、桂が大正天皇の内大臣兼侍従長に
就任していたために、藩閥が天皇の力を利用して政治を行うのではないかという反発がおきた。
 
これを背景に立憲国民党の犬養毅と、立憲政友会の尾崎行雄が中心となって、
12月17日、「閥族打破、憲政擁護」をスローガンとする国民大会を行った。
これが、各地に広がり、1913年に入ると、桂内閣は、国民党、政友会を切り崩すために
立憲同志会を結成した。これは第二党となったが、
かえって国民党と政友会の結束を強めてしまった。
 
1913年2月5日、尾崎は国会内で内閣不信任案を提出したが、
桂は国会を五日間休会とした。ほとぼりを冷ますという意味である。
不信任案が出されれば、辞職するか、衆議院を解散するしかないのだが、
時間をおこうと言うことである。
 
2月10日、国会は再開された。議事堂(日比谷)の周りを多くの国民、警官、憲兵が取り囲む中、
尾崎は胸に白バラの記章をつけて登院した。
だが、民衆の耳に聞こえてきたのは、再び休会と言うことであった。
 
これに失望、激怒した民衆は、派出所を襲撃し、
都新聞、国民新聞、報知新聞、読売新聞社などを襲撃した。
この暴動は広島、京都、大阪などにも飛び火した。
 
民衆の耳には休会しか聞こえてこなかったが、実は議会内では桂は辞職を決めていた。
衆議院議長から、「議会を解散すれば、国民の怒りは広がり内乱状態になる。それを
どうするかは桂自身が決めれば済むことだ」と説得されていたのである。
 
桂は2月11日、正式に辞職を宣言した。
その次に選ばれた総理大臣は海軍大将山本権兵衛であった。

Posted by hajimet at 20:27 | Comments (0)


2014年12月21日
日本史授業 20141218 農業、社会問題、社会主義思想

1.農業
日本の農業はアジア式農業に属していて、米作中心の零細経営が多かった。
明治に入り品種改良が進み、単位当たりの収穫量は増加していた。
だが、都市部の人口増大により、米の供給は不足し、米価も高騰した。
 
また、輸入品の方が安い綿花、麻、菜種の生産は落ちた一方、
輸出の主力となる桑、養蚕の生産量は増えた
 
一方、大地主は耕作が離れて、小作料に依存するようになった(寄生地主制)。
多くの小作人から小作料が入ってくるが、
小作料は生産量の一定の割合を現物で納める一方、
支払う地価は金銭で一定額を支払えば良いからである。
 
生産量が増えることと、米価の高騰は地主にとっては財産を増やすこととなった。
米を保管するための蔵をいくつも持ち、それを管理する人を雇い、
大きな敷地で「殿様」と呼ばれるような生活となっていった。
 
地主はカネを運用するために、企業を興したり、公債や株式に投資したりした。
一方で小作人は非常に貧しい生活に陥った。

2.社会問題

(1)労働組合
工場制工業の勃興によって賃金労働者が増えた。
その大半は繊維産業で、女子が中心であった。
女工と呼ばれた女子労働者は小作人の子女など、家計を助けるために働かされた者であり、
工場から賃金を前借りして働きに出されたケースが多い(「おしん」参照)。
労働時間は6時から21時まで食事以外は休みなしが常態であり、苛酷な労働状況だった。
糸から出る細かい繊維片が浮遊し、つねに湯を沸かしているため湿度100%近く、
そこで働くため、肺病(結核)も多かったが、
企業はそれを救済することもしなかった(「あヽ野麦峠」参照)。
 
そのような中、
日清戦争前後には待遇改善や賃金引き上げ要求のストライキが頻発するようになった。
それらを背景にして1897年、高野房太郎、片山潜らを中心として
労働組合期成会が結成された。アメリカの労働問題に刺激を受けて結成されたが、
社会主義運動(無産主義運動)の影響も受けている。
 
また鉄工組合や日本鉄道矯正会が結成されて、熟練工を中心に
資本家と対立するようになった。

(2)公害問題
産業の発達に伴い、公害問題が発生するようになった。
1891年足尾銅山の鉱毒事件が起きた。渡良瀬川流域の深刻な鉱毒問題をおこした。
栃木県出身の衆議院議員であった田中正造らが解決に向けて活動し、
議員を辞めた後に天皇に直訴しようとしたこともあった。
この問題は解決まで15年かかったが、
結局、利根川との合流点の谷中村を遊水池にすることで解決した。
 
なお、遊水池の中心に墓地が残っているため、遊水池の形はハート型をしている。

(3)政府
労働問題を押さえるために、政府は治安警察法を制定するとともに、
労働問題を緩和するために工場法を制定した。

(4)社会主義政党
このような資本家と労働者との対立などを背景として、
社会主義政党が作られるようになった。
 
1901年、最初の社会主義政党である「社会民主党」が設立された。
安部磯雄、幸徳秋水、片山潜らが中心となったが、
創党直後に治安警察法によって解散させられた。
 
一方で幸徳秋水、堺利彦らは1903年に平民社を結成して、「平民新聞」を出版した。
その後1906年に「日本社会党」が結成されたが、
議会政策派(片山潜)と直接行動派(幸徳秋水)の対立が起こり、
1907年に直接行動派が権力を握ると、解散を命じられた。
 
その後1910年の大逆事件によって、
1920年頃まで社会主義活動は日の目を見ることはなくなった。

(5)社会主義思想
この頃の資本家と労働者の対立の背景には社会主義(無産主義)の影響も強い。
マルクスやエンゲルスによって体系化されたもので、「科学的社会主義」という。
 
これはマルクスが提唱した言葉で、一方の
フーリエやサンシモンの社会主義を「空想的社会主義」と呼んだ。
 
マルクスによれば、人間の徳は「生産」である。
生産を通じて自分と他人が交流するのであるが、
現時点では労働者は生産手段を持っていない。
生産手段は資本家が所有しているのであって、
労働者は商品と同じ扱いである。
 
生産したものは自分で分配することが出来ず、資本家によって分配される。
従って、利益は直接労働者に入らず、資本家に搾取される。
 
労働者が人間の本姓を取り返すためには、社会的革命が必要である。
 
ところで、
「人間の意識がその存在を規定するのではなく、人間の社会的存在がその意識を規定する」。
社会、文化のような「下部構造」が、
国家機構、政治、法律のような「上部構造」を決定づけるのである。
 
資本主義が発達することで経済が発展するが、
それによって資本家と労働者の対立が激化する。これは資本主義の構造的な問題である。
対立が激化すると経済の発展も阻害されることになるから、
下部構造の経済の発展によって、上部構造も変えなければならない。
そのために革命が必然的に起こると考えた。
 
このような思想が1980年代まで社会の対立軸の一方に強くあったため、
この考え方自体は知っておく必要がある。

Posted by hajimet at 11:37 | Comments (0)


日本史授業20141215 重工業の形成

1890年代から1900年代にかけて、日本では重工業が発展した。

(1)日清戦争
日本は賠償金を軍事産業に振り向け、造船奨励政策をとった。
これによって三菱長崎造船所が作られた。
だが、造船材料の鉄鋼は輸入しなければならなかった。
そこで、1897年八幡製鉄所を設立し、1901年に操業した。
工場はコストがもっとも低くなる点に立地するが、製鉄所の場合は原料が
安く入手出来る場所に立地する(原料立地、例:セメント工場(チチブセメント)。
すなわち、清国大冶の鉄を輸入しやすい港があり、地元の筑豊炭田の石炭が利用でき、
地元農村の労働力を期待できたからである。

(2)日露戦争後
政府は外債の拡大と造成によって戦後経営を進めるとともに、
政府の保護の下に民間重工業も発展した。

鉄鋼:1907年 日本製鋼所が室蘭に設立。幌内、空知、夕張炭田の石炭、
良港の室蘭港の存在により立地。これにより軍事、造船の水準が世界水準となった。
 
機械:池貝鉄工所(池貝氏創立、当時は芝区金杉川口町)が1905年に国産旋盤を作製。
 
電力事業の勃興。このころは家庭で使われる電灯程度の発電であったが、
小規模の発電所が各地に作られるようになった。

また、資本の集中により、財閥が出現した。
寡占化が進行することによって企業はカルテル(企業協力)、トラスト(企業合同)、
コンツェルン(企業連携)の形態を取り始めるが、財閥は企業連携の形態である。
三井財閥では1909年に三井合名会社という持ち株会社を設立し、三菱、安田、住友も
同様の会社を興した。

貿易は植民地の比重が高くなった。
満州には綿布を輸出する一方で大豆粕を輸入した。
朝鮮へは綿布を移出するとともに米を移入した。
朝鮮米は良質とされたため、朝鮮米の移入は日本国内の農業に大きな影響を与えた。
台湾からも米や原料糖移入などが行われた。
 
また、貿易全体では、綿布、生糸が輸出の主力であったが、
原料綿糸、軍需品、重工業資材などの輸入の方が多く、
貿易赤字は深刻となった。

Posted by hajimet at 11:32 | Comments (0)


日本史授業20141213 近代産業の発展

1.産業革命・軽工業
 (1)松方財政
松方デフレ後、輸出の回復が回復した。また、
1885年 銀本位制が確立した
本来は金本位制だが、金の準備が間に合わなかったことと、
アジア貿易が銀本位制だったからである。
これにより物価が安定し、金利が低下し、株式取引が活発となった。

金利が低下すると、預金をしていても利息が付かないから、お金を使うようになる。
同時に、株を扱った方がもうけが大きいから、株式取引が活発となる。
 
ところで、株とは企業の経営に必要な資金を細かい株に分割して、
倒産した場合のリスクを減らそうとしたもの。企業に利益が出れば、
持ち株分の配当を受けることが出来る。

このような流れの中で1886年から89年に第1次企業勃興(会社設立ブーム)がおきた。
紡績業(綿、絹は製糸)と鉄道がきっかけである。
 
紡績業は幕末にイギリスから安価な綿製品が流入したことで、一時衰退した。
だが、輸入綿糸を用い、飛び杼による手織機改良、ガラ紡の発明などで生産を回復していた。
その中で、1883年大阪紡績会社が機械紡績機を使用して開業した。
これに刺激を受けて紡績業が勃興し、同時に第一次産業革命が始まった。
 
鉄道は、1881年に政府の保護受けて日本鉄道が開業し、成功した。
それまでの官営鉄道だけでは建設が間に合わなかったこともある。
1889年に官営鉄道の東海道線が全通したが、
日本鉄道は1889年に上野青森間を全通させ、山陽、九州などでも鉄道が開通した。
このように鉄道が全国に引かれるようになったが、
戦争の軍事輸送などで一体的に運用する必要があるときに、
各会社間の調整などに手間取った。
そのようなことを背景に1906年第1次西園寺内閣の時に鉄道国有法が制定された。

このような第1次企業勃興は1890年の恐慌で終わる。
 
恐慌とは突然景気が悪化すること。景気は不況−回復−好況−後退を繰り返す。
通常人びとは景気の動きを先読みしながら業務計画を立てることが出来る。
しかし、突然景気が悪くなると、予想していなかった事態が起こることになるから
「恐怖におちいり、慌てる」ことになるのである。
 
なお、バブルは景気の動きから離れて、見かけ上好況のようになっている現象である。
前回の日本のバブルは不動産業を中心に起きた、
明治の初期には東京で兎のバブル、ヨーロッパではチューリップの球根でバブルが
起きたこともある。一種のハイの状態だからここから景気が落ち込むと反動も大きい。
1980年代のバブルの後遺症は未だに癒えていない。
統計上は好景気はあるのだが、「実感なき好景気」と言われている。

恐慌の原因は、まず、株式への払い込みが集中し、銀行が資金を回収出来なかったこと。
新設の会社に銀行が資金を融資するとき、銀行は安価で企業の株を買取り、
創業後高く売ることで資金の回収を考えていた。
しかし、恐慌が起きてそれがうまくいなくなった。
 
また前年の凶作で物価が上がったことで、企業の経営計画が狂ったこと、
そして生糸の輸出が半減したことが理由として挙げられている。

この恐慌で日本銀行が市中銀行を通じて産業界に資金を供給する態勢を整えた。
日本銀行(中央銀行)の機能の中に金融により景気を調整する金融政策があるのだが、
これまでその態勢は整っていなかったのである。
ただし、本位貨幣制度の下では現行の管理通貨制度ほど効果的にはできないが、
一般的に好況の時には、貨幣の流通量を減らし、景気が過熱しすぎないようにし
(使えるお金が減るから)、不況の時には貨幣の流通量を増やすようにする。

(2)日清戦争後
日清戦争により日本は巨額の賠償金を清国から得た。
これを軍事面の拡充に使うとともに、金融、貿易面の整備に使った。
それにより、1897年に貨幣法を制定して1988年まで使われた。
これによって金本位制が採用された。日本は新貨条例によって貨幣単位として
円、銭、厘を採用し、金本位制を採用していたが、すでに見てきたように実質的には
銀本位制であった。
 
金と銀の交換比率は1対16であったが、日清戦争前後には1対32になっていた。
多くの国が金本位制に移行していたため、円も安くなっていた
(念のため、1ドル=100円と1ドル=200円では後者の方が円安。
日本から同じ1000円のものを米国に輸出しても、100円時代は10ドルするのに対して、
200円時代は5ドルで買えるから)。
 
円安のために一時的に輸出に有利になるが、機械、鉄鋼など多くのものを輸入していたので、
国内経済に与える影響も大きかった。同時に交換比率が不安定であるために、
長期的には貿易に与える影響が大きいと考えた。そこで日清戦争の賠償金
(+遼東半島を返還したときの賠償金)を金に換算して受け取ることとして、
これを準備金として金本位制を実施して、貿易を振興した。
同時に、日本勧業銀行、日本興業銀行のような特殊銀行を設立させた。

日清戦争後鉄道、繊維業を中心に第二次企業勃興が生じたが、
資本主義的恐慌が起きた。過剰生産が原因である。
この頃の貿易は産業革命の進展に伴って綿花や機械、鉄の輸入が増え、
大幅な貿易赤字となっていた。

(3)日露戦争後
日露戦争後、資本の集中がおきた。
 
資本主義経済は多くの供給と多くの需要の間で成り立つことが前提となっていて、
自由に経済活動をしても需要と供給のバランスが決まるから、
神の見えざる手」に導かれるかのように経済は安定、発展する。
その基準になるものが価格である。
 
しかし、カネによる競争だから、経済的に力が落ちるものは淘汰される
弱肉強食の世界でもある。一方で力のあるものは大企業へと成長する。
SONYは東京通信工業というラジオの修理屋さんであった。
 
この結果、市場は寡占、独占状態となる。大企業へと成長し、資本金も大きくなるために、
株式会社が出現するようになる。歴史的には帝国主義の段階に入る。
 
紡績会社も大紡績会社が出現し、独占的地位を占めた。
大形力職機を用いて大量生産を行い、朝鮮、満州に進出した。
一方、地方では、それまで問屋制家内工業の時代であったが、
豊田佐吉の力職機の発明によって、小工場に転換するところが増えた。

紡績の発展は輸入の増加を意味する。
原料綿花をインド、清国、中国から輸入していたからである。
発展すればするほど輸入超過が酷くなる。これを解消するために製糸業が注目された。
製糸業も手動の座繰製糸から山梨、長野を中心に器械製糸に変化した。
これにより1900年には輸出量が、清国を抜いて世界一位となった。

Posted by hajimet at 11:20 | Comments (0)


2014年11月25日
日本史授業 20141121(2) 南満州経営

1.南満州経営
日露戦争に勝利した日本は、大連と旅順のロシア租借地を譲り受けることになり、
1906年清国より同地を租借して、関東州と名付けた。
 
関東州の統治機構は関東都督府で、南満州鉄道の管理、軍の管理などを行った。
一方、長春以南の東清鉄道の経営のために南満州鉄道株式会社が創設された。
満鉄は広大な付属地、撫順炭鉱などの鉱山経営権など莫大な権利を持っており、。
ここを警備する権利を持っていた。これは関東州に限らず、満州まで達していた。
 
さらに、関東州は租借地であるゆえ、日本人保護のため領事館も設けられていた。
この結果、関東州は関東都督府、満鉄、領事館の三頭体制で、それぞれの権力関係が
複雑に絡み合う状態であった。だが、これによって満州進出の足がかりが出来た

2.米国の門戸開放
米国にとって、門戸開放の狙いは満州であった。
外の地域の勢力圏が比較的確固としたものであったのに対して、
満州は日露の角逐など勢力が不安定だったことがあるのであろう。
 
米国は日本の満州権益の独占に反対した。
それゆえ、1905年に満鉄の日米共同経営を提案したが、日本側の拒否にあった。
これによって日米関係は悪化し、1906年、サンフランシスコなどのカリフォルニア州を中心に
日本人排斥運動が起きた。
 
移民の日本人が底辺層の職種に就業したため、米国民の職が奪われたということに対する
反発と、黄禍論が作用したものであった。
その後1909年にも満鉄中立化を列国に提案している。
 
このようなことで、日米が開戦するのではないかという憶測が流れたほどである。

3.日本の対応 
しかし、日本は第2次日英同盟第1次日露協約によって満州権益を国際的に承認させた。
第2次日英同盟は「清帝国ノ独立及領土保全」をうたうが、
紛争が起きたときは第1次日英同盟のときのような中立の態度をとるのではなく、
互いに闘に参加する攻守同盟が特徴であった
 
イギリスは米国の門戸開放政策を支持していたが、もし日米が衝突すれば英国は
日本側に立って参戦しなければならないことになるから、
結果的に日本の立場を支持するしかなくなるのである。
 
結局、日露戦争、満州経営をめぐって列国は対立の道を進み始めた。
日英、露仏が強調する一方で、
ロシアは南下政策の矛先をバルカン半島に向けドイツと対立
ドイツは資本主義が本格的に進展し始めて、近東に進出しようとしてイギリスと対立
日本アメリカと対立するようになった。

4.辛亥革命
ところで、1911年、中国で辛亥革命がおこり中華民国が成立し、
孫文が臨時総統に就任した。この国は三民主義民族、民権、民生)を国是とした。
満州権益の強化を主張する陸軍は、辛亥革命への干渉を主張したが、
政府は列国の意向と、財政問題を根拠に不感症主義の立場をとった。

Posted by hajimet at 22:38 | Comments (0)


日本史授業 20141121(1) 韓国併合(2)と南満州経営

c.韓国側の対応と韓国併合
1905年第2次日韓協約によって韓国は日本の保護国となり、植民地化への道を進み始めた。
これに対して自国の独立を守ろうとしたのが、皇帝高宗であった。
 
1907年7月、高宗はオランダのハーグで開かれた第2回万国平和会議に密使を送った。
日本側は派遣前から事態を把握していて偵察をしていた。
結局日本側にばれてしまい、失敗に終わった(ハーグ事件)。
 
高宗は世界に対して「日本の不当性」をアピールしようとしたことと、
ロシアの力を借りようとしたのであった。
 
朝鮮半島で日本を牽制するとすれば、ロシアしかないからである。
 
しかし、このときロシアも露仏同盟のフランスも朝鮮半島は関心外になっていた。
というのも1907年、日仏協商で両国はアジアでの利益を相互に承認していたし、
この事件の直後のに締結された第1次日露協約では両方の勢力圏を、
日本は韓国、南満州。ロシアは北満州、内蒙古(のちに外蒙古)としていたからである
(この部分は秘密協定)。

一方、伊藤博文は高宗に対して、条約違反をせまり、
同月高宗は退位して純宗に皇位を譲った。
結局高宗は国王になったときから、自国の独立に力を注いだ王だと言うことが出来る。
 
また、同月、第3次日韓協約。施政改善を指導するということで、日本が内政を掌握した。
さらに、韓国軍解体。これによって、外交、内政、軍事と国家の基本的権利が
自由にならなくなったことを意味する。
 
韓国軍の解体で武器が日本の勢力をはね除けようとする人びとに渡った。
これによって義兵運動が展開されたが、
実質は内戦であった(当時の新聞で朝鮮の動きは、戦時扱いで描かれていた)。

このような状況を見て、伊藤は韓国併合は時期尚早と考えた。
歴史が長いこと、しっかりした文化を持っていて、併合しても一筋縄でいかないことを
感じていたからである。
 
しかし陸軍は早期併合論であった。
また桂内閣が「適切な時期に韓国併合」を決めたことで、統監を辞職した。
だが、伊藤は1909年6月ロシアと会談するためにハルビンに行き、
安重根(アンジュングン)に暗殺された
 
結局、1910年8月28日、韓国は日本に併合され植民地になった
調印は寺内正毅李完用(イ・ワンヨン or イ・ワニョン)の間で行われた。
日本では韓国併合を見越した新聞記事が早くから出ていたが、
そのような記事を書いた新聞は、韓国では輸入禁止となった。
また、併合条約は8月23日に締結されたが、そのことは韓国内では一切秘密にされていた。

この様子は当時の韓国でどのように受け止められていたか、プリントを見て見たい。
http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/blog2220_115512.htm

d.併合後
韓国は植民地、「朝鮮」となった。
植民地とは外国から見たときには「その国」であるが、自国内では「外国」扱いになる。
法律も制度もまったく異なるからである。
首都、皇城、漢城から京城になった。
統治機関は天皇直属の朝鮮総督がつき、京城の朝鮮総督府が統治した。
初代の総督は寺内正毅で、以降、現役の軍人(陸軍中心)が総督となった。
また、警察も憲兵が上層部に入り、厳しい統治を行った。これを武断統治という。
 
統治の最初の段階で総督府は土地の所有権を確認する土地調査事業を行った。
所有権のはっきりしない土地は総督府の所有となった。
生産手段を失った農民は国外に移るしかなかった。南部は日本へ、北部は満州に移動した。
総督府に所有権の移った土地は、日本人地主や、朝鮮を開拓する東洋拓殖会社
払い下げられた。


Posted by hajimet at 21:37 | Comments (0)


2014年11月20日
日本史授業 20141117 日露戦争後の影響、韓国併合と南満州問題(1)

(1)日露戦争後の影響

a.国際情勢の変化
日露戦争でロシアが敗北したことで、極東におけるイギリスの敵はいなくなった。
これによって国際関係は変わった。すでにアフリカにおける衝突を回避するために、
英仏は1904年に英仏協商を締結した。また、極東進出が挫折したロシアは、
もはやイギリスの敵ではなかった。むしろ、近東に進出するドイツを英露で牽制する必要
出てきた(3B政策と3C政策)。そのため1907年英露協商が締結され、さらに日本とフランスも
1907年日仏協商を締結した。これによって、イギリス側とドイツ側が対立する第一次世界大戦
の枠組みが出来上がった

b.極東における非ヨーロッパ人の勝利
日露戦争は近代史上初めて非白人が白人に勝利した戦争であった。このことがアジアの民族
運動に刺激を与えた。トルコ、インド、フィンランド(アジア系民族、フィンランディア)、中国など。

c.植民地獲得
日本が植民地を獲得して、本格的に帝国主義の道を取り始めた。すなわち勢力拡大を図った。
その方向は満州と台湾以南の地域である。しかし、フィリピンは米国が植民地としていたし、
満州はアメリカの門戸開放の目的地である。そのため日米が対立することとなり、
太平洋戦争へと繋がった。

(2)韓国併合


a.日露戦争中
韓国は日露戦争の始まる直前の1904年1月21日に局外中立を宣言した。しかし、すでに部
隊を駐屯させている日本はこれをみとめず、日露戦争開始後の2月に日韓議定書を締結した。
これは日韓の軍事同盟であって、日本側が戦争遂行に必要な施設を韓国から接収できる
というものであった。これによって、韓ロ間の条約は廃止された。この条約によって、日本は
韓国の通信網と航海権を接収し、軍事輸送用に京釜線、京義線を敷設した。
 
さらに7月に第1次日韓協約。これにより顧問政治が行われ、財政、外交に顧問が就くように
なった。外交顧問が外国人だが、日本政府が推薦するため日本の利益に適った人が就任する
ことになる。また、財務は国の運営に関わる費用を出す部門だから、純粋に財務だけでなく
関係するかなり広い範囲まで財務顧問が助言することとなった。なお、竹島の領有宣言は
1905年2月である。ロシアが島を測量したことも背景にあり(測量は軍事目的、当時の日本は
陸軍陸地測量部が測量していた)、日露戦争の帰趨がはっきりした時期でもあった。

b.日露戦争後
ポーツマス条約の会談を行っている最中の1905年7月29日、桂タフト協定(秘密協定)が
締結される。日露戦争後日本がフィリピンに進出することを恐れていたアメリカと、勢力圏を
調整したものであった。その内容は、日本が米国のフィリピン領有を認めるとともに、米国は日本の韓国に対する優越権を認めるというものであった。続く8月12日に第二次日英同盟
締結。第一次日英同盟はロシアに対抗するものであるから、ロシアが敗北すれば最早存在
意味を失う。そのために新たな内容とした。それは、日本がインド防衛を肩代わりする
代わりにイギリスは日本の韓国における特殊利益を認めるというものであった。
さらに9月5日にポーツマス条約。これによって、清国、ロシア、英国、米国の勢力が韓国から
排除された

これを受けて1905年11月 第2次日韓協約。この条約は、日韓併合時代についてどのような
立場から論ずるにしても、避けて通ることの出来ない条約である。条約締結時の伊藤博文の
行動や皇帝の印がないことをどのように評価するのか。日本側は国際法を遵守しているし、
印の不要な形式の条約だとする一方、現在の韓国側は国際法違反で、印がないため無効と
している。もし無効なら、その後の植民地支配は違法と言うことになるから、この条約を
どのように見るかは非常に重要な意味を持つことになる。
 
この条約によって韓国は外交権を喪失して、日本の外務省が韓国の外交を行うこととなった。
また天皇直属の統監を京城(ソウルの日本側の呼称。韓国側は漢城、皇城と呼んでいた)に
置き、韓国の政治を援助することとなった。このように外交権を失った国のことを(国際法上)
保護国」という。「保護国」はこの時期だけ存在した国家形態で、いきなり植民地支配を
するのは適切でないという風潮が出てきたために考え出された形態である。
フランスがチュニジアを保護国にしたのが、保護国の最初である。

Posted by hajimet at 21:50 | Comments (0)


2014年11月18日
日本史授業 20141112 中国分割と日英同盟(2)

(3)日英同盟
北清事変のとき、ロシア軍は満州を事実上占領した。
名目はシベリア鉄道を満州でショートカットする東清鉄道を保護するということである。
しかし、鉄道だけでなくその附属地なども含んでいる。

また、ロシアは朝鮮に圧力を加えてきた。
このような状況の中、日本はそれまでの対露政策を変更することになった。
それまでは協調外交をとっていた。冬にロシア艦船を長崎に係留していたりもした。

伊藤、井上は満韓交換論で日露の勢力範囲を分けることを考え、ペテルブルクへ行った。
しかし、何れは両者が再び衝突するであろうという懸念があった。
両国とも新興工業国であって、利害を求める場所が共通だったからである。
そのため、山県や小村寿太郎は日英同盟論を採った。
この方が日露で協商した後、イギリスと関係を再調整するよりも有利だったからである。
しかも、日本は工業立国のためにイギリス資本に多く依存していた。

イギリスもまた、中国弱体化に脅威を感じ、日本の軍事力を利用してロシアを牽制しようとした。
そこで両国は1902年2月に日英同盟(第一次)を締結した。
両国とも清韓それぞれに特殊権益を持っていること、
それを守るために軍隊を出す事は認められるが、その場合、一方は中立であることとした。
日露が衝突した場合に、英仏が衝突しないようにするためである。

これで、
日本は日露が衝突した場合にイギリスの援助が期待できるようになり、
イギリスにとってはロシアを牽制することが出来るようになった。
また、世界史的には露仏同盟に対する日英同盟という、対立軸が出来たことを意味する。

ロシア軍は一度撤退したが、1902年にシベリア鉄道が開通すると
再び、満州での兵力を増強するとともに、韓国の竜岩浦(ヨンアムポ)に軍を進めた。
これについて日本と露西亜は交渉を行った。勢力圏を分けようとしたのである。
北緯39度で勢力圏を分けるという考えもあった。しかし、交渉はうまく行かなかった。

日露戦争
日露戦争は日清戦争に比べて兵力の大きな戦争である。
100万の兵が送られ、22万名が死んだ。各村で数十名が死んだことになる。
各地の神社では日清戦争の慰霊碑よりも、日露戦争の慰霊碑を目にする。

また、石炭をめぐる戦争でもあった。東アジアで良質の石炭は主に日本から出ていた。
日露両国とも戦争に備えて、1902年頃から石炭の備蓄をはじめていたが、
ロシアはドイツ商人を通じて日本の石炭を手に入れいていた。
しかし、戦争が始まると、日本産石炭はイギリスが購入し、ロシアには回らなかった。
また、ロシアの艦隊はバルト海にいたが、これをウラジをストークまで移さなければならない。
しかし、途中の港で、イギリスの押さえている港には入港できない。
 
英国が中立を宣言しているためである。
中立は黙認義務、避止義務、防止義務があって、
いずれにしてもロシア軍艦はイギリス側の港に入れないのである。
そのため良質な石炭が手に入らなかった。

1904年2月8日国交を断絶。仁川、旅順を攻撃。翌日には黄海の制海権を押さえた。
宣戦布告は2月10日

日本は1903年頃から、キリスト教者の内村鑑三や、社会主義論者の幸徳秋水らによる
非戦論をおさえて、開戦論が強まっていた。対露同志会や七博士の影響が強かった。
 
一方でロシアも皇帝(ツァー)の専制政治に対して労働者や失業者の不満がたまっていて、
国民の視線を外国にそらす必要があったのである。しかし、両国とも資金がない。
そこで、日本は好況だったロンドンで外債を発行し、ロシアもパリで外債を発行して資金を得た。

1904年12月、日本は軍事拠点の旅順要塞を陥落させた。
日本は港口に船を沈めたり、周囲から旅順を攻撃しようとしたが、
ロシア側は旅順の周囲全体を要塞化していて、日本側はここを落とすことに苦労した。
あまりに遺体が多くなり、一時休戦して、
両国の兵が遺体をかたづけなければならないほどであった。

3月には奉天会戦(陸戦の最後)が行われ、5月には日本海沖海戦が行われた。
11月にバルト海を出発したバルチック艦隊は対馬海峡を通って日本海に入るルートをとった。
時速7ノットと20ノットの船が一緒にいて、性能も新旧交ぜこせの艦隊である。
しかも燃料が悪く、野菜不足で脚気にかかる兵士も多かった。
 
一方で日本軍は韓国の鎮海に拠点を置いていたため、戦場はすぐ目の前であった。
新型の船で性能も良い。バルチック艦隊と闘っても、勝敗は目に見えていた。

このころ、日露両国とも資金難に陥っていた。
一方で、国内では与謝野晶子「君しにたまうことなかれ」に代表される反戦論が唱えられ始めた。

戦争はアメリカのT.ルーズベルト大統領の仲介で終えることとなった。
アメリカは戦争によって日本の満州進出が進むことを恐れ、
血の日曜日事件のような革命の動きがヨーロッパに波及することを警戒した。

9月、小村寿太郎、高平小五郎、ヴィッテ、ローゼンの間でポーツマス条約が締結された。
 1.日本の韓国に対する特殊権益と指導権。
 2.旅順、大連の租借地を清の許可を取って日本へ。
 3.長春、寛城子以南の東清鉄道の支線を清の許可を取って日本へ。
 4.北緯50度以南の樺太を日本へ割譲。
 5.沿海州、カムチャツカの漁業権を日本へ。

条約には賠償金が入っていなかった。両国とも入れる余裕がなかったのだが、
国民は資金が尽きていることは知らされておらず、また戦争で物価が高くなっていたため、
これを不満に感じた。

そのため、日比谷公園で講和反対の国民大会を開いたが、
それが暴徒化し、日比谷焼打事件に繋がってしまった。

Posted by hajimet at 15:13 | Comments (0)


日本史授業 20141112 中国分割と日英同盟(1)

(1)租借
日清戦争により中国の弱体化がはっきりしたため、列国が中国の分割と勢力圏を設定した。

98年 ドイツ:膠州湾(青島)
     ドイツはビスマルク失脚後「世界政策」に舵を切った。
     しかしそれまでのドイツの植民地は植民するには適切でなかった。
     そこで中国に目をつけ、イギリスが目をつけていなかった良港、膠州湾を租借した。
    ロシア:大連、旅順(南下政策)
    イギリス:威海衛(ロシア牽制のため)
        九竜半島(香港の隣。100年間租借。1999年香港返還) 
99年 フランス:広州湾

各国は鉄道の敷設権や鉱山の経営権を手に入れて影響圏を設定していった。
ところで、租借地は期限を決めて、その国から土地を借りることであるが、
実際は事実上の植民地である。ドイツが租借という方法をとったのは、
ドイツが三国干渉を行ったため、植民地を獲得するわけには行かなくなったからである。

一方アメリカは中国進出が遅れた。
 98年 ハワイ併合、フィリピン植民地化(米西戦争)。
フロンティアが太平洋西岸に達したときには、すでに中国は分割された後であった。
そのため、ジョン・ヘイ国務長官は「門戸開放」「機会均等」を主張し、
自由貿易体制を維持するように主張した。

 cf.自由貿易と保護貿易

(2)義和団の乱と北清事変
清国国内では内政改革の動きが出てきて、康有為、梁啓超らを中心に変法運動が起きた。
彼らは1898年、光緒帝の許可を取って実際に政治改革を行った。
だが、この改革は西太后によって止められてしまった(百日維新、戊戌政変)。

このような政界の動きは、
外国の圧力を強く感じている中国人にとっては不満のたまるものであった。
特にドイツの進出の著しい山東半島では、
義和拳という反キリスト教民俗信仰団体を中心にして、外国人を攻撃する動きが出てきた。
彼らは「扶清滅洋」をスローガンとして活動した(義和団の乱)。

同年、乱は北京にまで広がり、外国公使館を攻撃するに至った。
清国政府も義和団に同調して、各国の宣戦布告をした(北清事変)。
清国政府はこれによって外勢を追い返させると考えたのである。

公使館はその国を代表して相手国政府と交渉する公使の勤務する場所で、
その国の領域と同じように保護されなければならない所である。
それゆえ、その場所は警備されなければならない場所でもある。

各国(日英米露独伊墺)は連合軍を結成して義和団を制圧した。
このとき、日本軍の力は大きかったが、
第2次山県内閣は最初から連合軍に加わることには消極的であった。
中国に勢力を広げるためであった。
そこで、3回、出兵要請が来てから、軍を北京に出す事にしたのである。


結局1801年 北京議定書が締結された。これにより清国政府は
 ・賠償金
 ・公使館の地域を治外法権にすること
 ・公使館警備のため、守備隊を駐屯させることを認めることになった。

北清事変鎮圧に貢献した日本は「極東の憲兵」と目されるようになり、
中国に勢力を拡張し、ロシアを牽制し、朝鮮に進出する足がかりを作った。
 

Posted by hajimet at 14:04 | Comments (0)


2014年11月17日
日本史授業 20141110 立憲政友会の成立

三国干渉
国民にとっては寝耳に水であったが、「臥薪嘗胆」のスローガンの下、軍備拡張を支持した。
戦争の結果、日本は多額の賠償金を得ることが出来た。これにより資本主義が進展した。
また、朝鮮の市場を確保したことにより、紡績が好調となり、第一次産業革命が進んだ。
さらに、銀2億両を金に換算して受け取ったため、金本位制が確立するなどの効果があった。
 
一方朝鮮ではロシアが進出してきて、日本の進出を押さえたい朝鮮政府は、ロシアの勢力を
引き込んだ。一方、これを不服に感じた日本の三浦梧楼は、1886年深夜王宮に忍び込んで、
閔妃を殺害し、大院君を担ぎ出そうとした。しかし、この事件は漏れてしまった(乙未事件)。
 
高宗はロシア公使館に避難したが、1887年ここから出て、国号を「大韓帝国」に変更した。
朝鮮という国号は、明、清国から冊封体制の下で、王に与えられたものであったからだ。
清国との関係が切れたことで、独立の国であることを占めそうとしたことと、
王が皇帝になる事によって、清国や日本と同格の国であることを示そうとした。
高宗は皇帝を象徴する色である「黄色」の服を着るようになった。
 
清国は国の弱体化が明かになり、列国に分割されるようになった。
一方で、民族的自覚が高まり、「滅満興漢」「扶清滅洋」の傾向が強く出るようになった。
 
立憲政友会の成立。
(1)隈板内閣
日清戦争は日本の国内の様子も変化させた。
資本主義化が飛躍的に発展して市民の発言力が伸びたこと、
政府も軍備拡張のために市民の協力が必要になったことなどがあげられる。
 
すでに第2次伊藤内閣の時、自由党と政府は提携していたが、
1896年、第2次伊藤内閣では自由党の板垣退助が内務大臣として入閣し、
同年、第2次松方内閣でも進歩党(旧立憲政友会)の大隈が外相として入閣した。
 
第2次松方内閣は、財政破綻による増税問題で衆議院を解散したが、
結果は自由党の敗北に終わって退陣し、続いて第3次伊藤内閣となった。
 
伊藤内閣は政党の支援を受けられなかったために、超然主義をとるしかなかった。
そのため、伊藤系と山県系官僚で内閣を構成した。
だが、これに反発して、自由党と進歩党は合同して憲政党を結成した。
憲政党は衆議院の90%近い議員で占められたため、
伊藤は議会運営の見通しを失って辞職し、
大隈首相、板垣内相によって構成される第1次隈板内閣が成立した(98年6月)。
この内閣は、陸海軍大臣以外はすべて憲政党で構成された。
日本で最初の政党内閣である。
 
だが、自由党系と進歩党系の内部対立と、藩閥系の圧力で内閣は思うように運営できなかった。
さらに尾ア行雄が自由党系を攻撃しようと、「共和演説」をしたが、これに対する反発から、
尾アは文部大臣を辞職することとなった。そして、憲政党は分裂し、旧自由党系が憲政党、
旧進歩党系が憲政本党を名乗った。
 
これによって、98年11月隈板内閣は辞任し、第2次山県内閣が成立した。
 
(2)立憲政友会の成立
第2次山県内閣は、自由党の協力を得て、地租増徴案を通過させた。
しかし、山県は
99年に文官任用令を改正し、政党の影響力が行政に及ぼさないようにし、
00年に軍部大臣現役武官制を定め、現役の大将、中将以外は大臣につけないようにした。
さらに、00年に治安警察法が公布された。
 
これは事実上超然主義の形が変わっただけだったので、
協力関係だった自由党は山県を批判し始めた。
一方、
伊藤は政治を行おうとすれば、自分が引っ張ることの出来る政党が必要と考えるようになった。
第3次伊藤内閣の失敗などが背景にある。
この利害が一致して、1900年立憲政友会が結党され、伊藤が総裁となった。
これにより、政府と政党の対立は妥協にいたり、政党政治の基礎が出来上がった。
 
そして、第4次伊藤内閣が成立したが、山県系の貴族院の反対にあい、退陣した。
 
次の内閣は桂太郎内閣である。山県の後継の長州閥であった。
一方で、立憲政友会は西園寺公望が、伊藤の後継として総裁となった。
 
この二人の間で政権がやりとりされる様になったために、この時代を桂園時代という。
一方で伊藤、山県は政界の表舞台から引退し、元老として政界を裏からリードするようになった。

Posted by hajimet at 19:55 | Comments (0)


2014年11月6日
日本史 20141104(2) 日清戦争

日清戦争
日清戦争は豊島沖の海戦によって始まった。
イギリスは当初日清間の衝突に難色を示していたが
日英通商航海条約の締結によって、日本支持に変わっていた。
 
日清戦争だが、宣戦布告は8月1日であった。
戦時国際法によって戦争を始めるためには、次の4段階を踏まなければならない。
1.交渉中止、2.国交断絶、3.宣戦布告、4.両国外交官の交換
この時代、日本は国際法を厳格に守れることを諸外国に示すため、
国際法を厳格に守っている。戦争にも国際法学者を同行させ、
戦後国際法を守ったことを示す本も出している。
 
日清戦争開戦の理由は
・朝鮮の独立
・東洋平和の維持であった。
 
戦争の帰趨は9月に決まった。
平壌(へいじょう、ピョンヤン)の戦闘で陸軍が勝ち、
黄海海戦で北洋艦隊に勝ったからだ。
(北洋艦隊は李鴻章が創設した、清国の近代式軍隊)
 
11月には旅順口を攻撃。遼東半島の先端で、湾口が狭く、水深が深い。
周囲は山に囲まれているため防禦に適している。戦略的に重要な拠点であるため、
日清、日露両戦争ともにここを巡って戦いが行われている。
北洋艦隊はここで船の修繕を行っていた。
 
そして、2月の威海衛の戦いで北洋艦隊は壊滅する。ここは北洋艦隊の拠点であった。
終戦交渉は始まっていたが、日本は威海衛の戦いまで交渉を伸ばしていた。
終戦の条件を日本に有利にするためである。
 
日清戦争に対して、日本国内は歓迎ムード一色であった。
それまで軍事費、条約改正をめぐって対立していた議会は、全会一致で臨時軍事予算を可決し、
民間では福澤が「文明と野蛮の闘い」、内村鑑三が「シナを覚醒させる」とした。
 
このような中で戦争に勝ち、下関条約を結ぶ(4月17日)。
 日本側全権 伊藤博文、陸奥宗光
 清国側全権 李鴻章
 
1.朝鮮の独立を認める。清国との宗属関係に関わるもの一切を廃止
  (これにより日本が朝鮮に進出しやすくなる)
2.遼東半島、台湾、澎湖列島の割譲
  (遼東半島ほぼ全部。のちの関東州よりはるかに広い範囲)
3.銀、2億両の支払い
  (日本の産業革命の進展)
4.揚子江沿い4港(沙市、蘇州、重慶、杭州)の開港。
 (日本が大陸に進出しやすくなる)
 
日本が戦争に勝った理由は、
 1.清国の弱体化と腐敗。
   西太后が権力をもつ時代で、皇帝との二重権力構造になっていた。
   統一的な政策がとれなかった。
 2.近代化のあり方。
   日本が西洋式の近代化路線を採った一方で、清国は中体西用路線をとった。
   清国もそれなりに近代化を進めていたが、限界があった。
 
   政治体制が変わっていないからである。日本は明治維新で新たな政治体制に
   なったため、近代化路線をとることができた。実は戦争が始まるまで、日清どちらが
   優位かははっきりしていなかった。しかし、この戦争で日本が勝ったことによって、
   歴史的には日本の近代化路線の方が優位だったことが確定した。
 
これにより、清国と朝鮮の宗属関係は断たれたのみならず、政治的に清国の影響は排除された。
 
三国干渉
ところが、これに対して、ロシア、フランス、ドイツが抗議をしてきた(1895年4月23日)。
ロシアはフランス、ドイツ、イギリスを誘ったが、イギリスは断った。そのために
三国干渉となった。
 
実は、清国の弱体化にともなって、列強は清に進出しようとして注目し始めていた。
それだけに、日清戦争の帰趨は列強の関心事であった。
 
清は「眠れる獅子」と言われていて、本格的に手を突っ込むことがためらわれていたからである。
しかし、「眠れる獅子」は「死んだ獅子」だった。そのようなことを背景に三国が干渉してきた。
 
遼東半島の返還を要求した。
表向きの理由は
・清国の都を危うくする
・朝鮮の独立を有名無実にするというものだった。
遼東半島から北京が至近距離であること。朝鮮を南北から日本とその勢力が挟むからである。
 
しかし実は、
ロシアは南下政策によってシベリア鉄道をウラジオストークに延ばしているところで、
不凍港を有する遼東半島に注目していた。
つまり、ロシアの進出の拠点を日本が押さえたことに反発した。
 
ドイツ、フランスはロシアの目をバルカン半島から極東に向けさせる目論みがあった。
対立軸を変えようと言うことである。さらに、イギリスと対抗関係にあるフランスは、
これによってイギリスを牽制できるとも考えた。
 
干渉を受けた日本は、5月5日に干渉を受け入れることとした。
 ・戦争をする余裕はないこと。
 ・交渉で妥結する可能性も少ないこと。
 ・これを口実に、清が下関条約の批准を遅らせようとする動きが見えてきたことがある。
 
しかし、国内にとっては「寝耳に水」の事態であった。(つづく)
 

Posted by hajimet at 09:48 | Comments (0)


日本史 20141104 朝鮮問題(2)、

漢城条約
甲申事変ののち、日清間は天津条約を結んだ。
天津は北京のそばの町で、東京に対する横浜にあたる。
両方の軍隊が衝突しないように
 1.両軍の撤退 日本は済物浦条約で交換保護の目的で兵を送っていた。
 2.朝鮮に事件が起きて軍を出すときは、互いに相手国に知らるせこと
  事件が解決したら速やかに撤兵すること。が決められた。
 
しかし、朝鮮では清国の力が圧倒的となり、日本は政治的に後退した。
だが、清との対抗は必要である。そのために壬午軍乱後、軍備拡張を図った
  1878 参謀本部
  1882 軍人勅諭
  1888 鎮台を師団に改編。これによって、軍の性格は治安維持から対外戦争に変わった。
初期議会で軍事費が問題となった理由も、このことが背景となっている。
 
また、朝鮮、清に対する国民感情は悪化した。 
 福澤諭吉は「脱亜論」を発表して、朝鮮、清は切り捨てて、日本だけで
西欧化の道を進むべきと主張した。福澤は甲申事変まで朝鮮の「近代化」を考えていたが、
そのような「近代化」の道を清、朝鮮ともとらなかったからである。
 
一方で日本の経済的進出は進んだ。 
政治的進出と、経済的進出は必ずしも一致しない。
 
93年までの朝鮮からの輸出の9割が日本向けであった。
その多くが米、大豆で、松方財政の影響で工業化が進み、労働者が多く住む関西に送られた。
関西に労働者が集中したこと。交通ルートの関係で、朝鮮から船で関西に行きやすいことが
理由である。また、このころの朝鮮米は、等級の上のものが多かったとされる。
 
一方、朝鮮では米価が高騰し、窮乏状態になる人も増える。朝鮮は日本に比べて夏の気候が
安定しない。梅雨前線がどこで留まるかによって旱魃になったり、洪水になったりする。
そのため、飢饉が発生しやすい。そのため、たびたび、穀物の輸出を禁止する防穀令をだした。
 
しかし、日本に米を輸出する商人は、予め必要経費を農民に貸付け、
収穫、輸出で回収するようにしていた。防穀令が出されると、貸付が回収出来ない。
商人保護のため、日本側は朝鮮に損害賠償を求め、最後通牒を突きつける事態になった。
これを防穀令事件という(1889)
 
甲午農民戦争(東学の乱)
このような社会情勢を背景として、1894年2月、甲午農民戦争が起きた。
きっかけは、全羅道の郡守の圧政に対して、農民が蜂起したことである。
その蜂起を東学が指導した。
 
東学は迫り来る西洋、日本(西学)に抵抗することと、
平等思想から、朝鮮の両班(ヤンバン)体制に反対するという、朝鮮の民俗信仰である。
 
農民蜂起は、
あっと言う間に内乱状態となって全羅道一体に広がり、
朝鮮政府はこれを押さえることが出来なくなった。
そこで、1894年6月、宗主国である清に援軍を依頼し、清は朝鮮に軍を派兵した。
一方で、天津条約によって出兵の連絡を受けた日本政府も、
公館保護などを理由に朝鮮に派兵を行った。
 
この状況を受けて、内乱は停戦した。そのため政府は両国軍に撤退を申し入れたが、
日本軍は撤兵せず、朝鮮の内政改革を要求した。
最初の提案は日清両国で朝鮮の内政を改革するという提案であったが、
この改革案は清国の呑めるものでなかった。
 
宗属関係を否定するものだったからである。
当然のことながら、清はこれを拒否したため、日本は単独で内政改革することを目論んだ。
日本は王宮に軍隊を送り、大院君にクーデターを起こさせ、内政改革を断行した。
これによって清朝間の宗属関係は断たれた。1894年7月25日
 
同日、日本軍は豊島(ほうとう、プンド)沖で清国の北洋艦隊を奇襲攻撃した。
日清戦争の始まりである。
 
 

Posted by hajimet at 09:09 | Comments (0)


2014年11月3日
日本史 20141031 朝鮮問題(1)

朝鮮問題
1876年、日本は朝鮮との間に日朝修好条規を結び、朝鮮は開国した(日本側の立場)。
朝鮮では閔氏を中心として、日本式の開化政策を始めた。
 
朝鮮では大院君と閔氏政権が対抗関係となる。
大院君は国王の父親で、自己が王を経験していない人に与える称号で、
本名は李昰応(りかおう、イハウン)。
大院君の運動が功を奏して、高宗は幼くして王になり、実権を握っていた。
 
一方で、高宗も成長して、閔妃(びんひ、ミンピ)と結婚した。
そのために、閔氏一族の政治権力が伸びた(勢道政治)
そして大院君と対抗するようになる。
 
日朝修好条規が結ばれたのは、大院君から閔氏に政権が移った時期であった。
それまで大院君は鎖国政策をとっていたのである。
 
閔氏政権も大院君も、その後結びつく国が変わっていく。
朝鮮半島は様々な勢力が集まってくる場所で(この時代は日清露(英))、
その中のどの勢力と結べば、国が維持できるかが課題となっていたからである。
 
さて、朝鮮では開化政策が行われ、新式の軍隊が造られたが、
一方で従来の軍も残された。しかし、権力争いに敗れた方は令遇される
(現在の韓国でもそれははきりしている)。
 
旧軍は給料(米)が遅配となり、ついには石の混ざった米が配られた。
これがきっかけとなり、1882年、壬午軍乱が起き、大院君が権力を握ろうとしたが、
失敗し、閔氏政権は宗主国である清に接近し、朝鮮は清の影響力が強い国となった。
 
日本は公使館が襲撃されたり、館員が殺されたりしたため、
朝鮮との間で済物浦(さいもつほ、チェムルポ 仁川近くの港名)条約を結んだ。
 
日本側は朝鮮への進出を目論むために、朝鮮の現状を変えることを考えた。
1884年、甲申事変が起きた。中心人物は金玉均(きんぎょくきん、キムオッキュン)。
福澤諭吉が支援していた。福澤は清国、朝鮮を日本のように近代化させ、
共に西欧と対抗することを考えていたのである(脱亜論を発表する前である
 
しかし、事変は文字通り三日天下で終わった。宗主国の清が出てきたからである。
宗主国は藩属国が攻撃された場合に、藩属国を守る義務がある。
豊臣秀吉が朝鮮を侵攻したときに明が軍隊を送ったのもそのためである。
 
それとともに、清にとって、何が何でも朝鮮に軍を送らなければならない理由があった。
1884年、清仏戦争で清は藩属国だった越南を失った。
清国にとって最後の藩属国が朝鮮なのである。
 
冊封体制は、王が皇帝にその地域の支配を認めてもらうと言うこと共に、
皇帝と王が平和な関係を結んで皇帝を守るという意味もある
朝鮮を失えば、清は丸裸になってしまうのだ。
 
そのために清軍が朝鮮に送られた。福澤たちは金玉均のはしごを外してしまった。
結果的に金玉均は日本に亡命。その後、引渡をめぐって日朝間の政治問題になり続ける。
日本も金玉均を小笠原に移したりしたが、最後は上海で朝鮮側によって殺害された。
墓の一つが、青山墓地にある。
 
この結果、朝鮮では清国の力が圧倒的になった(大院君は一時清国に拉致される)。
そして、日清間で天津条約、日朝間で漢城条約が締結された。
 
実は、日本側も済物浦条約によって、公使館護衛の目的で、朝鮮に兵を駐在することを
認められていたのだ。そのままだと、日清軍が衝突しかねない。
そのために条約が締結された(つづく)。
 
 
 

Posted by hajimet at 11:03 | Comments (0)


2014年10月18日
日本史 20141016(2) 条約改正

条約改正
憲法改正などの西欧の制度の導入は条約改正を睨んでの動きでもあった。
安政の五カ国条約以来、日本不平等条約(領事裁判権(治外法権)、関税自主権無し、
片面的最恵国待遇)の下にあった。それを対等にしようとした。、
 
1.岩倉使節団 72年
 改正予備交渉の失敗
 
2.井上馨外務卿(外務大臣)
 極端な欧化政策。欧化することで西欧と対等と言うことを示すため。
  鹿鳴館外交(管弦楽の伴奏、ダンスパーティー…しかし、管弦楽の水準はどうだったのだろう。
          今もその傾向があるが、当時の日本人にとってファとシは出せない音だったはず  
          かえって西欧と違うことを際立たせただけではないか(独り言))
 82年 東京で予備交渉。〜84年
 86年 本会議 87年一応の了解。
  領事裁判権:撤廃
  関税:輸入税を平均11%、輸出税を5%とする(自主権は、なし)
  
しかし、これを実現するために、
外国人の内地雑居各裁判所の半数以上の裁判官が外国人西欧の法律の制定施行
条件となっていた。 だが、これでは、経済力の弱い日本の産業は外国人産業に潰される
恐れがあるし、外国人が西欧法を使って裁判をするのでは、
質的に領事裁判権が撤回されていないことと同じである。
 
これに対する反発は国内で強まった。同時に井上の極端な欧化政策に対する不満も
重なった。さらに86年に起きたノルマントン号事件の裁判の結果も不満を加速させた。
イギリス船ノルマントン号が紀州沖で沈没したとき、船長は日本人乗客を助けなかったが、
イギリスの領事裁判所は「英語が通じなかった」という船長の主張を通して、
船長が無罪になったというものであった。
 
結局伊藤首相は条約改正交渉を中断し、井上は辞任した。
 
3.大隈重信(黒田内閣)
井上を受けて、大隈は交渉方式を変更した。個別に交渉することとして、日本に好意的な
国から条約を締結しようとした。
 
89年 アメリカ、ドイツ、ロシアと条約締結を行ったが、これも国内の反対を受けた。
大隈は秘密交渉を行っていたのだが、条約の内容が漏れたからである。
それは、大審院に外国人裁判官を置くこと、西欧法を作ることを宣言する(宣言のみ)と
なっていたからである。
  
大隈は玄洋社の来島恒喜に襲撃され、辞職。
政府は世論を読み誤っていたことがこの結果を招いた。
 
4.条約改正
(1)青木周蔵外務大臣
 91年、青木はイギリスと条約改正交渉を開始した。
この当時、ロシアがシベリア鉄道の工事を開始し、極東における勢力バランスが
変わったからである。イギリスからすれば、自国の利権が侵される危険があった。
そのために、立憲体制が整い、経済力などがつき始めた日本に接近して、
ロシアに対抗しようとしたのである。
 
だが、この交渉は91年の大津事件で一旦中断する。
 
ロシア皇太子ニコライがシベリア鉄道起工式出席する途中で日本に立ち寄ったのだが、
大津で津田三蔵に切りつけられる。政府は皇室に対する殺人罪未遂で起訴したが、
大審院院長児島惟謙の主張を受けた初審裁判所は、謀殺未遂で判決を下した。
(司法権の独立)
 
大津事件を受けて青木は辞任する。次の榎本武揚外相の時は交渉は進展しなかった。
 
(2)陸奥宗光
しかし、その間も、日本の法治国家としての体制、軍事力強化、経済力増強は続き、
イギリスとしては日本と手を組む必要性を強く感じることになった。ただし、清国と日本の
どちらに重点をおくかについては天秤に掛けていた。
 
陸奥宗光は青木にイギリスとの交渉をさせ、条約が調印された。
1894年7月 日英通商航海条約(99年施行)
これにより、領事裁判権は撤廃(外国人裁判官の件は、なし)、相互的最恵国待遇
認められた。関税自主権は触れていない。
 
というのも条約締結は日清戦争のわずか9日前だったからで、清国にも利権を持っている
イギリスの了解を得る必要があったからである。それまでに、条約締結をはかった。
 
各国も日清戦争終了後条約改正を行った。
 
(3)小村寿太郎
完全自主権の回復は1911年まで待たなければならなかった。だが、これによって、日本は
条約上も列国と対等の関係になる事が出来た。だが、すでに明治44年。改正交渉は
明治一代かけて行われ、晴れて解決したと言うことが出来る。

Posted by hajimet at 09:24 | Comments (0)


日本史 20141016(1) 初期議会

初期議会
憲法制定により、帝国議会が開かれることとなった。
・第1回衆議院議員選挙
  選挙権:25歳以上男子で直接国税15円以上納入している者(制限選挙
       土地で平均1.8ha以上持っている者で、全人口の1.1%、41万人ほど。
  議席数:12万人に1議席の割合で、小選挙区制。300議席
  被選挙権:30歳以上男子
 
選挙には民権派が結集してきた(民権運動が議会活動に転換した)。
これに対して、黒田首相は超然主義を宣言した。
 
選挙の結果:立憲自由党+立憲改進党(民党⇔吏党)で171議席(過半数)
 
・第1議会 90年11月(山方T)
 …議会は予算審議を基本とするので、基本的に11月頃に開かれる(現在も)
 政府:軍拡のための増税案
      主権線(国境)と利益線(朝鮮)防衛のため
 民党:民力休養、政費削減を主張(民権運動で主張した地租軽減の流れ)
 結果:自由党の一部を切り崩して予算案通過。
 
・第2議会 91年11月(松方T)
政府:海軍費増税案
 海軍大臣樺山資紀は「日本があるのは薩長政府のおかげ」と「蛮勇演説」を行った。
民党:反対、予算を1割削減して通過させる
 
これに対して政府は予算決議を拒否して衆議院を解散した。
92年、第2回衆議院議員選挙、内務大臣品川弥二郎による大規模な選挙干渉がおこる。
しかし、民党が過半数を占めた。そのため、第3議会(92年5月)は選挙干渉が問題となり、
政府案は通らず、松方内閣は辞任する結果となった。
 
・第4議会 92年11月 (伊藤U 元勳内閣
松方内閣辞任を受けて、再び伊藤内閣が成立した。伊藤は内閣の力を強めるために、
元勳を集めた内閣を作った。
 
政府:海軍増税案(第2議会からの懸案)
     自由党の支持を取り付ける。
     和協の詔書:海軍増強のために、内廷費から6年で180万円、官費も10分の1拠出。
       →増税案通過。
◎このころから、自由党は政府に接近する。
 

Posted by hajimet at 09:04 | Comments (0)


2014年10月13日
日本史授業 20141010(2) 法定の編纂

法典の編纂
憲法制定とともに、諸法典も編纂された。
条約改正のためである(西洋と同じ法典が作れることを示すため)。
 
日本は明治維新の時、それまでの武家法に代わって律令で法典を作ろうとした。
実際に律令系の法律が出来ている(新律綱領、改定律例などの刑事法典)。
 
しかし、遣欧使節団以来律令では近代化に対応出来ないことを認識して、
西洋法制をとることに転換した。
 
政府はフランスからボアソナードを招き法典編纂を行った。
したがって、最初のうちはフランス法の影響の強い法律が出来上がった。
 
1880年 刑法(1907年から現行刑法)、治罪法(刑事訴訟法)
1890年 民法、商法、民事訴訟法、刑事訴訟法。
  この時期、ロエスレルの指導などもあったため、民法以外はドイツ法系となった。
  民法はボアソナードの指導でフランス法系だったのだが、家族法においても、
  西欧的な要素が強すぎて、民法学者の穂積八束らの反発を招いた(法典論争)。
 
家族法の分野は、どうしても保守的な傾向が出る所で、現在でも夫婦別姓をめぐる
問題で、保守的な立場も強く存在していることを紹介した。
 
 この結果、民法は1896年と98年にドイツ法系風に修正して施行されることとなった。
 これによって、家族法は、家父長制をとり、戸主の権限の強い法律となった。
 
憲法がドイツ法系を採用したため、、憲法制定前後から、日本の法学界全体で
ドイツ法の影響が強まった。
 
これ以降、法律はドイツ法の圧倒的な影響の下で扱われることになっていった。

Posted by hajimet at 20:37 | Comments (0)


日本史授業 20141010 憲法制定

憲法制定
 
1881年、政府は国会開設の詔を出して、それまでに憲法を制定するとした。
すでにプロイセン流の憲法を採用することにして、天皇の力を強めようとした。
 
1882年、政府は憲法調査のため、伊藤博文、伊東巳代治、西園寺公望をヨーロッパに派遣した。
訪れた国は、イギリス、ベルギー、オーストリア、ドイツ。報告書には外の国名も見られる。
伊藤はベルリン大学のグナイスト、ウィーン大学のシュタインから憲法学、行政学を学んだ。
 
帰国後、憲法草案作成に入る。お雇い外国人ロエスレルの指導。
作業は秘密に行われた。国民の権力を制限する方向で
作製される憲法だったので、内容が公になると民権派が収まらなくなるからである。
そのため、東京から離れた金沢文庫の旅館で作業をした。しかし、盗人が入り、
アタッシュケースが盗まれるという事件が起きた。
 
結果的に草案は紙くずと思われたのか、裏の竹藪から発見されたが、
再びこのような事件が起きないようにと言うことで、
伊藤の別荘のある夏島で作業が続けられた。
現在は埋め立てられて、日産の追浜工場になっている。
 
このように憲法草案を作っている一方で、憲法体制に合うように諸制度が整えられた。
1884年 華族令
 華族を「公侯伯子男(爵)」に分け、これまでの華族の外に「国家に功績のあった者」も
華族とした(そうでないと伊藤博文らが華族になれない)。華族は永世華族であった。
 
次に1885年 内閣制度
 太政官制度に代わる。行政の権限を強くするためで
  内閣総理大臣:天皇に対して責任(初代、伊藤博文)
  国務大臣:各省に対して責任。閣議を構成。天皇に対して責任
 内閣の外に
  宮内省、宮内大臣(宮中の行政職)。
  内大臣:天皇を常時補佐。天皇御璽、日本国事を保管(今も内と外は分けられている)。
  皇室財産の創設
 
そして地方制度の改革モッセの助言で山県有朋が中心となって作った。
 1888年 市制・町村制(市会の設置。東京、京都、大阪は有産者が少ないため特別市制)
 1890年 郡制・府県制
 
さらに、憲法が制定された。1889年2月11日公布(発布)
 2月11日は今なら「建国記念の日」。歴史が古すぎていつ国が出来たかは分からない。
(中国や朝鮮は、王系が代わると国号が代わるから、その「国」の成立年は分かる)
2月11日は「伝説上、初代(神武)天皇が即位したとされる日」。
神武以降、現在の天皇まで切れていないことになっている
 (天智、天武とか継体天皇の問題は置いておいて)。
 
神武の祖先はアマテラス、その祖先はイザナギ、イザナミ(ここで神話を語る)。
すなわち、「天皇=神」をイメージづけようとしたのである。
 
このような憲法であるが、アジア最初の憲法ということで国民は喜んだ。
しかし、内容は知らされていない。「絹布の法被」が貰えると喜んでいる人もいる。
そのような様子をドイツ人医師ベルツは「だが、滑稽なことに誰もその内容をご存じない」と
記した(ドイツ語を直訳すると「だれもその内容を知らないのだ!!!!」となっている。上手い訳だ)。
 
そのような憲法の内容だが、
 
                   ・帝国議会=天皇を協賛
欽定憲法       ・ 統治権を総覧 ・国務大臣=天皇を補弼。天皇に責任
         |                      ・司法権=天皇の名に於いて
  天皇−  ・統帥権
万世一系       |
神聖不可侵    ・天皇大権
元首 |
    |
  臣民(臣=誰かのためにある者=天皇のためにあるヒト)
        臣民の権利。法律で制限できた(法律の留保)=天皇の恩恵で与えた権利だから。
 
憲法の制定の意義は
  ・アジア最初の立憲体制
  ・条約改正に有利になる(日本が西洋法制を運用できることを明らかにしたから)
 
 
 
 
 

Posted by hajimet at 19:53 | Comments (0)


2014年9月30日
日本史授業 20140929 松方財政

自由民権運動が活発な一方、政府は財政再建を行わなければならなかった。
明治10年代半ばは烈しいインフレーションが進行していたからである。その理由は、
 1.西南戦争の戦費支払いのため不換紙幣を多く発行したこと。
 2.76年の銀行条例改正で、発券銀行の兌換義務がなくなり、
  不換紙幣が多く発行されたこと。
 3.幕末以来の輸入超過で、正貨が不足したこと。
 
政府にとっては、歳入の多くが固定額で入ってくる地租であったため、
実質的に歳入が減少し、財政難に陥った。そこで、財政建て直しを図った。
 
1.大隈財政
  すでに大隈重信財務卿は、歳入を増やすために、
   官有物払い下げ
   酒造税の増税を行った。
しかし、官有物払い下げに当たっては、政府の投資額を全額払うことが条件であったため、
当初払い下げ件数は少なかった。

2.松方財政
大隈が1881年失脚すると松方正義が財務卿となった。
松方は、増税によって歳入を増やすと共に、軍事費以外の歳出を抑制した。
それとともに、正貨の蓄積を図るため、デフレ政策を行った(松方デフレ)。
 
1882年、日本銀行を設立。
1883年、国立銀行券の銀行券発券を中止し、市中銀行化させる。
  ようやく、紙幣の価値と正貨の蓄積量が等しくなったために、
1885年、日本銀行が銀兌換券の発行を開始。
  金の蓄積が出来なかったことと、東アジア貿易が銀で成り立っていたことがある。
 
このような対策によって物価が安定した。
このことを背景に
 ・産業革命の開始
 ・政商が鉱工業の払い下げを受けたため、それを元手にした財閥化のきっかけとなる。
一方で、
 ・商工業者の破産が増えた。
 ・米、繭の価格の下落。
   農村の困窮→地租を払えない農民の小作化=寄生地主制の進展
      棄農者が都市に流入。貧困層となる。下級士族の貧困と合わせて社会不安化
       =民権運動に影響。
 
このように様々な影響を与えることとなった。

Posted by hajimet at 15:17 | Comments (0)


日本史 20140929 自由民権運動(2)

1880年4月、国会開設の要望が高まったため、政府はそれを制限しようと
集会条例を定めた。
 ・集会を開くとき、結社を作るときに届出、許可が必要。
 ・届出に反する演説をしたときは、臨席の警官は中止または解散を銘ずることが出来ること。
 ・学校関係者など、集会や結社に参加してはならない人の指定。
 
一方、国会期成同盟は第2回大会で意見がまとまらず、参会者の一部は1881年19月に
自由党を結成した。
 
たまたま1881年、北海道開拓使官有物払下事件が起きた。
当時は官有物の払い下げは政府がそれまで投資した額を回収しなければならなかった。
開拓使官有物は10年で2000万円投資していたが、
それを薩摩出身の黒田清隆が同郷の五代友厚らに
非常に有利で廉価な条件で売却しようとした。そのことが発覚したのだ。
 
このことが発覚すると、民権派が政府攻撃を始めたことと同時に、
大隈重信が政府を攻撃し。
 
これに対して、10月12日、伊藤博文らが大隈重信を追放し、払い下げも中止した。
これを明治十四年の政変という。
 
同日、国会開設の詔も発表された。その内容は、
 明治23年に国会を開設すること、
 それを政府に委ねること。
 国会に必要な制度などは、天皇が直接制定すること(欽定憲法)である。
 
・詔が発表されたことは、民権派の一応の勝利であった。
 国会開設の要求が通ったからである。しかし、一方でそれは政府の政府の主導であった。
・政府内は大隈(肥前)が追放されたことで薩長の権力が強まった。
 この後長いこと薩長中心の政権が続くことになる。
・民権派は急進派と漸進派にわかれた。
 要求がとりあえず通ったことに対する評価の違いである。
 
政変を前後して政党ができた。
 @自由党:総裁=板垣退助
   フランス流自由主義思想。急進的  
    農民や地主、豪商が支持。(利害関係が多すぎでうまく運営できない)
 A立憲改進党(1882):総裁=大隈重信
   イギリス流立憲主義。漸進的
     王室の存在を認める
    都市の知識人が支持
 B立憲帝政党(1882):福地源一郎ら
    国粋主義の御用政党。83年に潰れる。
 
また、私擬憲法も多く作られた。
 福澤諭吉系の交詢社「私擬憲法案」
 植木枝盛「日本国国憲桉」などが知られる。
また、武蔵五日市の農民の勉強会で作製されたいわゆる「五日市憲法」も
農村の知的水準を知らせるものとして重視される。
 
 

Posted by hajimet at 14:47 | Comments (0)


2014年9月13日
日本史 20140912 自由民権運動(1) 

不平士族が反乱を起こしている頃、
土佐を中心として言論により政府に反対していく動きがあった。
それが自由民権運動である。
 
自由民権運動とは議会を設立し、立憲政体を求めて行く運動であり、
大きく4段階に分けることが出来る。
 
1.漸次立憲政体樹立の詔
 この頃の議会設立に関する考え方は大きく2つに別れた。
 
  漸進派 教育や地方、社会経済制度が確立してから議会を設置すべき。時期尚早
  急進派 議会を開設してこそ様々な制度を充実できる。
         急進派はさらにイギリス立憲政体を目標とした「自由主義」と、
         フランス式共和制を目標とした「天賦人権」の二つの流れに別れる。
 
政府は漸進派、一方で自由民権派は急進派であった。
 1873年、大久保は立憲政体樹立に関する意見書を出し、議会開設は時期尚早とした。
       そして、同年11月、内務省を設置して、官僚中心体制を築こうとした。
 
これの機先を制するように提出されたものが、
1874年1月の「民撰議院設立建白書」であった。
提出した人は板垣退助ら「愛国公党」。明治六年の政変で下野したのち、東京で結成された。
板垣等はこれを発表することで、世論を喚起しようとした。
 
4月には土佐で板垣、片岡健吉らが中心となって立志社を興し、
自由民権運動で中心的な役割を果たすようになった。
さらに、大阪で民権派の全国組織として「愛国社」が設立された。
 
建白書が出されると、世論が沸騰し始めた。
また、立憲政体派であるとともに、台湾出兵に反対だった木戸孝允が下野した。
このことは大久保にとって、大きな痛手であった。
 
そこで、大久保は従来の方針を変更し、民権派と妥協することにした。
すなわち、1875年1月、大阪で大久保、板垣、木戸が話し合う「大阪会議」が開かれ、
 ・木戸、板垣の政府復帰
 ・三権分立の確立
が、確認された(官僚の権限が制限されることになる)。
 
それを受けて、1875年4月、「漸次立憲政体樹立の詔」が出された。これによって、
 ・元老院の設置(立法作業、華族、学者等)→右院(協議機関)、左院(立法)の廃止。
 ・大審院の設置(司法、現在の最高裁判所に当たる)
 ・地方官会議の設置。
 
この後、木戸と板垣は再び下野した。
一方で政府は言論の沸騰を押さえるために、18775年6月、言論界を抑圧する法律を制定した。
 1.讒謗律
  言論機関による名誉毀損、侮辱の取締。
 2.新聞紙条例
  新聞、雑誌を発行する場合、内務省の許可が必要(発行取り消しもあり)。
  国家転覆などを教唆する記事の禁止。
  法令を非毀することの禁止
 
この背景に、この時期が新聞の発行ブームであり、政界と結びつきながら、批判記事を
多く書いていたことがある。これによって多くの言論人が逮捕された。
 
2.明治十四年の政変
1877年9月西南戦争が終わった。不平士族は軍事力による反乱は駄目なことを悟り、
言論による政府批判に舵を切った。
 
政府は、ある程度社会が安定したことを受けて、
郡区町村編成法、府県会規則、地方税規則の三新法を制定した。
 
一方、民権派は立志社を中心として(西南戦争中、立志社建白を提出しようとする)、
愛国社を再興した(板垣が一時政府に戻ったことで消滅状態だった)。
 
1880年、愛国社は国会期成同盟に発展解消し、
国会開設の請願書を政府に提出しようとした。
結果として、2府22県、8万人近い署名と、これとは別に2県の署名が集まった。
 
これに対して、伊藤博文等、参議の多くが時期尚早と考えていた。
一方大隈重信は国会開設の時機が来たと考え、伊藤たちと対立した。
 
実は、1877年、木戸孝允が病死、1878年大久保利通が清水谷で暗殺され、
政権では、伊藤と大隈が主導権争いをしていたのである。
 
このような中で、集会条例が制定された。
 
 

Posted by hajimet at 11:08 | Comments (0)


2014年9月9日
日本史 120140908 西南戦争

西南戦争
 
明治初期、様々な改革が行われたが、しわ寄せを受ける人びとも多くいた。
農民は地租改正一揆、血税一揆など多くの一揆をおこした。
一方で士族も不満を強く持った階層である。
 
1.不平士族の反乱
士族は秩禄処分で収入の道が断たれた。これによって、生活は困窮し、
その原因を作った政府に不満を持った。
 
その不満は特に西南諸国で強かった
彼らは討幕の功臣であったのにもかかわらず、その特権を奪われてしまったからである。
 
政治状況が悪いことから不満を持っていても、回避する道はいくらでもあるので、
反乱は起きにくい。だが、経済的困窮はそれを回避できないので、不満が爆発しやすい。
 
(イ)中でも下級士族が不満を強く持った。というのも、
元大名層は華族という特権階級になり、不満を持ち得なかったからである。
 
下級士族で軍人や役人になれなかったものは、生活が苦しかったため、反発した。
 
ただし、土佐藩は事情が違った。坂本竜馬を輩出したように、この藩は比較的進歩的な
傾向を持っていた。そのため、反乱よりも、言論で政府に反対する自由民権運動
繰り広げたのである。さらに、
 
(ロ)廃刀令など、武士の特権が完全に奪われた上、
(ハ)明治六年の政変で西郷等が下野し、彼らが政府側から反政府側に移ったこと。
これらが重なって、実際の反乱が起きるようになった。
 
具体的には
@土佐:板垣が「愛国公党」結成。
     「民撰議院設立建白書」を提出し、自由民権運動に刺激を与えた。
A佐賀:佐賀の乱(1874)江藤新平が旗頭。佐賀の多くの士族が加わる。1ヶ月で鎮圧。
     江藤は処刑
B熊本:敬神党(神風連)の乱(1876)。熊本鎮台を攻撃、一日で平定。
      これに影響を受けて、同年秋月の乱、萩の乱が起こる。
※鎮台:地域の治安を維持するための場所。連隊にあたるが、この頃の軍は対外戦争より
     国内の治安維持を目的とした編成とされていた。
 
(2)西南戦争…日本最後の内乱
政変で政府から下野した西郷隆盛は鹿児島に戻り、私学校を作った。
ここに多くの士族の子弟が集まり、各地に分校が出来た。
 
学校の目的は子弟育成とともに大陸経営である。
それゆえ、学校の性格は政治結社であり、同時に私的軍をもつようになった。
 
鹿児島では、この学校の出身者が県政に進出するようになった。
明治政府は鹿児島県を警戒し、監視するようになった。
政府は鹿児島を調査しようとして警察官を派遣した。
しかし、薩摩側は西郷隆盛を暗殺しに来ると考えた。
 
そのことがきっかけとなって、77年1月、薩摩側が弾薬庫などを襲撃した。
これが西南戦争の始まりである。
 
2月、1万5千の兵で薩摩側は北上を開始する。
2月22日には薩摩は熊本城を包囲する。
一方、政府は反乱鎮圧のため、2月19日に命令を出し、徴兵制により軍隊を組織した。
これが、日本で最初の徴兵軍である。
 
2月、北進する薩摩軍と政府軍は「田原坂」で衝突した。ここに薩摩側は敗れ敗走する。
その後、薩摩側は人吉、宮崎と本陣を移すが敗退を繰り返し、
9月24日、鹿児島に残る兵も自刃して戦争は終わった。このとき西郷も自刃した。
 
遺体は損傷が激しく、西郷がどれか分からなかったが、
西郷が象皮症にかかっていたことから、
その部分の皮膚を見て、西郷の遺体としたと伝えられている。
(だから、西郷は死なずに逃げ隠れたという伝説が出来た)
 
この戦争は、日本で最初の日本軍による戦争であった。
政府は勝利したが、後々まで大きな影響を残した。それは、
 
@不平士族に武力による反乱が無力であることを悟らせ、言論による反抗に流れが変わった。
 実際、西南戦争後、自由民権運動は二度目のピークを迎える。
 
A平民を中心とする徴兵軍が勝利した。近代兵器を採用していたこともあるが、いずれにせよ、
 これによって、徴兵軍に対抗できない士族は完全に没落した
 
B政府は戦費を不換紙幣によりまかなった。これにより烈しいインフレーションがおきた
 政府は不換紙幣を回収し、財政状況を好転させようとしたが、かなりの時間がかかった。
 
C三菱は軍事輸送で力を付け、財閥の基礎を作った。
 
このように様々な影響を後々まで与えた戦争が西南戦争であった。

Posted by hajimet at 20:57 | Comments (0)


2014年9月6日
日本史 初期外交(2) 琉球、朝鮮、北方、小笠原 20140905

3.琉球
琉球は尚巴志が三山を統一して以来、明清の冊封下に入っていた。
一方、17世紀(1609)、薩摩藩が琉球王国を平定して以来、薩摩にも属する両属状態であった。
冊封体制は両属は珍しいことではない。これによって、自国を安定させるからである。
 
明治維新に入り近代国家の体裁をとることになった日本は、領域確定も必要となった。
そこで1872年留守政府は、沖縄に琉球藩を設置し、国王尚泰を琉球藩王とした。
外交権も外務省が接収した。
 
これに清国は反発したが、1874年、日本は1871年におきた
台湾高山族による琉球漂流殺害事件を口実に台湾に出兵した。
 
清国は、琉球は日本のものではないが、
台湾原住民は中国の法の適用外であるとしたからである。
これにより、台湾を無主の地と言うことになり、「琉球の民の保護」という名目で出兵した。
この出兵は、英米が反対し、その意を受けた日本政府も取りやめる方向で考えていた。
しかし、西郷従道が強硬に出兵したものである。
 
出兵の結果、イギリスの仲介により日清で和議が行われた。
清国は日本軍出兵の正当性を認め、日本側に賠償金を払った。
これには、清国が沖縄が日本に属することを事実上認めたことを意味する。
 
1879年、沖縄県が設置されたが、旧習を温存したため、沖縄の近代化は遅れた。
 
なお、琉球は冊封体制下で明、清国が尚氏支配に対して認めた国号である。
したがって、尚氏が統治しなくなった以上は、この名称は使えないことになる。
 
4.朝鮮
朝鮮は江戸時代、対馬藩宗氏と釜山の倭館(和館)を通じて朝鮮と交易していた。
また、通信使が朝鮮から来る国交のある国でもあった。
 
明治政府になり、朝鮮側と国交関係の樹立を図ろうとしたが、朝鮮側が拒否をした。
理由は大きく2つである。
 
 (ア)外務省が交渉に来たこと。
朝鮮は対馬との交易をしていた。形式上朝鮮側は宗氏を朝鮮官吏として封じていた。
(宗氏が受け入れたかは別の話)。冊封下の貿易は基本的に中国との間だけだからである。
形式上日朝両属状態の宗氏を通じて、交易をしたのである。
外務省都の交渉ではこの前提が崩れる。
 
 (イ)天皇の文字が入っていること。
朝鮮にとっては、こちらの方が大問題であった。
朝鮮は明、清国皇帝から冊封されているのであって、
「皇」の字が使えるのは中国皇帝に対してだけであった(諱についても話す)。
 
もし、この称号を認めてしまうと、二人の皇帝から封じられているということになり、
朝鮮側としては飲むことが出来ない。
 
このような事情から拒んでいたのであるが、日本側は開国を望んでいた。
1973年、留守政府は西郷隆盛、板垣退助等を中心に征韓論が高まり、
8月、西郷隆盛が自ら大使として朝鮮に行き、条約を締結しなければ軍事力を使うと
圧力をかけようとした。このような動きを岩倉使節団が知ると、
彼らは9月に急遽帰国した。
本来留守政府は、国政の大きな変更は出来ないことになっていたからである。
同時にこのままでは留守政府に権力を奪われてしまうことになる。
 
使節団側と留守政府はいわゆる征韓論争を行った。
そして、10月、朝鮮行きを無期延期する勅令を得た。
国力充実、内治優先であるべきて、「征韓」は時期尚早だというのである。
 
征韓論争に敗れた西郷、板垣、後藤象二郎、江藤新平等は下野をした。
かれらは、その後、政府に対抗する立場で行動するようになる(明治六年の政変)。
一方、政府は大久保利通が実権を握るようになった。
これによって、明治維新以来の政策の流れがある程度安定するようになった。
 
だが、征韓が時期尚早(権力闘争の面も大きかったが)と言っても、
現実に朝鮮を開国させる必要は大きかった。
それゆえ、74年、75年に雲揚号が朝鮮沖で示威を行った。
75年の時は、そのまま仁川沖まで行き、現在仁川空港となってい永宗島付近で
挑発して朝鮮側に攻撃させるよう仕向けた。その攻撃をきっかけに江華島を占領した。
(今でも、痕跡は残っている)
 
江華島はソウル(漢城)を流れる漢江(ハンガン)の河口にある島で、
ソウル防衛のために重要な島である。本土とは800mほどの海峡で隔てられているが、
海流が早いため、防禦に優れている。
 
また、江華島から臨津江を遡れば、北朝鮮方面。漢江上流は峠を隔てて洛東江に通じるから、
韓国南部を押さえることが出来る。さらにソウルから元山まで構造谷が続いているため、
朝鮮半島北部も押さえることが出来る。
ソウルだけでなく、朝鮮半島全体の防禦に関わる島である。
 
ここの占領をきっかけにして、1876年1月、日朝修好条規(江華条約)が締結された。
その第一条は「朝鮮は自主の邦」「日本と同等」と書かれている。日本側からすれば、
冊封関係で清の下にある朝鮮(あえて冊封体制を西洋法体系で理解しようとしている)を
対等にすることで、清との関係を切ることを意図していた
 
さらに、開港場を2カ所決め(釜山、元山)、自由貿易とした。
当時の朝鮮の経済は殆ど発展しなかったから、日本に一方的に有利であった、
欧米から購入した製品を朝鮮に売る「中継ぎ貿易」を企図したのである。
 
そのために、日本側の領事裁判権が認められ、関税自主権が認められないという、
日米修好通商条約の日本版(不平等条約)であった。
 
一方、朝鮮側の理解は異なる。
まずは、従来の修好関係を回復しただけである。
冊封下と言っても内政不干渉であったのだから、元々自主の邦であるからである。
 
ただ、条約を結べるようになった政治的背景があった。
70年代前半までは高宗の父親、大院君(李昰応)が実権を握っていた。
高宗が幼くして王になったからである。
大院君とは、国王の経験のない、国王の父親という意味である。
 
欧米の侵攻に対して大院君は鎖国で対処しようとした。
明治維新は、ちょうど鎖国政策を強化した時期に当たる。
しかし、高宗も大きくなり、大院君から実権を奪い、開化政策をとるようになった
日朝修好条規は、まさにそのようなときに締結されたのであった。
 
5.北方
日露和親条約で北方の国境は、国後島以南の千島ときめ樺太は共有状態であった。
しかし、北海道開拓に重点を置いていた政府にとっては樺太にまで力が及ばなかった。
そこで、1875年樺太、千島交換条約を結び、樺太はロシアに、占守島以南の北千島は
日本が領有することにした。これにより、北方の領土が確定した。
 
6.小笠原
島の帰属は、発見、先占、継続、実効支配の要件で成り立つ。
小笠原は16世紀信濃深志城主小笠原貞頼によって発見されたとされる(伝承)。
幕府は小笠原を開発しようとしたが断念した。
 
その後、
1823年、米国船が母島に立ち寄り、コッフィン島と名付ける。
1827年、イギリス船が父島により領有宣言。
1853年、米国が父島に貯炭場を作ろうとして、英米間に領有問題が発生。
1861年、幕府が領有宣言
1876年、各国に領有を通達。米英の反対がなかったため日本のものとして確定
1880年、内務省所管から東京府に移管された。
 

Posted by hajimet at 20:06 | Comments (0)


2014年9月3日
初期外交(1) 20140901

1. 岩倉使節団(1871〜1873)
    岩倉ほか、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文ら(西郷等が留守政府を構成)
   目的 a.条約改正交渉(準備交渉)
        日米修好通商条約第13条で1872年から条約が改正できるとあるため
       b.欧米の制度、文物の視察
         改正交渉は失敗に終わったが、視察はその後の日本に大きな影響を与えた。
 
    当時の記録
     イギリス 1800年代になってから発展。現在のようになったのはたかだか40年
            →日本も大急ぎで近代化できる。
     フランス 政変が多いし、なかにはコミューンの様な過激なものもある。
            →安定した政府を作る必要
     ドイツ 英仏より学ぶ所が多い。
           ドイツ(1871年統一):普仏戦争の結果。
             フランスに対抗するために皇帝中心に急速な近代化が必要。
              =日本に似ている
           →これ以降、日本はドイツの制度に従うようになる。
 
同時に法体系を西欧法体系に変えた
江戸時代は武家法だったが、明治維新で律令を採用した。
しかし、それでは欧米に対抗できないことに気がついたから。
 
結果的に欧米並みの法が作れ、運用できると欧米に認められることに繋がり、
条約改正へと進んだ。
 
2. 日清修好条規(1871)
   岩倉使節団が出発する前に締結。
 
それまで、清国との間に条約はなかった。
清国人は長崎の唐人屋敷にいたが、基本的には自由な立場であった。
だが、安政の五カ国条約以来、彼らの立場は不安定になった。
 
これらの条約では、開港場、居留地、開市場などがきていされたが、
清国人についてはそれがなかったからである。だから、清国人は形式上、 
欧米人の会社に雇われるか、個人の家政婦の様な形で居留地に住むしかなかった。
 
この条約は日本初の対等条約。    
 相互に開港場、領事裁判権が認められる。
 
理由
清国を西欧式国際体制に編入し、それによって欧米に対抗し、かつ条約改正につなげる。
 
(ア)清国を西欧国際体制に編入
   清国を中心とした東アジアの国際体制冊封体制
     中国皇帝が、各国の王を「王」として認めること(封じる)。
    
           皇帝=天命
         ---------------
               ↓↑       ↓↑     ↓↑(朝貢)
               琉球   朝鮮  越南
        王    王    王
 
 
中国は漢民族が国家を作ることが多いが、つねに異民族の脅威にさらされている。
そこで異民族から中国皇帝を守るために考え出された
お互いの関係を作れば、脅威にさらされることはない。

各国の王も、お墨付きをもらうことになるので、
国民の信頼が得られるし、同時に安心して政権を運営することが出来る。
 
また、1592年の豊臣秀吉の朝鮮侵攻の時のような場合、
中国は冊封した朝鮮を支援して軍隊を送った。
朝鮮を助けることと、明を守る国がなくなってしまわないようにするためであった。
 
王は一年に一度、皇帝に朝貢した。その見返りに多くの品物を与えた(一種の貿易)。
中国は英仏との貿易も同じような観点で見ようとしていた。
また、日本は冊封体制の外にある(海の存在は大きい…
だから西欧的な体制に簡単に転換できたとも言える)。
 
このような体制だから、保護国とか従属国とは違う
冊封関係は皇帝と王の関係であって、国の関係でない。
だから、王は各国で独自の政策を行えたし、中国は内政干渉をしなかった(19世紀までは)。
保護国、従属国は内政に干渉される。(誤解している人が多いが…)
 
また、皇帝はひとりだけである。
天に命ぜられた人が皇帝となって、天の代わりに地上を収めるからである。
 
冊封体制を理解しておかないと、この頃の日清、日琉、日朝の関係は理解出来ない。
さらに、現在中国政府が主張しようとしていることも、
冊封体制をイメージしていることが多いため、この関係を理解する必要は大きい。
 
 西欧式国際関係
国と国は対等。対等な国同士が条約を通じて契約をする(キリスト教が背景)。
東アジア的な皇帝による恩恵での国の存在ではなく、一切を契約で決めていく。
 
キリスト教的思想が背景になっているから、
キリスト教的な場を持っていないと対等とされなかった。
 
(イ)欧米に対抗
当時文明国とされた欧米に対して、
日中のある東アジアもヨーロッパと対等のことが出来ると主張できる。
 
(ウ)条約改正に繋げる
欧米と同じことが、欧米と同じように出来れば、
国のあり方が(非キリスト教圏であっても)欧米と対等と言うことになるから、
対等な国として扱われるようになる。すなわち、不平等条約を改正することが出来る。
 
このようなもくろみで締結された条約が日清修好条規であった。
 
次回は、琉球、朝鮮と明治六年の政変、ロシア。早いクラスは西南戦争まで。

Posted by hajimet at 21:54 | Comments (0)


2014年7月18日
日本史 20140714 殖産興業
殖産興業

政府は、産業育成策にも手を着けた。

時代は帝国主義の時代である。資本主義経済は、利潤を得る経済活動を行う中で、経済を発展させていく経済体制であるが、「カネ」だけで競争するために、競争に負けると這い上がれない弱肉強食の世界でもある。1870年代以降、列強諸国は自国製品の市場を海外に求めてアジア、アフリカを分割していた。

日本も国外から安価な製品が多く流入した。しかも一律低関税であるから、国内産業を保護することが出来なかった。通常は弱い産業については高関税にして産業を保護するのだが(現在のコメがその代表的なもの)、改税約書以来の税率のため、それが不可能であった。このままでは国内産業は列強に押しつぶされると言うことである。

一方で高額所得者は元藩主、公家、江戸時代以来の商人で、新たな産業を興すほどの才覚はなかった。

そのために政府が殖産興業を行った。これによって近代産業を導入するのだが、近代=西欧であるから、西欧の産業を入れなければならない。そのためにお雇い外国人の指導を受けることとした。

@政府による育成
政府は1870年に工部省を設置した(これは後に内務省に吸収される)。1872年イギリスの公債により新橋-横浜、京都-大阪に鉄道が敷かれた。新橋は汐留、開市上で居留地であった築地の手前である。横浜は桜木町で、その先は港と外人居留地である。すなわち、居留地、開港場と開市場を結びつけることが目的であった。東京-大坂は今の中山道ルートを考えていて、東海道線は構想になかった。また、レール幅はイギリスの植民地に敷くレール幅である。

続けて佐渡金山、石見銀山、高島炭鉱、三池炭鉱などの経営、兵庫や長崎の造船所、東京、大阪の砲兵工場の経営を行った(官営工場)。また輸出基盤を確立するために1872年にフランスの指導で富岡製糸場が設けられた。

A通信
郵便は前島密によって郵便制度が発足し、近代郵便制度が始まった。1877年には万国郵便連合に加入した。

電信(当時は電波は発見されておらず、音声も送れないため、電線を使ってモールス信号でやりとりした。・・・---・・・(SOS)のように)。電信線は1869年に東京横浜間が初めてであるが、1874年には東京-長崎、青森(北海道)と伸びた。とくに、長崎では上海との電信線と接続され、欧米と電信のやりとりをすることが可能になった。

船運会社の経営も行われた。それまで欧米の船によって貿易が行われていたが、これでは欧米に圧倒されるので、対抗のために日本側で会社を作った。72年に官営会社として日本国郵便蒸気船会社が設立され、のちに、三菱の岩崎弥太郎の経営する郵便汽船三菱会社に発展した。

B北海道開拓
日本は日露修好通商条約で南千島(北方領土)までの領有が決まった一方、樺太は日露共有であった。だが、北海道が十分開拓できていない中で、北方の領土に対する権利を十分なものにする必要があった

そのために、1869年に開拓使を置き、士族授産で開拓を行わせた。同時に農業を行う為に札幌農学校を置き、お雇い外国人としてクラークが招かれた。さらに73年に屯田兵が設置され、開拓とロシアに備えることとした。

C通貨制度
通貨制度の近代化も急務であった。江戸時代までの貨幣制度は複雑なものだったからである。そこで、1870年、通貨の単位を十進法(円、銭、厘)とすることとし、1871年に新貨条例を定めた。建前上金本位制による。

貨幣に対する考え方は、現在の考え方と異なる。
現在の通貨制度は「管理通貨制度」といって、通貨の信頼を政府と中央銀行に置いている。中央銀行は銀行券を発行する。一方で政府は補助貨幣を発行する。1円銀行券しかないと不便だからである。補助貨幣は20枚までしか強制通用しない。

一方、明治期は本位貨幣制度をとっていた。金を本位貨幣とするものを金本位制という。この制度の下では金の保有量と通貨の流通量が等しくなる。金貨が本位貨幣である。一方紙幣は本位貨幣と交換できる兌換紙幣が基本である。不換紙幣は例外を除いて発行されない。

新貨条例は金本位制を採用したが、東アジア貿易は銀本位制で行われているため、政府は開港地に貿易銀を発行し、事実上、金銀本位制となった。しかも金が流出したために、実際は銀本位制となっていた。

また、1872年には政府紙幣が発行された。これは不換紙幣であって、太政官札を回収するためのものであった。

さらに1872年には渋沢栄一を中心に国立銀行条例を定め、翌73年に第一銀行が設立され、銀行券の発行が開始された。

このような中で、三井や岩崎などは政府から特権を与えられて、政商と呼ばれた。これが後に財閥へと発展していく。
Posted by hajimet at 21:40 | Comments (0)


2014年7月12日
日本史 20140711 地租改正

地租改正
 
新政府は財政基盤が脆弱であった。
  旧幕領(新政府)=年貢による貢納⇒財政基盤が弱い
  旧藩=江戸時代以来の税制:廃藩で廃止
 
旧幕領の範囲が限られていて税をとれる範囲が限られていることと、年貢は豊凶によって収量が変化するので安定した財源とはなり得ない。そこで、新政府は商人から借金をして財政を支えていた。
 
新政府は安定した財政を行う為に、歳入を安定化させることが急務となった。そのために、全国一元化と金納に制度を変えることとした。
 
1871年 田畑の勝手作を許可
江戸時代は年貢を取るために、田畑では穀物を作ることが基本であった。しかし、それ以外に、タバコ、桑、綿などを作る農家が増えた。商業作物で収入になるからである。これに対して、幕府は勝手作を禁止していた(実際は守られなかった)。それが自由化されたのである。これにより、税金を金納できる準備をした。
 
1872年 田畑永代売買禁止を解除(近代的土地所有権の導入)
土地を商品として売買できるようになった。売買した土地については地券を発行した
 
近代の私法の特徴は、土地などを財産価値のあるものとして捉えるところにある。土地を売買するということも、土地の財産価値を元にしながら売買することになる。そのために、土地の所有者、土地の面積、土地の種類、土地の価値(地価)などを確定する必要がある。現在、土地を持っている人は権利証を持っている場合が多いが、公的な書類は、法務局で不動産登記を行う、不動産登記である。それまでの「先祖代々の土地」の観念に対して、近代的土地所有権を導入したことは、大きな価値観の転換を示すことになる
 
1873年7月 地租改正条例(資料を読む)
  ・収穫高⇒地価
  ・税率 100分の3
   物納⇒金納(歳入の安定化、豊凶による歳入差はない)
  ・耕作者⇒地券所有者
 
地租改正のための調査が終わり次第、地権を発行して「地租」に切り替える(〜81年)。
地租=土地の収穫高−必要経費(種籾代、肥料代外)=収益。収益を元に算定。
     基本的には年貢時代と変わらないように計算されたが、
     実際は年貢時代よりも多額の税金を納めなければならない事例があった。
 
結果
 政府=豊凶にかかわらず安定した収入=財政の安定
 地主に利益⇒寄生地主制の進展
 
  ※地主と小作人の関係は、地租改正によっても変化がなかった。小作人が地主に
    米などを納めて(多くの所で収穫の4割=6割)、地主はそれを換金して生活した。
    地租が一定だから、収量が増えれば、その分だけ地主の利益となる。それゆえ
       地主は小作人の小作料に寄生して生活できるようになった。このような地主を
   寄生地主という。
 
 入会地(村などの共同管理地、草刈り場、茅場など)⇒所有者が確定できない場合、
  国有地化された。そのため、農民が入会地に入れなくなり、肥料がえられなくなったりもした。
 
農民に不満。地租改正一揆が頻発。cf. 伊勢一揆
政府:1877年に税率を2.5%に下げて対応。
 
 

Posted by hajimet at 10:49 | Comments (0)


2014年6月28日
日本史 20140627 四民平等、秩禄処分

四民平等
学制、徴兵を行うための前提としては、身分が平等である必要がある。つまり、これらの内政改革の背後で士農工商などの身分制度が崩れていなければならななった。一方で、フランス革命を見るまでもなく、近代国家として成立させるためには、身分制を無くすのは世界的趨勢でもあった。
 
69年の版籍奉還により、藩主は行政官としての知藩事となる。それゆえ、藩主と藩士の主従関係は断裂した。ここから明治政府は身分制の再編成を始めた。
  華族:公家、大名
  士族:幕臣
 (卒族:足軽以下 〜72年)
  平民:農工商
 
70年 平民の苗字使用許可。
 これは公的に使用できるようになったと言うことである。神社や寺に残されている江戸時代の寄進者名を見ると、多くのものに苗字が刻まれている。苗字そのものは明治になってから出来たと言うよりも、その前からあったが、名乗れなかっただけのことが多かった(とくに関東は)。
 
71年 散髪(断髪令:それまでは身分、職業によって細かく髪型=髷が決められていた)、
    廃刀(このときには廃刀するかは自由であった。廃刀令は76年)、
    身分を越えた通婚許可(実際は家の格などが意識され続けた〔少なくとも太平洋戦争終了前後まで)。 
    エタ、非人という身分を廃止し、平民とする。
72年  壬申戸籍(72年壬申年に実施、法の制定は71年)
 それまでの「戸籍管理」は寺院が行っていた。すなわち、寺請制が取られていて、各人はいずれかの寺の檀家とならなければならなかった。切支丹対策のためである。そこで宗門改めが行われ、人別帳に記載された。これに基づいて通行手形は発行される。個人が寺と強く結びつくことになるから、死亡した場合その寺で葬式をあげてもらう。また、寺に墓地を作るようになり、急速にいわゆる「葬式仏教化」した(寺は本来は修行の場)。
 
壬申戸籍によって国が戸籍管理をするようになった。壬申戸籍の特徴は
 ・身分別記載方式の廃止(四民平等ということ)
 ・住居地主義を取ったこと(住民票の役割も)
 ・檀那寺である寺院名、氏神
 
戸籍法は大きく4回(壬申戸籍、明治19年、大正3年、昭和22年)変わっているが、明治戸籍までは住居地主義。本人に関係するものは過去まで遡れるが、住居地主義の関係で壬申戸籍は閉鎖されて見ることが出来ない。江戸時代以来の差別が残っているための処置である。現在は本籍地で戸籍を管理している。本籍地は日本国内ならどこに定めてもよく、千代田区1-1(皇居)に定めている人もいる。
 
これによって四民平等となったが、実際は特権の無くなった武士(特に下級武士)が教員、巡査、官吏になったため、平民は官吏などになりにくかったことや、大名に家禄、士族に小禄が渡されていたために、格差は残った。したがって、明治政府としては経済的特権を無くす必要も感じていた。
 
秩禄処分
明治の初期政府にとって最も大きな事業は、江戸時代以来の封建的な制度であった秩禄を無くすことであった。明治初期の歳出の中で最大のものが秩禄であったことも廃止しようとした理由であった。
 
本来藩主と藩士の関係は、藩士が藩主に仕えることに対して、藩主が藩士に俸禄を与える関係で主従関係が成立していた。しかし、版籍奉還、廃藩置県によって両者の主従関係は終了してしまった。本来なら俸禄(秩禄)も入らなくなるはずである。
 
だが、それでは、貧困者が続出することになるし、明治維新の功労者にも報いる必要がある。そこで明治政府は藩主に代わって秩禄を渡し続けた。だが、収入の少ない明治政府にとって、これは大変な重荷であった。そこで、廃藩置県と共に知藩事の俸禄を10分の1に減らすなど、秩禄に対する対策を取り始めた。
 
73年 秩禄奉還の法 
     秩禄の返納を認める。その場合数年分の秩禄を一時支給する(効果はあまりない)
76年 金禄公債詔書発行(条例)
     秩禄、家禄の廃止。
     公債として5年から14年分の金額を記載した証書を渡し、
     5年据え置き(その間に財源を確保し)、30年償還とした(1906年終了)。
 
これにより、武士の特権は完全に無くなった。これ以降平民と士族の差は完全になくなった。士族と言っても、名前だけ、過去の名誉という扱いになった(士族という名称まで無くしてしまったら、収まりが付かなくなる)。一方で華族は特権階級として第二次世界大戦が終了するまで特別な扱いをされるようになる。
 
生活のため、商売を始めた士族もいたが、うまく行かないことが多かった。これを「士族の商法」という。また、政府も士族授産を行った。静岡の茶もその一つだし、北海道の開拓なども行った。また、藩士、幕臣の多くが帰郷した東京都心では空き地が広がり、桑畑が作られたりもした。だが、このような士族授産政策も概してうまくは行かなかった。
 
このようにして、特権を廃止した後、すべての国民から平等に徴税する制度を整えることとなった。そのために地租改正が行われることになる。  
 
 

Posted by hajimet at 09:20 | Comments (0)


2014年6月23日
日本史授業 20140623 廃藩置県、太政官制の改正、内政改革
廃藩置県
@版籍奉還
すでに五箇条の誓文でも方向がでていたが、
藩は明治政府の機関に組み込む必要があった。

1869年1月、大久保利通、木戸孝允等の建議によって、薩摩、長州、土佐、肥前の藩主が版籍奉還を申し出る。
 版=土地(ex.版図)、籍=人民(ex.人民)
原文を読むと、版籍を奉還すること共に、天皇に各藩に対して奉還を命ずるように
建議している


これに合わせて、他の版でも版籍奉還を行い始めた。1869年6月には約200の藩が版籍を奉還した。そこで政府は


1869年6月、版籍奉還の詔勅を出した。
これにより、藩主は知藩事になった。
形式的に政府に任命された行政官の扱いであった。
ただし、これは行政のみで、徴税権と軍事権は藩に属した。

だが、これは新政府にも藩にも問題が残った。
新政府にとっては、年貢が入ってこないため、財政難に陥った。その影響で一揆が多発した。にとっては、徴税法法が旧来のままだったので、藩民に不満がたまった。

A廃藩置県
新政府は権力を強化し、税収を安定化させるために、藩の廃止を決意した。その前提として、1871年薩摩、長州、土佐の藩兵1万人を御親兵として、政府に属させた。その上で、1871年7月廃藩置県が行われた。

これにより知藩事は9月までに東京に移り、変わって県知事が中央より派遣されることになった。知藩事は大名だから地元と関係が強い。それが地元に居続けるのでは、不都合が生ずるということもあった。これで、政治的統一が完成した

これにより、1使(開拓使)3府302県が出来た。旧藩をそのまま県としたからだが、細かすぎることと飛び地が多いため、県境が入り組んでしまった。そこで同年、1使3府72県に整理した。その後も整理し続けたが、今度は逆に1県辺りの大きさが大きくなりすぎたため、今度は分割を行い、1888年には、1道3府43県に整理された(現在の形)。

県名は旧官軍側は県庁所在地と同名、非官軍は別の名前にした。ただし、官軍側でも石川県は立場が曖昧であったため「金沢県」とはならず、福島県は奥羽列藩同盟で最も反発が強かったために、会津若松を県庁所在地とはせず、小さな町だった福島を県庁所在地として、県名も福島県とした。このときのことで、会津の中央に対する感覚
は厳しいものがいまでも続いている。

新体制
廃藩置県によって、日本全体が新政府の勢力化に入った。これに伴って、1869年6月、政体書に基づく太政官制を改正することとなった。政体書が藩の存在を前提としていることと、そしてなによりもアメリカの制度を見本にして適用しようとしたことがあった。

この太政官制は、
祭政一致=天皇親政のために、大宝令を元にして作られた。すなわち、

・神祇官を太政官の上に置いたこと。神国日本を作るため。
  ただし、国民を神国化することでは近代国家建設に合わないことが分かり、
  1871年に神祇省に格下げ、さらに格下げが続く。一方で、祝祭日を決め、
  それにより、神国のイメージを作ろうとした。
・太政官の下に各省を置いたこと。
 (二官六省制)

太政官は
 正院:天皇親政=薩長中心
  太政大臣
  左、右大臣
  参議
 左院:立法=官選(門閥や家柄で選ばれる)土肥中心
        議論は殆ど行われない。
 右院:行政事務

この結果、下級武士が中心となる(改革をする観点からは、若手が活動できることになり、理想を求めやすいことになる)。特に薩長土肥中心となる一方で、誓文で書かれていた(公武合体以来の)公議世論は軽視される閣下になった。

この改編ののち、1871年岩倉遣欧使節団がヨーロッパに行く。留守政府を西郷隆盛等が守って内政改革を行った。

ところで、この岩倉使節団の成果が、その後の日本の流れを決定することになった。その一つが法制度を欧米式に変更したことである。これにより、欧米式の法律、制度を取り入れることが出来るようになり、欧米式の法律解釈が出来るようになった。これが欧米と対等と認められるようになった理由の一つである。中国、朝鮮は律令系の法体系から脱皮することが出来なかった。

ただ、律令系の法体系をとったことも日本としては大きな革命であった。律令系の法律は、藤原氏の時代以降崩れさり、鎌倉以来武家法になっていたからである。それを断絶して新しいものを作ろうとしたと言える(断絶させた経験を持っているから、新たに西欧系のものも受け入れやすかったと言えるかも知れない)。

@学制
1871年、文部省設置。
1872年、学制公布(フランスの制度:定着しにくい)
 「自今一般ノ人民必ス邑ニ不学ノ戸ナク、家ニ不学ノ家ナカラシメン事ヲ期ス」
  小学校制度。男女平等

A軍事
 御親兵→近衛兵
 藩兵―→解散:一部は鎮台
  (鎮台=連隊の元。反乱を「鎮める」台=国内の反乱を抑えることが中心)

1869年、兵部省→1872年、陸軍省・海軍省
1872年11月27日、徴兵告諭:男子20歳以上徴兵。
1873年1月10日、徴兵令(ドイツの制度)
 11月27日から1月10日まで15日間。明治政府は財政難のため、12月3日から太陽暦を採用することにして、1月1日として。これによって、12月の給料を日割り計算で払えば良くなっただけでなく、1873年の閏6月の給料まで払う必要がなくなった

徴兵令 陸軍:徴兵、海軍:志願(海軍はイギリスの制度:セーラー服)
    免除者が多かった。(長男、戸主、相続人ほか)
    「徴兵免除の心得」がベストセラー
    
     大部分は農家の二男、三男が徴兵(労働力が減る)
      「血税」の誤解
      仕事のなくなった武士の不満
       ↳血税一揆

B警察
(72年より動きがあるが)
1873年、内務省設置(地方行政、殖産興業、警察など)
1874年、東京警視庁設置
 
Posted by hajimet at 21:22 | Comments (0)


2014年6月21日
日本史20140620 新政府の方向性

D新政府の課題
  このようにして成立した新政府の目的は、
   「政治、経済、文化などのあらゆる面で欧米に急速に追いつくこと」であった。すなわち、
        植民地化を防ぐこと。
        不平等条約を改正することが目的となった。
 
  そのために、急速に近代化を行い、旗頭に天皇をおき、
          天皇中心の中央集権国家を作る必要が出来た。
  一方で、これが福澤諭吉の「脱亜論」に繋がることになる〔資料紹介〕。
       脱亜論の発想は今でも強い。
 
さて、これに目標は成功したが、他国が同じような事をしても失敗して、植民地や半植民地に
なったことからすると、なぜ成功したかという理由を求めなければならない。
これには国内的要因と国外的要因があった。
 
 国内的要因
  ・ある程度産業が発達していて、欧米の産業を受け入れる素地があったこと
    経済的な地盤だけでなく、知的な面においての水準が高かったこともある。
    寺子屋など庶民に対する教育が広く行われていて、識字率が非常に高かった
    多くの国では、文字は官吏などのごく一部の層のものであったが、それとは大きく異なる。
  ・民族統一の経験があった
    律令時代の経験。
 
 国外的要因
 ・インド、中国の経験から武力外交政策をとらなかった
   市場を得るために、傭兵の乱、アヘン戦争を行ったが、かえって反発を呼び、
   自国製品が思ったようは売れなかった。そこで、武力外交政策をとらなかった。
   連合艦隊下関砲撃事件が下関だけで終わったことも同様の背景がある。
 ・関心が清国に向いていたこと。
 ・各国の国内事情。
   東方問題ナポレオン三世の動向とそれに対する対抗。ナポレオン三世の失脚。
   1870年以降、英仏はアフリカ分割に目が向けられるようになる。
 
E新政府の政治の方向
 1.古代天皇制の復活(神武創業之始ヲ源トシ(王政復古の大号令))
   明治初期、政府内には平田派の影響を受けた人が多く参加していた
   彼らにとっては「神国」が本来の姿であるから、その姿に純化しようとした。
  そのために
   ・神祇官を太政官の上におく(1869)
   ・神道、神社制度の整備(天皇=神)
     1868年閏四月、神仏分離令〔資料紹介〕
            神仏の混淆を禁止する。
 *本来の神道とは「祟る神」を、祟らないようにまつった。その基層文化の上に
   仏教が入ってきて習合した(習合は仏教に限らない)。cf.本地垂迹説
     1870年、大教宣布の詔
     1871年、太政官による神社制度の整備〔図表参照〕と祝祭日、
               紀元節(2月11日):日本書紀の記事から計算した上で、
                「伝説上初代天皇である神武天皇が即位したとされる日」
               天長節(11月3日):明治天皇誕生日
                cf.明治天皇=近代化の象徴→文化の日
 
 神仏分離の結果、信州など特に平田派の影響の強い地域を中心に廃仏毀釈が行われた。
  (純粋に理想を語る思想は、革命が起きる。cf.フランス革命:ルソー)
 廃仏毀釈とは、仏寺を廃止し、釈迦を捨てるという意味である。
 これにより仏教寺院だけでなく、修験道などが大きな打撃を受けた。
 それまでの文化の流れの中で断絶したものも多い。
 一方で、仏教と神道が別のものと意識されるようになった。
 
古代天皇制復活のほかに
 2.公議世論の尊重、
 3.開国和親が上げられる(すでに授業で扱っているので、項目のみ)。
 
これらの内容は、公武合体派が主張していたことである。
明治維新は尊攘派が中心に行われたが、
政策は文久の改革でとられた路線を継承しているのである。
 
このように見ると、幕末から明治維新までの流れは
尊攘派と公武合体派の勢力争いだったと言うことも出来る。
国際環境が変わっていないから、政策の方向を変えることは出来ないのである。

Posted by hajimet at 10:38 | Comments (0)


2014年6月18日
日本史授業 20140616(2) 五カ条の誓文と政体書

五箇条の誓文と政体書

@五箇条の誓文
新政府は旧幕軍を破りながら支配範囲を広げていった。
1868年1月、鳥羽伏見の戦いに勝ち、西側各藩が帰順した新政府は、
諸外国に向けて、「王政復古、開国和親(原文読む)」を宣言した。

諸外国政府も新政府の状況を見て、新政府を国際法上の交戦団体と認めて、
局外中立を宣言した。

ほぼ関東以西を抑えた1868年3月14日、新政府は五カ条の誓文を出した。
その内容は(原文などを読みながら)
(1) 公議世論の尊重
(「広く会議を起こし」:福岡孝弟は「列侯会議を起こし」だったが、
 これでは公武合体になってしまう。そもそもこの文は「船中八策」以来
 公武合体の中で出てきた言葉。これを、新政府側が「尊王」の立場で
 組み込んだと言える)
(2)一君万民
「上下心を一にし」
…このことから、将来藩を廃止する方向が読み取れる。
(3)開国和親
「広く智識を…」

福岡は「会盟」としようとしたが、
これでは天皇と百官の関係が対等になるという公家の反対により、
天皇が百官を率いて、諸神に宣言する形式を取った。

A五榜の掲示
よく3月15日、それまでの高札に代わって五榜の掲示が出された(原文読む)。
その内容は幕府時代と変わらないものであった。

だが、新政府の支配地域では、幕府時代の高札を引き抜いて、
新政府の五榜の掲示に差し替えたのである。
すなわちこれにより、新政府が支配したことを宣揚しようとしたのである。

B政体書
閏4月、政体書が出された。

閏四月とは太陰暦の暦の進行(1月は29日か30日)と季節の進行がずれることを
防ぐために置かれるもので(19年間に7回)、同じ月を2回繰り返す。
(ちなみに、閏年はユリウス暦から来るもので、地球の公転の関係で、
4年に1度(ではない年もあるが)挿入される。
これは復活祭の時期がずれないようにするための挿入である。

政体書(原文読む)は五箇条の誓文の具体化である。
 太政官制を取ること(政令二途にならないように)
 三権分立で、互いの独立
 高級官吏は任期4年で公選制。
 中央と地方の関係などが定められている。

これはアメリカの制度を参考にして作られたもの。明治初期はこのようなものが
多いが、それまでの社会情勢に合わずすぐに形が変わってしまったものも多い。
政体書も同様。

ところで、藩、府、県が出てくるが、
 (江戸時代)   (新政府)  
  旧幕領(納地)===府(重要な所、9カ所)
   |       |
   |       |
   |       =県(それ以外)
   |
   藩========藩(廃藩置県前は藩はそのまま残る)

県(縣)は首をひっくり返した文字で、戦争で取ってきた首を村の入り口の
木に掛けておいたことをことに由来する。

中央から派遣した役人のいる役所のことで(郡県制)、
新政府では中央集権にすることを意味している(cf.道州制)。

江戸の場合、朱引き内の旧御符内は東京府、それ以外は武蔵県となったが、
武蔵県はのちに3つに分けられ品川県、小菅県、大宮県に分けられた
(このような県が最終的には200を越える)。

C明治改元
68年7月、江戸を東京(とうけい)と改称。
1868年9月8日、明治に改元。
 それまでは、凶事や瑞祥のときに元号を代えてきたが、天皇が中心となって
 支配するのだから、天皇の一代の間、改元しないことにした。一世一元という。
 天皇が王政復古を宣言し(68年12月)、1月に西国が帰順し、新政府の勝敗が
 ほぼ決まったと言うこともあるのであろう。改元は1月1日に遡って行われた。
 したがって、公式には慶応4年は存在しないことになる。
 
出典:「聖人南面而聴天下、嚮明而治(『易経』)」
古来、東アジアでは、君主が座る向きは南向きと決められていた。

その後、明治天皇が東京に行幸し、市民に酒をふるまった。
このときに、江戸城は皇居(東京城)と改名した。
さらに、1869年3月、正式に明治天皇は東京に遷った。

遷るとき、京都の公家から反発が出た。そこで、
「関東を抑えるためには、天皇が行く必要があるが、
 その必要が無くなったら京都に戻す」と理由を付けて東京に送り出した。

今でも、京都では「天皇をお貸しした」。だから首都は「京都」という
雰囲気が強く残っている。

Posted by hajimet at 19:58 | Comments (0)


日本史 20140616の(1)戊辰戦争(2)
A江戸城開場
江戸に新政府軍が近づく中、
フランスは幕府に武器を与え、徹底抗戦することを勧めた。
だが、徳川慶喜は新政府に恭順の意を示し上野寛永寺に移った。

上野寛永寺は、現在の藝大、国立博物館裏だけではなく(籠もった部屋も残る)、
上野の山全体が寛永寺であった。

ここに移った慶喜側の眼目は、慶喜の助命嘆願であった。
慶喜側は新政府側と何回か交渉をしたが、埒があかなかった。
というのも、西郷隆盛等は慶喜の命を奪うことを主張していたからである。

慶喜が寛永寺に移った後、江戸城開場が焦点となる。
慶喜は勝海舟に交渉をさせた。
勝は交渉が成功しない場合は江戸を焼く計画であった。

勝は西郷隆盛と交渉した。場所は薩摩藩邸説と、先鋒隊がいた池上本門寺説がある。
結局、3つの条件で江戸城は開城された(68年5月)。その3つとは
 1.無血開城
 2.武器、艦船引渡
 3.慶喜に対する寛大な処分(隠居―水戸謹慎〔最後は静岡で写真屋の主だった〕)。

実は、西郷等も慶喜に対する処分は妥協した方がよいと考えていた。というのも、
本格的に旧幕軍と争うことになれば、内戦となり、英仏につけ込まれる可能性が
出てきたからである。

一方、これに不満をもった旧幕臣の一部は彰義隊を結成して、寛永寺に籠もった。
これに対して、新政府軍は5月15日、彰義隊を攻撃して勝利した。
7時に黒門(国立博物館脇に現存、弾痕がすごい)を攻撃し、
完全に制圧したのは17時であった。

よほど怨みが強かったのだろう。新政府はこの戦いで死亡した彰義隊の遺体を
片付けることを認めなかった(後に認め、西郷像裏に慰霊碑がある)。

B奥羽列藩同盟
続いて、仙台藩、米澤藩を中心に奥羽列藩同盟が組織された。
だが、これも9月に平定された。特に、抵抗の激しかった所が会津であった。
8月に婦女子が鶴ヶ城に立てこもり、抵抗を始めた。最終的には9月22日、藩主
松平容保の降伏で終わった。だが、この時の戦いを見た、白虎隊の志士は、
会津城が焼け落ちて、主君が死亡したと勘違いして自刃してしまった。

ところで、白虎は四神の一つで、朱雀、青竜、白虎、玄武の一つである。
方向を表す神であり、中央は黄龍となる。
方向ごとに色があるのは五行説から来ている。
江戸でもこの色で場所を表している例がある。
目黒、目白、目黄、目赤、目青不動がそれ。

C箱館五稜郭の戦い
ところで、榎本武揚等2000人の旧幕臣は、
江戸開城と共に、品川から船に乗り、函館五稜郭に移った。
五稜郭は「☆」型をした城で、攻めるのは難しいが、防禦には優れた形をしている。

ここに立てこもり、慶喜や旧幕臣を呼び、独立国を作る計画であった。
(実際に独立宣言をして、アメリカが承認する直前まで行っていた)
これに対して、新政府軍が攻撃をして、69年5月に完了した。

こうして、戊辰戦争は終わったが、多くの使者が出た戦争であった。
このときの死者数は日清戦争の死者数に匹敵する数であった。

Posted by hajimet at 19:29 | Comments (0)


2014年6月14日
日本史授業 20140613 小御所会議〜戊辰戦争(1)

小御所会議と公武合体派の動き
12月9日、王政復古の大号令が発表された夜、宮中で小御所会議が開かれた。
ここで、慶喜の処分が検討され、辞官・納地が決定された。
 
これに対して慶喜と公武合体派は反発し、京都から大坂に移り拠点とした。
そして、「政権は依然徳川にあり」と宣言していた。
・現在のシリアもそうだが、国内に政府が複数出来る場合、
 どの政府と交渉するかは他の国にとっては重要な問題になる場合がある。
 この場合、公武合体側が政権能力があると宣言していることになる。

一方、江戸の会津、桑名を中心とする幕臣もこの処分に怒りを高めていた。
西郷隆盛は江戸の薩摩藩邸(三田)に浪士を集め、彼らに焼き討ちなどをさせて
旧幕府側を挑発していた。
 
これに対して、1867年12月25日、庄内藩士らが薩摩藩邸を焼き討ちした。
焼き討ちの場から逃れた薩摩藩士は、東海道を下り、品川、馬場付近の民家に火をつけた。
 
この情報を大坂で聞いた慶喜は、周囲の勧めもあり、薩摩(新政府)征討を決意した。
1月2日のことである。新政府側から見れば、この瞬間に朝敵になったといえる。
 
戊辰戦争
@鳥羽伏見の戦い
1868年1月3日。朝廷は慶喜を征討することに決めた。旧幕府軍は大坂から京都に向かったが、
鳥羽と伏見で薩摩軍と衝突した(鳥羽伏見の戦い)。薩摩は1月4日に「錦の御旗」を手に入れ、
士気が上がっていた。
 
錦の御旗とは、赤い糸で錦織りした地に、金糸で月、星、菊を刺繍した旗で、
承久の乱のときに初めて使われたという。これを持っている方が正統であり、
持っていない方が「朝敵」を意味する旗である。
(岩倉や薩摩は事前に旗を作って準備していた)
 
新政府側4000人、旧幕府軍15000人で、
新政府軍の方が人数ははるかに少なかったが、
兵器の違いや士気の違いによって、旧幕府軍が敗退した。
 
これにより、様子を見ていた近畿以西の諸藩が新政府に協力するようになった。
諸外国は、新政府と幕府のどちらも支援しない中立の姿勢を示すようになった。
(新政府を国際法上の交戦団体と認めたことになる)
 
敗退した旧幕府軍は大坂に戻るが、
慶喜は1月6日、密かに兵庫から船に乗り、江戸に脱出する。
新政府からすれば、徳川を倒す口実が出来たことになる。
 
A江戸城開場
新政府は2月に江戸への進軍を決め、有栖川宮熾仁親王を大将に東征を開始した。
東山道、東海道、北陸道の三隊に別れ東進した。
このとき、錦の御旗を掲げ「宮さん、宮さん」を歌いながら東征した。
こうして、彼らは、江戸に近づいていった。
 

Posted by hajimet at 09:57 | Comments (0)


2014年6月10日
日本史 20140609 「お蔭参り」と倒幕

Bお蔭参り
幕末の社会のエネルギーは、世直し一揆をお蔭参りに変えた。
もともと、旅行が自由に出来なかった江戸時代、
「寺社参り」と「抜け参り」は大目に見られていた。江戸庶民の一大娯楽であった。
彼らをガイドする本も出され、十返舎一九『東海道中膝栗毛』は代表的なものである。

cf.五右衛門風呂、弥次喜多道中。

87年、突然伊勢神宮のお札が降り、それがきっかけに一斉に人びとが踊り狂った。
   「ええじゃないか、よいじゃないか…」
 cf.外宮、内宮。
この狂乱状態は江戸から安芸国まで太平洋側に広がった。
背景は、社会不安と民衆エネルギーの合わさったもので、
末世の後の理想郷の出現を願ったもの。

 五穀豊穣と幸福を願う→伊勢信仰
 弥勒の下生を願う。

・倒幕
さて、66年7月家茂が死亡し、慶喜が十五代将軍となる。
一方、66年12月25日に孝明天皇が急死する。
討幕派による毒殺説も出るほどの急な死に方であった。

孝明天皇は親政、倒幕を希望していたが、
実際はそれまでの皇室の伝統を守ることと、和宮が江戸にいることで、
急激な革命には消極的であった。それゆえ、公武合体派が利用しやすかった。

孝明天皇の死去で、公武合体派は凋落してしまった。

新しい将軍に就任した徳川慶喜は幕権の伸張を図ろうとした。
フランスの後ろ盾を考えていた。だが、フランスはナポレオン三世後期に入り、
積極的な対外進出が困難な状況になっていた。
しかも、まもなくロッシュも帰任する。

一方、1867年1月1日即位した明治天皇は、
追放された公卿らを赦免した。彼らは京都に戻ったが、ここに岩倉具視や
討幕派の公家が参集した。

これに影響を受けた薩摩と長州は、薩長同盟を薩長攻守同盟に切り替えた。
西郷、大久保、岩倉らは明治天皇に武力による倒幕を上奏した。
1867年10月14日、ついに討幕の密勅が出された(原文読む)。
だが、これはうまく行かなかった。

というのも、同日、幕府側も「大政奉還」を申し入れたからである。
そのバックは、公武合体派であった土佐であった。
すでに坂本竜馬、後藤象二郎は「船中八策(資料を読む)」で、
五カ条のご誓文の原形に当たる案を発表していた。
この中には「万機宜シク公議ニ決スベキ事」という言葉がある。
 
これを受けて、藩主山内容堂は慶喜に大政奉還を建白していた。

これで行くときは、政治は朝廷の戻すが、万機議会で扱うことになり、
慶喜も政界に残ることが出来ると判断したからである
そして、事前に情報の入っていた宮中の動きに合わせて、
10月14日に大政奉還を申し入れた(原文読む)。

ここにも「従来ノ旧習ヲ改メ、政権ヲ朝廷ニ帰シ奉リ、広ク天下ノ公議ヲ尽シ」として、
「同心協力、共ニ皇国ヲ保護仕候得ハ…」として公武合体で行くことを申し出た。

これによって薩摩、長州は名目がなくなってしまったが、彼らは幕府を無くすことでなく、
幕府の権力一切を無くすことを考えた。そこで、幕府側を挑発することとした。

1867年12月9日(新暦1868年1月3日)、王政復古の大号令が出された(原文読む)。
薩摩、土佐、芸州、尾張、備前によるクーデターであった。
これにより実権は岩倉具視が握った。
 
その内容は、慶喜の大政返上と将軍辞退と認め、「至当之公議ヲ竭シ」とした。
すなわち、それまで公武合体派が主張した内容が、討幕側に移ったと言える。

これによって、摂政、関白、幕府は廃止された。
すなわち、公家政治、武家政治は終わりを告げたのである。
そして、臨時政府として総裁(皇族)、議定(公家、諸侯)、参与(藩士、庶人)が
置かれた。
 
参与には大久保、西郷らが入り、各藩士による雄藩連合が成立した。
これも、文久政変以来、公武合体派が取ろうとした形態が、新政府側に取り込まれたと言える。

Posted by hajimet at 20:34 | Comments (0)


2014年6月7日
日本史 20140606(2) 幕末の文化(1)
幕末の文化
幕末は開国の影響を受けて社会不安に陥っていた。そのため特異な状況が現れた。


@世直し一揆
開国後の経済変動と物価騰貴は農村を窮乏に陥れた。
一方で幕藩体制の動揺によって、一揆は政治的色彩を帯びるようになった。
すなわち、単なる年貢の減免ではなく、年貢自体の廃止を訴えたり、
村の役人の更迭を求めるようなものとなった。

これらは体制が安定したら、攻撃の対象とは出来ないことである。

このような『世直し一揆』が頻発した。ピークは1866年であった。
この年の物価上昇率が大きかったからで、
農村のみならず、江戸でも打ち壊しが起きた。

A民衆宗教(新興宗教ブーム)
一般に社会不安に陥ったとき、新興宗教ブームが起きる。
社会が安定しているときは、
自分の不安などを既存の宗教が吸収することができるが、
社会の変動が大きいと、既存の宗教では不安を吸収することが出来なくなる。
そこで、混乱後の希望、理想社会の修験を願って新興宗教が登場する。

鎌倉時代の新仏教もそうだが、幕末以来でも4回新興宗教ブームが起きている。
1回目は幕末、2回目は大正末から昭和初、3回目は終戦直後。「踊る宗教」など。
4回目は1980年代から現在まで。オウム真理教もこの一つ。
悲惨な事件をおこしているが、
そういう教団が一定の受け皿の役割をしてしまったということでもある。

幕末は、混乱状況を世界の終焉ととらえ、理想世界の出現を願う風潮が強かった。
こういうときに、教祖が神がかりによって起こした宗教が民衆宗教である。
すなわち、神の声を民に伝える役割をしているシャマン的要素を持っている。
(日本では、いたこ、ユタがこれにあたるし、神道も原形はこれ。
 また、新興宗教にシャマン的要素が認められるものが多い。)

多くの教祖が、本来は勤勉実直なのだが、あるとき病気のような体験をする。
その後神秘体験をへて教祖となっている。

幕末は神道系の民衆宗教と共に、弥勒下生信仰が登場した。
(弥勒信仰は日本では殆ど登場しない)

cf.弥勒下生信仰
弥勒はシャカの次にブッダになることを約束されている菩薩。
56億7千万年後に悟りを開くために、浄土で瞑想している。
その弥勒が悟りを開くと、
この世に下生して、その説法により衆生を悟らせるというもの。

その悟りを開くのがいつか…「今だ」として弥勒の下生を願う信仰。

では、このような思想の流れに基づいて誕生した宗教は何か。
@黒住教(備前 黒住宗忠)アマテラスと自分が一体となる神秘体験。
     「病気直し」を行う。
     信者が岡山から京都まで広がる。
     アマテラスが皇祖神であることから、
     宗忠を祀った京都宗忠神社は尊王攘夷運藤の拠点となる。
A天理教(大和 中山みき)世界を助ける「てんりんわう」が降りて吉良枯れる。
     安産と病気直し/陽気ぐらし
B金光教(備中 赤沢文治)
C丸山教(武蔵橘樹郡 伊藤六兵衛)
Posted by hajimet at 10:36 | Comments (0)


日本史 20140605(1) 倒幕への動き
倒幕への動き
このようにイギリスと薩摩、フランスと幕府という接近構造が出来た段階で
新たな動きが長州で出てきた。

長州は第1次長州征討と四国艦隊下関砲撃事件に敗北したことで、
攘夷が不可能だと言うことを悟っていた。一方、幕府は長州に対して、
貿易を禁じる処置を執った。

長州藩は保守派が権力を握り、幕府に恭順の意を示していた。
これに反発して高杉晋作は北九州に亡命して、桂小五郎と奇兵隊を組織した。

高杉晋作は松下村塾四天王と呼ばれた人物である。
松下村塾は長州の私塾で、吉田松陰が教鞭をとったこともある。
攘夷派や明治初期に活躍することを多く排出したことで知られる。

高杉は幕府の派遣で上海に行ったことがある。この頃の上海は太平天国の乱の
混乱と、英仏人が「我が物顔」に闊歩している時代だった。それを見た高杉は、
将来の日本も同じことになると「危機感」を感じていた。奇兵隊を作ったのも、
このような危機感が背景にある。

奇兵隊は64年12月馬関で挙兵し、長州の実権を握った。
この時、伊藤博文も一緒に活動している。

長州は急進派の支配するところとなった。
開国は避けられず、皇国を作ろうというもので、
そのために、藩政改革、身分制度廃止、西洋式軍隊の導入などが図られ、
イギリスに接近した。

だが、この時点ではまだ貿易が認められていない。
しかし、武器を入手する必要がある。

ところで、このとき薩摩はイギリスと接近して近代化の道を歩んでいた。
ただ、幕府を支える立場で、長州とは敵対していた。
しかし、イギリスと結んでいること、開国の必要性を感じていることなど、
幕府よりは、むしろ長州との理解関係の方が共通点が多かった。

そこで、土佐の仲介で両者が同盟を結ぶこととなった。薩長同盟である。
66年1月、薩摩から西郷、大久保。長州から木戸孝允、高杉が出席し、
それを土佐の坂本竜馬、中岡慎太郎が仲介した。

その結果、幕府が長州を攻撃しても、薩摩は長州を支援すること
武器は薩摩の名義で購入し、長州に回すことを決めた。

もちろん、公式には薩摩は幕府側であるから、密約である。

武器は「死の商人」グラバーの活躍が大きかった。
 cf.1 グラバー園、蝶々夫人
 cf.2 薩摩の兵制改革:吹奏楽、最初の君が代。

ところで、幕府は第一次長州征討の結果として、長州の領地割譲を要求した。
しかし、長州はその要求に従わなかった。

そこで、66年6月、第二次長州征討を指示した。
しかし、薩摩はじめ諸藩の不服従で幕府は劣勢に陥った。
結局66年7月、大坂に滞在していた家茂の死去を奇貨として、服喪、休戦となった。

幕府の敗因は旧式兵備と寄せ集めと言うことにあった。
長州は新式欧米的兵備と早い時期からの訓練、郷土愛による士気の高さがあった。
Posted by hajimet at 10:05 | Comments (0)


2014年6月3日
日本史 20140602
・第一次長州征討
幕府は威厳を回復するために、朝敵となった長州の征討を行った。
一方英米仏蘭は5月10日の攘夷の反撃の機会を狙って、
この機会に下関を砲撃して、下関砲台を占領した。
長州に攘夷は無意味であると言うことを思い知らせようとしたのである。
ただ、幕府軍側と戦闘にならないように、四カ国側は幕府に事前に連絡している。

結局長州は一時的に保守派が勢力を握り、蛤御門の変の責任者を処罰して、
全面降伏した。
しかし、賠償金を支払うことはしなかった。
攘夷は幕府の命令によるという理屈である。幕府は300万ドル負担することになった。

同じ頃薩摩でも動きがあった。1863年、薩摩の島津久光が江戸を退去するとき、
生麦事件が起きた。イギリスは幕府と薩摩に対して首謀者の処罰と賠償を求めた。
これに幕府は応じたものの、薩摩は応じなかった。そこでイギリス艦隊7隻が
鹿児島湾を攻撃した。薩英戦争である。これに薩摩軍は激しく応じ、
イギリスは、目指した鹿児島上陸を果たせなかった。結局勝敗不明のまま、
講和条約を結んだが、これにより薩摩は攘夷が不可能なことを悟ることとなった。
 cf.錦江湾沿いの薩摩軍の墓地

・条約勅許、改税約書
その後、四カ国の公使はは兵庫沖に軍艦を派遣し、
幕府に対して、賠償金減免と共に、条約勅許と兵庫開港(1868年予定)を求めた。
ちょうど将軍も長州征討のために大坂にいたため、
朝廷と幕府双方に圧力を加えることが出来た。

四カ国は、井伊直弼が独断で条約を承認したときと情勢が変わって、
仮の統治者である「タイクン」でなく、
実質的統治者の「ミカド」の勅許がなければ、条約を安定して運用できないと
考えたのだ。

これについて、1866年(慶応元年)10月に御前会議が開かれた。
御前会議は、近代史では初めて登場するが、
それだけ朝廷の力が強くなったことを示している。

これによって、兵庫以外の開国、開市を許可した。
違約条約はここで正式な条約になったとも言える。

兵庫は大坂、京都に近く、
極度の外国人嫌いだった孝明天皇は開港させたくなかったのだ。

兵庫開港の勅許は1867年6月のことであったが、
このときは既に明治天皇と慶喜の時代になっていた。

続いて1866年改税約書の締結を迫られる。
日米修好通商条約は締結5年以降関税率の改定を認めているが、
条約の勅許とともに、ようやく改定が可能になったとも言える。

この改定は、イギリス公使、パークスが中心になって行われたが、
パークスは日本を下に見る傾向の強い人だった。

そこに兵庫不開港を認める代わりに、清国と同じ方式での改定を要求したのだ。
その内容は、輸入関税を一律5割(それまでは0〜35%)として、
従価税でなく従量税を採用した(現在、自動車重量税や酒税が従量税)。


これによって自由貿易が促進されたが、
資本主義は基本的に弱肉強食の世界である。
日本に安価な製品が大量に流入することに反して、産業界は大打撃を被った。

現在でも、TPP交渉が行われているが、同じような問題が起こりうる。
現在特に問題になっていものはブタであるが、ブタ産業が成り立たなくなる可能性がある。

かつては、牛、レモン、紅茶、バナナなどが問題となったが、
牛はブランド牛化することで対応した。

さらに従量税のため、高価な商品ほど利潤が大きかった。
これらを通じて外向の主導権は朝廷に移っていた(事実上の明治維新の始まり)。

・英仏と薩摩、幕府

このような流れの中で、イギリスは幕府を見限り、
安定した市場を求め、条約を履行できる強固な新政権の成立を期待し始めた。

薩摩も文久改革後の薩摩と幕府の確執と
(国学VS水戸学:大老の会議は64年に開かれなくなる)、
薩英戦争の結果、開国論に移り、イギリスと接触し始めた。

同時に西郷隆盛、大久保利通若手改革派の下級武士が藩の実権を握った。
薩摩はイギリスに留学生を送るなどするほか、近代工場を造るようになった。
パークスも薩摩を訪れている。

これに対抗した国がフランスである。
ナポレオン三世の時代で、イギリスに対抗して拡張政策をとっていた。
フランスは横須賀製鉄所の建設についての契約書を幕府と交わした。
仏蘭西公使ロッシュの働きかけで、
病気によって壊滅的打撃を受けているフランス養蚕界のために、
蚕卵紙や生糸をフランスに売り、その売り上げを製鉄所建築に回すこととした。
幕府からすれば、貿易を独占することが出来るので、利害関係が一致したのである。

こうして、
イギリス、フランスの対立を背景に、事態は急速に倒幕に向かうのである。
Posted by hajimet at 20:16 | Comments (0)


2014年5月30日
日本史授業 20140530 尊王攘夷運動と八月十八日の政変
F尊王攘夷運動

1862年7月に始まった文久の改革は、島津、慶喜の思想面の違いと、
京都の事情でうまく行かなかった。

攘夷派が集まっていた京都では、京都警備役の島津久光が京都を去り、
1862年後半、譲位派、特に長州の力が強くなった。

長州藩では松下村塾出身者が政権を握り、攘夷が藩是となった。
また、土佐でも土佐勤王党が力を持つ。

そして、長州藩主毛利敬親、土佐前藩主山内豊信が上洛した。
これによって、京都の主導権は攘夷派が握ることになった
彼らは「天誅」を合い言葉に京都に集まってきた。

一方、幕府側は、これに対抗して
京都守護職会津松平容保傘下の近藤勇(調布近郊の生まれ)に新選組を作らせて、
京都を警護させる

(好きな人は、ずっと語っていてもらいたいだろうなと思いつつ、さらっと流す)。

このような状況を背景に孝明天皇は、攘夷の命令を下しに、急進的攘夷派の公家、
三条実美を江戸に派遣する。

さて、三条実美の江戸訪問を受けて、1863年3月家茂は京都に上がる。
天皇は和宮の兄であるとともに、攘夷を約した相手だった。
家茂は3000の兵を連れて二条城に入った。

将軍に指導力があることを示し、朝廷を牽制するためであった。
ちなみに、将軍が京都に行くのは家光以来、229年ぶりのことであった。

しかし、家茂は天皇の意向を抑えることが出来ず、
5月10日攘夷決行を約束してしまった。
これを受けて1863年5月10日、長州は下関で英仏蘭の船を攻撃した

G八月十八日の政変
このように攘夷派の力が強くなったことを良く思わなかった会津、薩摩などと
公武合体派の公家は、8月18日、攘夷派を抑えるためにクーデターを行った。

すでに攘夷派と結んで親政をめざした孝明天皇は
藤原家の神社、春日大社と神武天皇陵を参拝しており、
親政後には天照大神を祀った伊勢神宮に参拝する予定まで立てていた。

しかし、公武合体派に宮中を抑えられ、
長州藩士や三条実美ら七卿は変化記できずに都落ちをした(七卿落ち)。
京都は公武合体派が実権を握った

孝明天皇も「自分の意思は8月18日以降の動きである」と宣言した。
攘夷派はハシゴを外されてしまった。

そして、長州は再起をかけて新たな動きを起こすこととなる
そのきっかけは64年6月の池田屋事件であった。

再び京に参集し始めた長州藩士は池田屋に集まってクーデターについて
相談していた。大風に乗じて京都に火をつけ、そのすきに孝明天皇を
長州に連れ出すと言うことであった。しかし、藩士の一人が新選組につかまり、
ばれてしまった。その結果、会津、桑名などの兵が囲む中、池田屋が襲撃され、
死者6人などの惨事になって仕舞った。

これを受けて、長州は三条実美らの名誉回復を求めて1500の兵で京都に向かった
しかし、7月、皇居近くで薩摩、会津、桑名と戦い敗退した。
これを蛤御門の変、禁門の変という。このとき砲弾一発が宮中に落ち、
それによって後の明治天皇が失神したという逸話が残っている。

長州はこの戦いで負け、朝敵とされてしまった。
というのも、
孝明天皇が(本心とは別として)公武合体派を支持していたのであって、
長州はそういう天皇の立場に反して、天皇のいる皇居を襲撃したからである。
Posted by hajimet at 21:50 | Comments (0)


2014年5月27日
日本史 20140526 公武合体とその背景

C公武合体(1)

これまで、幕府の中では開国派と譲位派が対立していた。
開国派はそれまでの幕政の独立を維持しようとしてきた。
最後に井伊直弼が支えようとした。

だが、桜田門外の変で井伊が殺されると担い手がなくなり、
譲位派に妥協する政治をする。同時に朝廷をどう取り込むかが問題となる。
 
堀田正睦(安政の大獄で死去)の次の老中
安藤信正は、開国派であり、井伊の外交政策を継承しようとした
一方政治的には井伊時代の反省もあって、穏健路線を取ることにした。
 
彼が考えたのは、
幕政を建て直し、権威を維持するために朝廷の力を利用しようとしたことであった。
これが公武合体である。

安藤の考えた公武合体は幕府を中心とした公武合体であった
 
安藤が理由としたことは、表向きは朝廷が攘夷をするためには、公武合体が
必要と言うことであったが、
その裏では、朝廷が(内勅のように)幕府の政策に反対すれば、
廃帝もあり得るというものであった。
 
その象徴として和宮を家茂と結婚させることが図られた。
1860年末には結婚を朝廷に申し込んでいる。

しかし、朝廷側は、和宮にすでに婚約者がいること、孝明天皇と異腹の兄弟で、
そちらの母親から許可が取れていないことなどを理由に結婚を拒んできた。
そもそも荒い武士の跋扈する遅れた東国なんかに妹を送り出したくなかったのだ。
 
だが、次第に外堀が埋められ、1861年に孝明天皇は婚姻を許可した。
ただし、攘夷を実行し、鎖国にすることが前提である。
幕府側は10年以内の攘夷を約束した(実際にこの攘夷は実行に移せる)。
 
和宮も、江戸城でも御所と同じ生活をすることや、
年に一度の墓参りのために京都に戻ることを条件とした。
 
和宮は1861年11月に京都を出発した。
経路は中山道。道幅が狭いこともあって供奉の行列は50キロにも及んだ。
東海道は大井川の川止めがあって、予定が立たないことと、
結婚に反対する過激派の襲撃を受ける恐れがあった。
 
一方で、中山道は日光への例幣使の道に使うなど、
公家にとっては馴染みの道だった。

沿道の住民には、高いところから見ないとか、
犬や鶏は、鳴き声の聞こえないところに移させられた。
 
1862年2月、いよいよ結婚式。
しかし、和宮が内親王になっていたため、
将軍家の結婚式なのに、主人は和宮となった。

その後の生活は和宮にとって満足行くものではなかったようだ。
考えてみれば、御所風の生活と言っても、
ハモのようなものは江戸では手に入らない。
 
そうではあったが、和宮と家茂の中はとてもよかったようで、
近年、増上寺で行った発掘では、
家茂の姿が映った銀板を抱いて寝ていたことが分かった。
 
D坂下門外の変
このような幕府側の動きに対して攘夷派の反発が強まり、
1862年2月、安藤信正が坂下門外で襲撃された。
これも水戸藩浪士による者で、1860年から計画はされていた。
桜田門の変以来、警備が厳しくなっていたために、
安藤は大した傷も負わずに済んだが、これをきっかけに安藤は失脚した。
 
E公武合体(2):文久の改革

1862年、藩主島津忠義の父、島津久光は、朝廷から京都の警護を命じられた。
尊攘派が集まって治安に問題が出たからである。
久光は自己の独自の公武合体案をもって鹿児島を出発した。
京都に着き、朝廷より改革案の承諾をとる。
そして、朝廷の使者とともに、江戸に来て、将軍に謁見して、幕府もこの案を吞んだ。
 
その案とは幕府を改革すること、言い換えれば
『公』に重点を置いた合体であった。
 
 1. 一橋慶喜を家茂の後見職とすること。
 2. 薩摩、長州、土佐、肥前、仙台の藩主を五大老とすること
  (重要な港を持つ所による雄藩連合。倒幕を考えてはいない)。
 3. 兵制を西洋式にする。
 4. 参勤交代を1勤3年とし、滞在期間を100日に縮める。
   人質として江戸にいた大名の妻子の帰国を認める。
 
これにより、一橋派の力が伸びた。
 
ところで、島津は上洛するときと、江戸から京都に戻るときに
大きな事件を起こしている。

 1.1862年の寺田屋事件。
    倒幕の動きが強まり、寺田屋に志士が集まると、久光は藩兵に命じて
    寺田屋を襲撃させた。久光は倒幕までは考えていないと言うことだ。
 2.生麦事件
    江戸から戻るときには生麦事件を起きた。
 
これにより、島津を中心に改革がうまく行くかのように見えた。
しかし、次第に慶喜と島津の間で意見の違いが出てきて、改革はうまく行かなかった。
そこには、思想的な背景があった。つづく。
 
【参考】攘夷思想について
島津と慶喜の行き違いは思想的背景が違うとことに由来する。
当時攘夷に結びつく考えは大きく2つの流れがあった。

(1)国学
 賀茂真淵−本居宣長−平田篤胤と続く。

平田は全ての古伝は日本にあったと考え、
アダムとイヴも実はイザナギとイザナミだったとする。
文字もそうで、漢字渡来以前に神代文字があったとする(ハングルで理解出来る)。
すべてが日本にあったわけだから、神道と天皇を尊重する流れとなる。
 
平田は多くの弟子を取り、影響は広がった。
地方では郷土史に関心を持つとともに、地方を改良とする人が多く出たし、
政治では「尊皇」が重視されるようになった。
そして、これと攘夷が結びつく。このため倒幕へと進む。
 
(2)水戸学
 藤田幽谷、藤田東湖らによって作られていく。
こちらは、忠で以て互いの職分を果たすことを重視する。
また、天皇を中心に忠愛で結ばれている社会を国体という。
 
忠で結ばれている関係を重視するので、幕府を擁護する考え方に繋がる。
すなわち天皇から政治を委託された幕府は、天皇に対して忠で結ばれていれば良い
これによって、政治は王道が求められる。
 
従って、「尊皇」ではなく、「尊王」であり、これと攘夷が結びつく。
京都の「尊皇派」と違い、「そんのうじょうい運動」は「尊王攘夷運動」である。
 
ところで、現在に於いても攘夷派克服されていない。
と言うのも開国の動き自体が、攘夷の発展系だからである。

国学者の大国隆正は、
攘夷をするためには、まず国力を付けなければならない。
すなわち、外国と交易をして、富国強兵をすることによって
初めて外国と対峙できる
とした。

その後も、日本の歴史の中で、この考え方はときどき顔を出している。

Posted by hajimet at 14:45 | Comments (0)


2014年5月12日
日本史授業 20140512 2時間目(政局の転換)

政局の転換
 この時期は政局が大きく変わる時期であった。
 
(1)将軍継嗣問題
  13代将軍家定には子供がいなかった。そこで早いうちに後継者を定め、幕政を
安定させようとした。しかし、後継者候補をめぐり2派閥が対立した。
   
   ・一橋派(一橋慶喜):慶喜の識見で幕政を改めようとする
                  =島津斉彬、松平慶永ら(幕府の独裁を嫌う)
   ・南紀派(徳川慶福):吉宗以来の血統を重視、家定の従兄。ただし、幼かった。
                  =井伊直弼
     ↳井伊直弼:開国以外は超保守:血縁でなく賢愚で人を選ぶのは西洋の悪習。
    幕府内では一橋派が強かった。
 
(2)安政の大獄
 1858年4月 井伊直弼:大老就任
      6月 日米修好通商条約締結
         将軍の跡継ぎを徳川慶福(14代家茂)とする=一橋派を押し切る。
  
   強引な手法:反発。特に一橋派、尊王攘夷の志士〔特に京都〕の反発
   孝明天皇の怒り(違勅問題):朝廷の権威をないがしろにする
     →幕府への不満を水戸藩に下す(内勅)。
 
これに対して、井伊直弼は幕府に不満を持つ公家、大名を抑え、家臣を処刑した〔安政の大獄〕
     ・徳川斉昭:謹慎、蟄居
     ・松平慶永:隠居、謹慎
     ・一橋慶喜:登城停止
     ・吉田松陰、橋本左内:死刑
 
これにより井伊直弼は幕府の独裁を強化しようとした:
政治は天皇から委任されているのだから、危機に応ずることが当然と考えた。
しかし、かえって、水戸、薩摩、松下村塾の弟子の中から反幕の志士が生まれた。
 
…井伊直弼にはブレインがいなかったため、独裁に歯止め、ブレーキを
かけることが出来なかった(ブレインの有無はどの時代でも共通のこと)。
 
(3)桜田門外の変
    1860年3月3日(新暦3月24日)
      雪の中、江戸城に登城しようと自宅を出たところで水戸藩浪士(脱藩)によって殺害。
       cf.14世紀から19世紀後半は小氷期。
      (井伊邸は現在の憲政記念公園の場所。門と桜田門は目と鼻の先)
 
      このころ水戸藩内では、「内勅」をめぐって返納を主張する上級武士と、
      返納に反対する下級武士が対立していた。その一部の藩士が脱藩して
      (藩に迷惑をかけないように)事件に臨んだ。
 
浪士は「除奸」のつもりで井伊を斬った。倒幕のつもりはなかった。だが、本人の思うように
歴史が動くわけではない。これがきっかけに大きく政局が転換した。というのも、幕藩体制は
井伊直弼の個性によって保たれていたからで、井伊直弼に変わる人がいない以上、
そのような大勢は破綻し、崩壊に向かうことになったのだ。その結果…
 
 ・一橋派や朝廷と妥協する方向に政治が進むこととなった(公武合体)
 
また、事件が外国に知られた。すなわち
 
 ・幕府の不安定さが広く世界に知られた。
   それゆえ、各国が幕府に対する態度を決めることになった。すなわち、
    a) 幕府を改革させ、自国の勢力を伸ばそうとしたフランス
    b) 幕府に見切りを付けて、新たに日本を支配するであろう勢力を支援して、そこで
      自国の勢力を伸ばそうとしたイギリスのような国々が現れることになった。
               (歴史の中でイギリスとフランスは常に対抗状態であることに注意)  
 
次回は(4)公武合体から
  

Posted by hajimet at 16:52 | Comments (0)


日本史授業 20140512(開港の影響:1時間目)

開港の影響…続き
交易が始まったことで
(1)物価高騰
  ・大幅な輸出超過(品薄になる)
  ・海外から安価で良質な商品が入るようになる。
  ・金銀の交換比率(日本=1:15、海外=1:5。この差を利用して金が海外に流出)
     1860年 万延の貨幣改鋳:金貨の価値を3分の1に改鋳
(2)経済構造の変化
  ・産業発展:生糸産業(cf.八王子)、縮小:綿作、綿織物
  ・新興商人〔在方商人の発生〕
    生産者→在方商人(在郷商人)→居留地(居留地貿易)
     在来商人に打撃。江戸に商品が入ってこない。
     幕府は貿易統制をしようとする
      →1860年 五品江戸廻送令(雑穀、水油、蠟、呉服、生糸)
         だが、在方商人、外国の反対(自由貿易に幕府の統制はありえない)で失敗。
(3)武士の生活の困窮(固定量の米が入ってくるだけ…物価の高騰に対応出来ない)
 
(4)社会構造の変化
  ∴ (1)(2)(3)より 
  物価高騰の原因は外国貿易の開始。それゆえ、批判の目は幕府にむく。
  同時に商人や外国人の襲撃事件が頻発した。それが攘夷運動へと変化していく。
   1860 ヒュースケン襲撃
   1861 東禅寺事件
   1862 生麦事件(→薩英戦争)
 
結論 これらを通じて反幕勢力が結集し始めた
   ・朝廷
      朝廷自身に攘夷の風潮が強かった。特に孝明天皇。
      ペリーの来航による事件報告以来、朝廷の権威は上がってきていたが、
      その権威の下に反幕勢力が結集するようになった(新しい旗頭としての朝廷)
   ・西南雄藩
      列国の接近やアヘン戦争などを受けて、早い時期から近代化を進めていた。
   ・下級武士
      実際に生活が苦しい。
   ・富商
 
  

Posted by hajimet at 16:35 | Comments (0)


2014年4月30日
日本史授業 20140428 開国とその影響(2) 日米修好通商条約
前回続き
(2)日米修好通商条約
・開港場:神奈川(横浜)、長崎、兵庫(神戸)、新潟(+箱館。下田は閉じる)
      居留地は警察権が及ばない。教会の設置が認められる(全国は1873)。

       長崎の大村教会は居留地の中に築かれた教会であるが、潜伏していた
       地元の隠れキリシタンも礼拝に来た。
       それがばれて、多くの人が弾圧された。
・開市:江戸、大坂
      逗留のための居留地(警察権が及ぶ)。東京は築地。墓地は青山墓地

・自由貿易:幕府の貿易統制が出来なくなる。
・領事裁判権(治外法権は若干意味が異なるので、使わない方がよい)

「万国公法」上、日本は半開国に属する(文明国、半開国、未開国)。未開国は文明国が植民地にしても構わないが、半開国は伝統があり強固な王権があるため、植民地にはしない。ただ、法制度が異なるために、文明国民に対する法の適用はしないようにさせた。また、実際に鈴ヶ森、小塚原、神奈川の木戸口などで処刑された人を見たら、同じ法で裁かれたくないと考えた。
                  
    cf.「首」、「県」の字源

・税率:輸入は0から35%(大部分は20%)。輸出は5%(5年後に見直し)
   関税自主権は無し。

日米和親条約との関係は、和親条約+修好通商条約という関係。下田港のように、和親条約の内容を変更する場合は、修好通商条約で修正する。したがって、片面的最恵国待遇は引き継がれることとなる。

日米修好通商条約は3点に於いて不平等条約であるが(領事裁判権、関税自主権なし、片面的最恵国待遇)、この3点を解消することが今後の課題となる。半開国から文明国に格上げされることが重要だった。そのため「涙ぐましい努力」を行った。それでも、領事裁判権などが解消するのは明治の後半であるし、完全に平等になるには大正に入るまで待たなければならなかった。

1858年には同様の条約をオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも結んだ(安政の五カ国条約)。そして、その批准のために、1860(万延元)年、外国奉行新見正興が渡米(条約は締結手続きと批准の手続きが必要)。咸臨丸で太平洋横断(勝海舟)。

   cf.最初のアイスクリーム。

(3)影響
開港することによって、日本は資本主義の国際経済の波に呑まれることとなった。資本主義は市場経済、自由経済ともよばれるが、経済活動を自由に行うことが、結果的に経済を安定させ、発展させると考える(cf.アダム=スミス:「神の見えざる手」)。しかし、一面においては弱肉強食の世界でもある。負け組に入るとなかなか這い上がることが出来ない。当時の日本は圧倒的に経済的には弱者であった。そのため経済的に植民地化される可能性も十分あった。半開国が未開国扱いになるということである。

1)1859年より横浜、長崎、箱館で貿易開始。イギリスが中心。アメリカは南北戦争により力が落ちる。

輸出:生糸、茶、蚕卵紙(フランス、イタリアで蚕の病気が流行ったため)、海産物
輸入:毛織物、綿織物、鉄砲、艦船など
                      …続く
   


Posted by hajimet at 10:25 | Comments (0)


2014年4月26日
日本史授業 20140425 ペリー来航(2)、開国とその影響(1)

ペリーは琉球へと去ったが、ペリーがいるときは江戸は混乱状態であった。
4隻で来た黒船が品川では10隻に増え、江戸には90隻で来たと伝わってきた。
江戸周り航路が停まったため、江戸に米が入らなくなった。
 「泰平の眠り覚ます上喜船 たった四杯で夜も眠れず」
 「アメリカの米よりくはぬ国なれど 日本人は粟をふくなり」
 
6)ロシア
ペリーが一度去った後、1953年7月、ロシアのプチャーチンが長崎に来航した。
 要求事項:国交、国境線の画定
 
1953年はクリミア戦争(ロシア×イギリス)が始まった年。本来はそちらに集中する時期であるが、米国がイギリスの潜在的友好国であるため、英国を牽制するために条約締結を要求した。イギリス船もロシア船を追いかけ長崎に来るが、英国は日本との通商、国交にそれほど関心が無かった。
 
7)日米和親条約(神奈川条約):1854年3月3日
 条約文を読む→解説→板書の順で
  ・国交
  ・捕鯨船の難破船の救助、保護
  ・米清航路の薪炭食糧補給のための寄港
  ・(そのために)下田、箱館開港。領事派遣、自由移動地域(27里:1里≒4Km、1町は≒400m)
  ・片面的(片務的)最恵国待遇(条文に則して内容を説明)
 
 ※通商については日米和親条約では扱われていない。
米国側は箱館、神奈川、浦賀、鹿児島の開口を求めたが、神奈川、浦賀については下田を、江戸湾の入り口にある良好として紹介して、そちらにした。函館はアメリカ側からの要求。
 
領事(大使、公使との違いは説明済み)の来日については、日米で条文の解釈に違いがあって、のちに問題となる。
 
8)他の国とも同様の和親条約。
 オランダ(54)、ロシア(54)、イギリス(55)
   ロシア:ウルップ島以南を日本領(北方領土問題の日本側の根拠)。樺太は共同管理。
   イギリスは日本に対する関心が弱いため1年遅れた。
 
9)幕府の対応
老中の阿部正弘(秀才、温厚、人望あり)は「鎖国は祖法」を転換すると言うことでなく、日本の一大事と考えた。そのために日本中まきこんで、危機意識を煽ろうとした。そのため
 ・朝廷に事態を報告=朝廷は形式的に将軍に征夷大将軍の位を与える立場であるが、
      それ以上のことはしなかった。京都で勉強に励む人という程度の位置づけであった。
 
 ・大名から足軽、町人に至るまでペリーにどう対応するか意見を募集
      これまでに無かったこと、
 
しかし、結果として朝廷の権威が上がり、大名に幕府に対する発言の機会を与えることになり、阿部正弘の思惑とは異なる方向に行くことになった。さらに
 ・安政の改革
   徳川斉昭(元水戸藩主)幕政に△
   松平慶永(越前藩主)、島津斉彬(薩摩藩主)と協力
    いずれも譲位派。攘夷派を幕政に組み込むことで攘夷論を抑えることと、
    急進的改革派を抑えようとした。
   国防強化
    台場、大船建造の禁を解く。講武所(江戸)、海軍伝習所(長崎:勝海舟、榎本武揚)
 
開国とその影
1)ハリス
 1856年7月 ハリス下田に来る。日本側は双方の交渉の上来ると考えていたので、驚く(条文の解釈の違い)。ハリスは通商を要求するために大統領の親書を携えて将軍に謁見(1857年10月)。
 
これに老中堀田正睦は条約調印の勅許を求めて京都に行った。攘夷派から勅許がなければ条約締結は認められないと言われたためで、勅許は降りないだろうと考えていた。というのも孝明天皇をはじめとして公家は開国に反対の雰囲気が強かったから。案の定、勅許は得られなかった。1858年4月、井伊直弼が大老に就任すると、勅許なしに日米修好通商条約に調印した。この勅許なしに行ったことは、この後しばらくの間、大きな問題となる。
 
(条約を読みながら板書)
神奈川、長崎、新潟、兵庫を開港
(神奈川は実際は少し離れた横浜(今の桜木町付近)。防衛のため。兵庫も似た条件。新潟は信濃川の河口で、上流からの砂と、季節風の砂で浅くなりやすい海)。
開港場に居留地:事実上租界(日本の警察権は及ばない)
 
江戸、大坂の開市、そのための居留地(逗留地:警察権は及ぶ)
 
…次回再び日米修好通商条約から。
 
 
 

Posted by hajimet at 11:40 | Comments (0)


2014年4月22日
日本史授業20140421 欧米の進出(3)、ペリー来航(1)

4)アメリカ。
アメリカは領土的野心がなかった。
アメリカは日本に米清貿易の寄港地、捕鯨遭難者の救済と寄港地を求めた
 
これは日本にとって幸運だった。このようなアメリカが最初に開国させたから、他の国もそれを基準として条約を結ぶことになったからである。
 
当時のアメリカは捕鯨大国で年間1万トンの鯨を捕っていた。油を取ることが目的であって、それ以外を利用しようとしなかった。クジラを大西洋で取り尽くしたため、太平洋側で陵をするようになったが、漁場は日本近海であった。そのために遭難者の救助や、薪炭供給が必要だった。
 
一方アメリカのフロンティアは19世紀半ばに太平洋岸に達した(これが太平洋上を進み続け、太平洋戦争に繋がる)。1848年にはゴールドラッシュが始まったこともある。そうなれば、喜望峰まわりで中国に行くよりも、太平洋を横断する方が早い。これらが重なった。
 
1846年、東インド艦隊司令官のビットルが浦賀に来る。しかし、「アメリカ的フランクさ」で接しようとしたので、日本側に受け入れられなかった。
 
5)ペリー来航
 次いで、1853年旧6月、ペリーの率いる黒船が来航した。1年以上かけて来た。朝の浦賀では、霧の中、突然大きな船影が現れた。余りの大きさに大島が動いたと思った漁民がいたほど。船の名前はサスケハナ号。川の名前と原住民の部族名から付けられた。
 
木造船で黒く塗られていた。動力は3本の帆と蒸気水車。全長78.3m、幅13.7m、喫水6.25m、最大速度10ノット。対する千石船は1本の帆、甲板無し。全長29m、幅7.5m、深さ2.4m、速度7ノット前後。黒船の方が、縦横ともに千石船の2倍以上。当時、世界でも最大級の軍艦だった。
 
ペリーは日本のことを、シーボルト『日本』、ゴローニン『日本幽囚記』通じて勉強していた(勉強せずにきたビットルは違う)。その結果、日本人は、仕事をよくし、仕事が早く、世界有数の教育国で、細かい手工芸や細工が得意(だから日本人の手は細いという誤解)と認識していた。
 
このような評価をしたペリーは、開国させるためには虚礼を守るか、高飛車になるかしかないと考え、結果的に後者を選択した。
 
でもなぜアメリカが開国に動けたのか。ロシアでも、イギリスでも、フランスでもない。

ヨーロッパではフランス二月革命の混乱が続いていた。また、ロシアのクリミア半島進出に対して、イギリスと対立した「東方問題」が起きていた。そのため、アジアに力を注ぐ余地がなかった。だからアメリカが最初に開国させることが出来た(その後、アメリカも南北戦争が起きる)。
 
アメリカ大統領の天皇宛の親書では(以下史料を読み解く)(1)捕鯨難民の救助、(2)貿易船の薪炭提供、(3)自由貿易を要求していた。この要求を老中阿部正弘は一年後の回答を条件に受け取った。国内の調整が必要だったから。各藩の利害関係の調整も必要であるし、天皇との関係も潜在的に調整が必要となるからである。(次回は阿部正弘の動きと日米和親条約)

Posted by hajimet at 20:46 | Comments (0)


2014年4月19日
日本史授業20140418-2 欧米の進出。開国前夜(2)
3) イギリス
ロシアに続けて来航(1808)。

1808年 フェートン号(長崎)
(年表を見る)1804年 ナポレオン法典
       1805年 トラファルガー海戦
       1806年 大陸封鎖
       1814年 ウィーン会議

ヨーロッパではナポレオン戦争が行われていた。
長崎出島のオランダ商館を攻撃しに来た。船はオランダ国旗でカモフラージュ。
この当時オランダは日本に来フェートンは出島のオランダ商館を攻撃しようとして来た。オランダ=フランスだったから。

そのようなことが続いたため、1825年、幕府は異国船打払令を出す。
 史料:「打ち払いの所」と「間違えても構わない」の部分に線を引く
  
しかし、イギリスは軍事力によって強引に植民地化を進めていた。
1840年にアヘン戦争、1856年にアロー号事件(アロー戦争)。

アヘン戦争はイギリスがインド、中国と三角貿易を行おうとした結果である。
イギリスは中国に輸出するものがなかった。
そのため、中国から金を回収することが出来なかった。
それを回収するため、インドからアヘンを送り、
インドを通じて中国の金を回収しようとした。

 cf. アヘンと覚醒剤の違いについて
 cf.アロー号事件のきっかけについて。

アヘン戦争の様子をみて、不慮の攻撃を避けるために、幕府も体制を改め、
1842年、天保の薪水給与令に改めた(史料)。

1844年、オランダ国王も日本に開国を勧告した。
     自国だけで日本貿易を独占出来なくなったこともある。
Posted by hajimet at 13:22 | Comments (0)


日本史授業20140418-1(欧米の接近1 開国前夜)
開国、
1) 背景。ヨーロッパの変化。
   ・民主主義
   ・産業革命の進展。

 a 蒸気機関の改良(1772)、蒸気機関車の登場(1802)、蒸気船の大西洋を横断(1838)。
  cf.大西洋と太平洋の文字の違いの意味
   〔マゼランの航海と西にある大洋…ハワイが有るか無いかではない)。

 b 大量に安価に生産できるようになったこと。
     原料供給地と市場が必要となる。
     その結果植民地化が行われる+軍事力。
  19世紀後半まで力による植民地化が行われる
  (韓国を植民地にした時は力による植民地化が無理になってきた時期)。

2) ロシア
まず日本に来たのはロシア。
ロシアは15世紀中頃に発展しはじめ、18世紀中頃には沿海州、18世紀末にはアラスカまで進出する。

ロシアのキーワードは南下政策と東進政策〔と言う言葉はないが〕。
  cf.いまのクリミア半島情勢。⇒ここに勢力の衝突がおきると大きな戦争になる。
    かつて数回大きな戦争が起きている。

ロシアのアラスカ進出により、アラスカ−中国貿易が始まる。
陸路やウルップ島を中継地にするのは不便。
同時に千島列島の漁業の問題が出てきた。

そこで日本と交易を求める。
 1792年 ラックスマンが根室に来航(エカチェリーナ二世のとき)。
  船を長崎に回航した後(長崎奉行所:外国に対する唯一の奉行所)、
  鎖国(多分当時は違った言葉を使った)は「祖法」として帰国させた。

つづいて1804年、レザノフが来航。幕府が冷淡だった目、樺太と千島を攻撃して帰国。 幕府も対応として蝦夷地を天領とし、間宮林蔵を探検させて、樺太が島を発見した。
ロシア側はアムール川(図表は黒竜江)の河口と思っていた。
実際に間宮海峡の塩分濃度は低く、流氷が出来るのもその影響。

日本方面への南下政策が失敗したロシアは、その後カリフォルニアに関心を示した。
したがって、ロシア船の来航はとりあえず収まった。
Posted by hajimet at 12:57 | Comments (0)


2014年4月16日
日本史授業20140414(いわゆる鎖国体制)

1.いわゆる「鎖国」:キリシタンを抑えることと幕府による貿易統制策として
 
 貿易港を平戸から長崎に絞り、出島に絞っていく。
  1616 貿易港を平戸、長崎に(中国船以外) 
  1624 スペイン船の来航禁止。
  1633 奉書船以外の日本人の渡航禁止(35年日本人の海外渡航、帰国禁止)。
  (1637 島原の乱。〔島原側は壊滅状態となり、小豆島から人を移す=島原素麺〕) 
  1639 ポルトガル船来航禁止
  1641 オランダ人を出島に移す。
 
平戸は東シナ海からのルートで最初に現れるところ、
長崎は湾奥が深く、天然の良港。そこを埋め立てて出島を作る(現在復元)。
イギリスは拠点がゴアだったため、遠すぎて来なくなった。結果的にオランダが残る。
結果的に「いわゆる鎖国」となった(「鎖国」はケンペル『日本誌』の翻訳(1801)で初出)。
 
2. 外国への窓口
(1)長崎、
a)オランダ:出島オランダ商館長はオランダ風説書を幕府に提出。漂流民も多く、幕府は海外事情をよく知っていた。
 
b)明清(殷周秦漢…、もしもし亀よで覚えられる。王系が変わると国号も変わる)。
 最初は日本人と混住していたが、のちに唐人屋敷に移される
 (今も道教寺院がある、おくんち、チャンポン)
 
(2)対馬(宗氏)。地形の関係から農業に向かない(3日間走ったが、山道とイカ釣り舟ばかり)。
九州からは200キロ近くあるが、朝鮮からは60キロほど。
直視できるし(釜山の花火大会は対馬北端で見学できる)、韓国の携帯使える。
 
それだけ近いから朝鮮から米を輸入した。
対馬は南北は100キロ、東西は数キロの幅で最も狭いところで50m)。
豊臣秀吉の朝鮮侵攻で関係が耐えていたが、
己酉条約で釜山に和館〔韓国側は倭館〕を作ることで交易再開。
(十干十二支について説明(だから甲子園))。
 
朝鮮からは将軍の交代のときに通信使(信=よしみ〔≒好〕)が来た。
オランダ、中国と異なり国交関係。
 
 薩摩:琉球を服属させて交易。
ただし、中国との関係などから、琉球王国(尚氏)を残し両属させる。
当時、日本以外の東アジアの国々は中国皇帝のお墨付きがないと支配できなかった。
琉球は中国との間接貿易もできるし、
地理的関係から中継貿易の国(その点では米軍基地がある現在と国際条件は同じ)。
琉球からは謝恩使、慶賀使が来るので国交関係(琉球成立の歴史も触れる)。
 
松前藩:アイヌとの交易。海獣など。シベリア方面を通じて明清とも交易できる。

Posted by hajimet at 09:50 | Comments (0)


日本史授業20140411(幕藩体制と江戸初期の外交)

開国前史
 
1. 幕藩体制
 まず、明治以降と江戸時代を比べる(本来はペリー来航から。その前提をするために)。
明治以降は中央集権
  西暦と元号の変換の仕方
    67+明治=西暦(ムリナ明治)
    11+大正=西暦(イイ大正)
    25+昭和=西暦(ニゴッタ昭和)
    88+平成=西暦。
 
江戸時代は幕藩体制(今は中央集権だから、大阪都構想のような分権化が主張される)。
幕府と大名は地方分権の関係で、政治、財政は藩ごと。
 
だから地域ごとの文化が大きく異なるし(薩摩の例を話す)、
名物も豊富(韓国に行って日本の感覚で名物を探そうとするとがっかりする〔それなりにはあるのですよ、でもねっという話〕)。
 
2. 外交。
ポルトガル船の来航、ザビエルの来日
 ルネサンス、大航海時代、宗教改革(反宗教改革)が原因で日本にもポルトガル船やザビエルが来る(上智大学、切支丹大名、島原、天草のキリシタン墓)。
 
江戸幕府初期はスペイン、ポルトガル、オランダ(八重洲)、イギリス(按針塚)などと
積極的に交易をし、東南アジアに日本町を作る。
 
しかし、西、葡が宣教師を前面に立てて植民地化をするという流れを認識したため(南アメリカ)、カトリックを制限しようとする。それとともに貿易港を平戸と長崎に絞る(平戸。松浦藩の豊かだったことを話す)。

Posted by hajimet at 09:41 | Comments (0)