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2015年2月23日 |
日本史授業 20150223 協調外交の終焉 |
浜口内閣の外傷は幣原喜重郎であった。再び協調外交が始まった。 |
Posted by hajimet at 16:02
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日本史授業 20150219 金解禁 |
金解禁 |
Posted by hajimet at 15:56
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日本史授業 20150219 外交政策の転換 |
田中義一は日露戦争で満州軍に参加したり、シベリア出兵に対して積極派であり、 |
Posted by hajimet at 15:51
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2015年2月22日 |
日本史授業 20150216 金融恐慌 社会主義運動の高揚 |
金融恐慌 |
Posted by hajimet at 22:11
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日本史授業 20150212 護憲三派内閣 恐慌の時代 |
護憲三派内閣 |
Posted by hajimet at 22:07
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2015年2月19日 |
日本史授業 20150212 社会運動の勃興と普選運動 |
第1次世界大戦は各国で普選の流れを加速させた。 |
Posted by hajimet at 21:33
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日本史授業 20150209 ワシントン会議(2) |
3.ワシントン会議(1921年11月から) |
Posted by hajimet at 21:28
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2015年2月8日 |
日本史授業 201502025 ワシントン体制(1) |
1.パリ講和会議(19年1月〜)、ヴェルサイユ講和条約(19年6月) |
Posted by hajimet at 10:12
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日本史授業 20150205 政党内閣の成立(2) |
3.原内閣 |
Posted by hajimet at 10:08
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2015年2月7日 |
日本史授業 20150202 政党内閣の成立(1) |
@寺内内閣 |
Posted by hajimet at 12:34
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日本史授業 20150129 大戦景気 |
第一次世界大戦はヨーロッパが戦場となった戦争である。 |
Posted by hajimet at 12:31
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日本史授業 20150129 第一次世界大戦(4) |
6.第一次世界大戦の終結 |
Posted by hajimet at 12:25
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日本史授業 20150122 第一次世界大戦(3) |
4.国交関係の調整 |
Posted by hajimet at 12:21
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2015年1月22日 |
日本史授業 20150119 第一次世界大戦(2) |
(2)日本の参戦 |
Posted by hajimet at 12:54
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2015年1月21日 |
日本史授業 20150116 大正政変(2) 第一次世界大戦(1) |
大正政変(2) |
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日本史授業 2015016 大正政変(1) |
大正政変 |
Posted by hajimet at 20:27
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2014年12月21日 |
日本史授業 20141218 農業、社会問題、社会主義思想 |
1.農業 |
Posted by hajimet at 11:37
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日本史授業20141215 重工業の形成 |
1890年代から1900年代にかけて、日本では重工業が発展した。 |
Posted by hajimet at 11:32
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日本史授業20141213 近代産業の発展 |
1.産業革命・軽工業 |
Posted by hajimet at 11:20
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2014年11月25日 |
日本史授業 20141121(2) 南満州経営 |
1.南満州経営 |
Posted by hajimet at 22:38
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日本史授業 20141121(1) 韓国併合(2)と南満州経営 |
c.韓国側の対応と韓国併合 |
Posted by hajimet at 21:37
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2014年11月20日 |
日本史授業 20141117 日露戦争後の影響、韓国併合と南満州問題(1) |
(1)日露戦争後の影響
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Posted by hajimet at 21:50
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2014年11月18日 |
日本史授業 20141112 中国分割と日英同盟(2) |
(3)日英同盟 |
Posted by hajimet at 15:13
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日本史授業 20141112 中国分割と日英同盟(1) |
(1)租借 |
Posted by hajimet at 14:04
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2014年11月17日 |
日本史授業 20141110 立憲政友会の成立 |
三国干渉 |
Posted by hajimet at 19:55
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2014年11月6日 |
日本史 20141104(2) 日清戦争 |
日清戦争 |
Posted by hajimet at 09:48
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日本史 20141104 朝鮮問題(2)、 |
漢城条約 |
Posted by hajimet at 09:09
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2014年11月3日 |
日本史 20141031 朝鮮問題(1) |
朝鮮問題 |
Posted by hajimet at 11:03
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2014年10月18日 |
日本史 20141016(2) 条約改正 |
条約改正 |
Posted by hajimet at 09:24
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日本史 20141016(1) 初期議会 |
初期議会 |
Posted by hajimet at 09:04
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2014年10月13日 |
日本史授業 20141010(2) 法定の編纂 |
法典の編纂 |
Posted by hajimet at 20:37
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日本史授業 20141010 憲法制定 |
憲法制定 |
Posted by hajimet at 19:53
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2014年9月30日 |
日本史授業 20140929 松方財政 |
自由民権運動が活発な一方、政府は財政再建を行わなければならなかった。 |
Posted by hajimet at 15:17
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日本史 20140929 自由民権運動(2) |
1880年4月、国会開設の要望が高まったため、政府はそれを制限しようと |
Posted by hajimet at 14:47
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2014年9月13日 |
日本史 20140912 自由民権運動(1) |
不平士族が反乱を起こしている頃、 |
Posted by hajimet at 11:08
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2014年9月9日 |
日本史 120140908 西南戦争 |
西南戦争 |
Posted by hajimet at 20:57
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2014年9月6日 |
日本史 初期外交(2) 琉球、朝鮮、北方、小笠原 20140905 |
3.琉球 |
Posted by hajimet at 20:06
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2014年9月3日 |
初期外交(1) 20140901 |
1. 岩倉使節団(1871〜1873) |
Posted by hajimet at 21:54
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2014年7月18日 |
日本史 20140714 殖産興業 |
殖産興業 政府は、産業育成策にも手を着けた。 時代は帝国主義の時代である。資本主義経済は、利潤を得る経済活動を行う中で、経済を発展させていく経済体制であるが、「カネ」だけで競争するために、競争に負けると這い上がれない弱肉強食の世界でもある。1870年代以降、列強諸国は自国製品の市場を海外に求めてアジア、アフリカを分割していた。 日本も国外から安価な製品が多く流入した。しかも一律低関税であるから、国内産業を保護することが出来なかった。通常は弱い産業については高関税にして産業を保護するのだが(現在のコメがその代表的なもの)、改税約書以来の税率のため、それが不可能であった。このままでは国内産業は列強に押しつぶされると言うことである。 一方で高額所得者は元藩主、公家、江戸時代以来の商人で、新たな産業を興すほどの才覚はなかった。 そのために政府が殖産興業を行った。これによって近代産業を導入するのだが、近代=西欧であるから、西欧の産業を入れなければならない。そのためにお雇い外国人の指導を受けることとした。 @政府による育成 政府は1870年に工部省を設置した(これは後に内務省に吸収される)。1872年イギリスの公債により新橋-横浜、京都-大阪に鉄道が敷かれた。新橋は汐留、開市上で居留地であった築地の手前である。横浜は桜木町で、その先は港と外人居留地である。すなわち、居留地、開港場と開市場を結びつけることが目的であった。東京-大坂は今の中山道ルートを考えていて、東海道線は構想になかった。また、レール幅はイギリスの植民地に敷くレール幅である。 続けて佐渡金山、石見銀山、高島炭鉱、三池炭鉱などの経営、兵庫や長崎の造船所、東京、大阪の砲兵工場の経営を行った(官営工場)。また輸出基盤を確立するために1872年にフランスの指導で富岡製糸場が設けられた。 A通信 郵便は前島密によって郵便制度が発足し、近代郵便制度が始まった。1877年には万国郵便連合に加入した。 電信(当時は電波は発見されておらず、音声も送れないため、電線を使ってモールス信号でやりとりした。・・・---・・・(SOS)のように)。電信線は1869年に東京横浜間が初めてであるが、1874年には東京-長崎、青森(北海道)と伸びた。とくに、長崎では上海との電信線と接続され、欧米と電信のやりとりをすることが可能になった。 船運会社の経営も行われた。それまで欧米の船によって貿易が行われていたが、これでは欧米に圧倒されるので、対抗のために日本側で会社を作った。72年に官営会社として日本国郵便蒸気船会社が設立され、のちに、三菱の岩崎弥太郎の経営する郵便汽船三菱会社に発展した。 B北海道開拓 日本は日露修好通商条約で南千島(北方領土)までの領有が決まった一方、樺太は日露共有であった。だが、北海道が十分開拓できていない中で、北方の領土に対する権利を十分なものにする必要があった。 そのために、1869年に開拓使を置き、士族授産で開拓を行わせた。同時に農業を行う為に札幌農学校を置き、お雇い外国人としてクラークが招かれた。さらに73年に屯田兵が設置され、開拓とロシアに備えることとした。 C通貨制度 通貨制度の近代化も急務であった。江戸時代までの貨幣制度は複雑なものだったからである。そこで、1870年、通貨の単位を十進法(円、銭、厘)とすることとし、1871年に新貨条例を定めた。建前上金本位制による。 貨幣に対する考え方は、現在の考え方と異なる。 現在の通貨制度は「管理通貨制度」といって、通貨の信頼を政府と中央銀行に置いている。中央銀行は銀行券を発行する。一方で政府は補助貨幣を発行する。1円銀行券しかないと不便だからである。補助貨幣は20枚までしか強制通用しない。 一方、明治期は本位貨幣制度をとっていた。金を本位貨幣とするものを金本位制という。この制度の下では金の保有量と通貨の流通量が等しくなる。金貨が本位貨幣である。一方紙幣は本位貨幣と交換できる兌換紙幣が基本である。不換紙幣は例外を除いて発行されない。 新貨条例は金本位制を採用したが、東アジア貿易は銀本位制で行われているため、政府は開港地に貿易銀を発行し、事実上、金銀本位制となった。しかも金が流出したために、実際は銀本位制となっていた。 また、1872年には政府紙幣が発行された。これは不換紙幣であって、太政官札を回収するためのものであった。 さらに1872年には渋沢栄一を中心に国立銀行条例を定め、翌73年に第一銀行が設立され、銀行券の発行が開始された。 このような中で、三井や岩崎などは政府から特権を与えられて、政商と呼ばれた。これが後に財閥へと発展していく。 |
Posted by hajimet at 21:40
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2014年7月12日 |
日本史 20140711 地租改正 |
地租改正 |
Posted by hajimet at 10:49
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2014年6月28日 |
日本史 20140627 四民平等、秩禄処分 |
四民平等 |
Posted by hajimet at 09:20
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2014年6月23日 |
日本史授業 20140623 廃藩置県、太政官制の改正、内政改革 |
廃藩置県 @版籍奉還 すでに五箇条の誓文でも方向がでていたが、 藩は明治政府の機関に組み込む必要があった。 1869年1月、大久保利通、木戸孝允等の建議によって、薩摩、長州、土佐、肥前の藩主が版籍奉還を申し出る。 版=土地(ex.版図)、籍=人民(ex.人民) 原文を読むと、版籍を奉還すること共に、天皇に各藩に対して奉還を命ずるように 建議している。 これに合わせて、他の版でも版籍奉還を行い始めた。1869年6月には約200の藩が版籍を奉還した。そこで政府は 1869年6月、版籍奉還の詔勅を出した。 これにより、藩主は知藩事になった。 形式的に政府に任命された行政官の扱いであった。 ただし、これは行政のみで、徴税権と軍事権は藩に属した。 だが、これは新政府にも藩にも問題が残った。 新政府にとっては、年貢が入ってこないため、財政難に陥った。その影響で一揆が多発した。藩にとっては、徴税法法が旧来のままだったので、藩民に不満がたまった。 A廃藩置県 新政府は権力を強化し、税収を安定化させるために、藩の廃止を決意した。その前提として、1871年薩摩、長州、土佐の藩兵1万人を御親兵として、政府に属させた。その上で、1871年7月廃藩置県が行われた。 これにより知藩事は9月までに東京に移り、変わって県知事が中央より派遣されることになった。知藩事は大名だから地元と関係が強い。それが地元に居続けるのでは、不都合が生ずるということもあった。これで、政治的統一が完成した。 これにより、1使(開拓使)3府302県が出来た。旧藩をそのまま県としたからだが、細かすぎることと飛び地が多いため、県境が入り組んでしまった。そこで同年、1使3府72県に整理した。その後も整理し続けたが、今度は逆に1県辺りの大きさが大きくなりすぎたため、今度は分割を行い、1888年には、1道3府43県に整理された(現在の形)。 県名は旧官軍側は県庁所在地と同名、非官軍は別の名前にした。ただし、官軍側でも石川県は立場が曖昧であったため「金沢県」とはならず、福島県は奥羽列藩同盟で最も反発が強かったために、会津若松を県庁所在地とはせず、小さな町だった福島を県庁所在地として、県名も福島県とした。このときのことで、会津の中央に対する感覚 は厳しいものがいまでも続いている。 新体制 廃藩置県によって、日本全体が新政府の勢力化に入った。これに伴って、1869年6月、政体書に基づく太政官制を改正することとなった。政体書が藩の存在を前提としていることと、そしてなによりもアメリカの制度を見本にして適用しようとしたことがあった。 この太政官制は、 祭政一致=天皇親政のために、大宝令を元にして作られた。すなわち、 ・神祇官を太政官の上に置いたこと。神国日本を作るため。 ただし、国民を神国化することでは近代国家建設に合わないことが分かり、 1871年に神祇省に格下げ、さらに格下げが続く。一方で、祝祭日を決め、 それにより、神国のイメージを作ろうとした。 ・太政官の下に各省を置いたこと。 (二官六省制) 太政官は 正院:天皇親政=薩長中心 太政大臣 左、右大臣 参議 左院:立法=官選(門閥や家柄で選ばれる)土肥中心 議論は殆ど行われない。 右院:行政事務 この結果、下級武士が中心となる(改革をする観点からは、若手が活動できることになり、理想を求めやすいことになる)。特に薩長土肥中心となる一方で、誓文で書かれていた(公武合体以来の)公議世論は軽視される閣下になった。 この改編ののち、1871年岩倉遣欧使節団がヨーロッパに行く。留守政府を西郷隆盛等が守って内政改革を行った。 ところで、この岩倉使節団の成果が、その後の日本の流れを決定することになった。その一つが法制度を欧米式に変更したことである。これにより、欧米式の法律、制度を取り入れることが出来るようになり、欧米式の法律解釈が出来るようになった。これが欧米と対等と認められるようになった理由の一つである。中国、朝鮮は律令系の法体系から脱皮することが出来なかった。 ただ、律令系の法体系をとったことも日本としては大きな革命であった。律令系の法律は、藤原氏の時代以降崩れさり、鎌倉以来武家法になっていたからである。それを断絶して新しいものを作ろうとしたと言える(断絶させた経験を持っているから、新たに西欧系のものも受け入れやすかったと言えるかも知れない)。 @学制 1871年、文部省設置。 1872年、学制公布(フランスの制度:定着しにくい) 「自今一般ノ人民必ス邑ニ不学ノ戸ナク、家ニ不学ノ家ナカラシメン事ヲ期ス」 小学校制度。男女平等 A軍事 御親兵→近衛兵 藩兵―→解散:一部は鎮台へ (鎮台=連隊の元。反乱を「鎮める」台=国内の反乱を抑えることが中心) 1869年、兵部省→1872年、陸軍省・海軍省 1872年11月27日、徴兵告諭:男子20歳以上徴兵。 1873年1月10日、徴兵令(ドイツの制度) 11月27日から1月10日まで15日間。明治政府は財政難のため、12月3日から太陽暦を採用することにして、1月1日として。これによって、12月の給料を日割り計算で払えば良くなっただけでなく、1873年の閏6月の給料まで払う必要がなくなった。 徴兵令 陸軍:徴兵、海軍:志願(海軍はイギリスの制度:セーラー服) 免除者が多かった。(長男、戸主、相続人ほか) 「徴兵免除の心得」がベストセラー 大部分は農家の二男、三男が徴兵(労働力が減る) 「血税」の誤解 仕事のなくなった武士の不満 ↳血税一揆 B警察 (72年より動きがあるが) 1873年、内務省設置(地方行政、殖産興業、警察など) 1874年、東京警視庁設置 |
Posted by hajimet at 21:22
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2014年6月21日 |
日本史20140620 新政府の方向性 |
D新政府の課題 |
Posted by hajimet at 10:38
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2014年6月18日 |
日本史授業 20140616(2) 五カ条の誓文と政体書 |
五箇条の誓文と政体書 |
Posted by hajimet at 19:58
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日本史 20140616の(1)戊辰戦争(2) |
A江戸城開場 江戸に新政府軍が近づく中、 フランスは幕府に武器を与え、徹底抗戦することを勧めた。 だが、徳川慶喜は新政府に恭順の意を示し上野寛永寺に移った。 上野寛永寺は、現在の藝大、国立博物館裏だけではなく(籠もった部屋も残る)、 上野の山全体が寛永寺であった。 ここに移った慶喜側の眼目は、慶喜の助命嘆願であった。 慶喜側は新政府側と何回か交渉をしたが、埒があかなかった。 というのも、西郷隆盛等は慶喜の命を奪うことを主張していたからである。 慶喜が寛永寺に移った後、江戸城開場が焦点となる。 慶喜は勝海舟に交渉をさせた。 勝は交渉が成功しない場合は江戸を焼く計画であった。 勝は西郷隆盛と交渉した。場所は薩摩藩邸説と、先鋒隊がいた池上本門寺説がある。 結局、3つの条件で江戸城は開城された(68年5月)。その3つとは 1.無血開城 2.武器、艦船引渡 3.慶喜に対する寛大な処分(隠居―水戸謹慎〔最後は静岡で写真屋の主だった〕)。 実は、西郷等も慶喜に対する処分は妥協した方がよいと考えていた。というのも、 本格的に旧幕軍と争うことになれば、内戦となり、英仏につけ込まれる可能性が 出てきたからである。 一方、これに不満をもった旧幕臣の一部は彰義隊を結成して、寛永寺に籠もった。 これに対して、新政府軍は5月15日、彰義隊を攻撃して勝利した。 7時に黒門(国立博物館脇に現存、弾痕がすごい)を攻撃し、 完全に制圧したのは17時であった。 よほど怨みが強かったのだろう。新政府はこの戦いで死亡した彰義隊の遺体を 片付けることを認めなかった(後に認め、西郷像裏に慰霊碑がある)。 B奥羽列藩同盟 続いて、仙台藩、米澤藩を中心に奥羽列藩同盟が組織された。 だが、これも9月に平定された。特に、抵抗の激しかった所が会津であった。 8月に婦女子が鶴ヶ城に立てこもり、抵抗を始めた。最終的には9月22日、藩主 松平容保の降伏で終わった。だが、この時の戦いを見た、白虎隊の志士は、 会津城が焼け落ちて、主君が死亡したと勘違いして自刃してしまった。 ところで、白虎は四神の一つで、朱雀、青竜、白虎、玄武の一つである。 方向を表す神であり、中央は黄龍となる。 方向ごとに色があるのは五行説から来ている。 江戸でもこの色で場所を表している例がある。 目黒、目白、目黄、目赤、目青不動がそれ。 C箱館五稜郭の戦い ところで、榎本武揚等2000人の旧幕臣は、 江戸開城と共に、品川から船に乗り、函館五稜郭に移った。 五稜郭は「☆」型をした城で、攻めるのは難しいが、防禦には優れた形をしている。 ここに立てこもり、慶喜や旧幕臣を呼び、独立国を作る計画であった。 (実際に独立宣言をして、アメリカが承認する直前まで行っていた) これに対して、新政府軍が攻撃をして、69年5月に完了した。 こうして、戊辰戦争は終わったが、多くの使者が出た戦争であった。 このときの死者数は日清戦争の死者数に匹敵する数であった。 |
Posted by hajimet at 19:29
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2014年6月14日 |
日本史授業 20140613 小御所会議〜戊辰戦争(1) |
小御所会議と公武合体派の動き |
Posted by hajimet at 09:57
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2014年6月10日 |
日本史 20140609 「お蔭参り」と倒幕 |
Bお蔭参り |
Posted by hajimet at 20:34
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2014年6月7日 |
日本史 20140606(2) 幕末の文化(1) |
幕末の文化 幕末は開国の影響を受けて社会不安に陥っていた。そのため特異な状況が現れた。 @世直し一揆 開国後の経済変動と物価騰貴は農村を窮乏に陥れた。 一方で幕藩体制の動揺によって、一揆は政治的色彩を帯びるようになった。 すなわち、単なる年貢の減免ではなく、年貢自体の廃止を訴えたり、 村の役人の更迭を求めるようなものとなった。 これらは体制が安定したら、攻撃の対象とは出来ないことである。 このような『世直し一揆』が頻発した。ピークは1866年であった。 この年の物価上昇率が大きかったからで、 農村のみならず、江戸でも打ち壊しが起きた。 A民衆宗教(新興宗教ブーム) 一般に社会不安に陥ったとき、新興宗教ブームが起きる。 社会が安定しているときは、 自分の不安などを既存の宗教が吸収することができるが、 社会の変動が大きいと、既存の宗教では不安を吸収することが出来なくなる。 そこで、混乱後の希望、理想社会の修験を願って新興宗教が登場する。 鎌倉時代の新仏教もそうだが、幕末以来でも4回新興宗教ブームが起きている。 1回目は幕末、2回目は大正末から昭和初、3回目は終戦直後。「踊る宗教」など。 4回目は1980年代から現在まで。オウム真理教もこの一つ。 悲惨な事件をおこしているが、 そういう教団が一定の受け皿の役割をしてしまったということでもある。 幕末は、混乱状況を世界の終焉ととらえ、理想世界の出現を願う風潮が強かった。 こういうときに、教祖が神がかりによって起こした宗教が民衆宗教である。 すなわち、神の声を民に伝える役割をしているシャマン的要素を持っている。 (日本では、いたこ、ユタがこれにあたるし、神道も原形はこれ。 また、新興宗教にシャマン的要素が認められるものが多い。) 多くの教祖が、本来は勤勉実直なのだが、あるとき病気のような体験をする。 その後神秘体験をへて教祖となっている。 幕末は神道系の民衆宗教と共に、弥勒下生信仰が登場した。 (弥勒信仰は日本では殆ど登場しない) cf.弥勒下生信仰 弥勒はシャカの次にブッダになることを約束されている菩薩。 56億7千万年後に悟りを開くために、浄土で瞑想している。 その弥勒が悟りを開くと、 この世に下生して、その説法により衆生を悟らせるというもの。 その悟りを開くのがいつか…「今だ」として弥勒の下生を願う信仰。 では、このような思想の流れに基づいて誕生した宗教は何か。 @黒住教(備前 黒住宗忠)アマテラスと自分が一体となる神秘体験。 「病気直し」を行う。 信者が岡山から京都まで広がる。 アマテラスが皇祖神であることから、 宗忠を祀った京都宗忠神社は尊王攘夷運藤の拠点となる。 A天理教(大和 中山みき)世界を助ける「てんりんわう」が降りて吉良枯れる。 安産と病気直し/陽気ぐらし B金光教(備中 赤沢文治) C丸山教(武蔵橘樹郡 伊藤六兵衛) |
Posted by hajimet at 10:36
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日本史 20140605(1) 倒幕への動き |
倒幕への動き このようにイギリスと薩摩、フランスと幕府という接近構造が出来た段階で 新たな動きが長州で出てきた。 長州は第1次長州征討と四国艦隊下関砲撃事件に敗北したことで、 攘夷が不可能だと言うことを悟っていた。一方、幕府は長州に対して、 貿易を禁じる処置を執った。 長州藩は保守派が権力を握り、幕府に恭順の意を示していた。 これに反発して高杉晋作は北九州に亡命して、桂小五郎と奇兵隊を組織した。 高杉晋作は松下村塾四天王と呼ばれた人物である。 松下村塾は長州の私塾で、吉田松陰が教鞭をとったこともある。 攘夷派や明治初期に活躍することを多く排出したことで知られる。 高杉は幕府の派遣で上海に行ったことがある。この頃の上海は太平天国の乱の 混乱と、英仏人が「我が物顔」に闊歩している時代だった。それを見た高杉は、 将来の日本も同じことになると「危機感」を感じていた。奇兵隊を作ったのも、 このような危機感が背景にある。 奇兵隊は64年12月馬関で挙兵し、長州の実権を握った。 この時、伊藤博文も一緒に活動している。 長州は急進派の支配するところとなった。 開国は避けられず、皇国を作ろうというもので、 そのために、藩政改革、身分制度廃止、西洋式軍隊の導入などが図られ、 イギリスに接近した。 だが、この時点ではまだ貿易が認められていない。 しかし、武器を入手する必要がある。 ところで、このとき薩摩はイギリスと接近して近代化の道を歩んでいた。 ただ、幕府を支える立場で、長州とは敵対していた。 しかし、イギリスと結んでいること、開国の必要性を感じていることなど、 幕府よりは、むしろ長州との理解関係の方が共通点が多かった。 そこで、土佐の仲介で両者が同盟を結ぶこととなった。薩長同盟である。 66年1月、薩摩から西郷、大久保。長州から木戸孝允、高杉が出席し、 それを土佐の坂本竜馬、中岡慎太郎が仲介した。 その結果、幕府が長州を攻撃しても、薩摩は長州を支援すること、 武器は薩摩の名義で購入し、長州に回すことを決めた。 もちろん、公式には薩摩は幕府側であるから、密約である。 武器は「死の商人」グラバーの活躍が大きかった。 cf.1 グラバー園、蝶々夫人 cf.2 薩摩の兵制改革:吹奏楽、最初の君が代。 ところで、幕府は第一次長州征討の結果として、長州の領地割譲を要求した。 しかし、長州はその要求に従わなかった。 そこで、66年6月、第二次長州征討を指示した。 しかし、薩摩はじめ諸藩の不服従で幕府は劣勢に陥った。 結局66年7月、大坂に滞在していた家茂の死去を奇貨として、服喪、休戦となった。 幕府の敗因は旧式兵備と寄せ集めと言うことにあった。 長州は新式欧米的兵備と早い時期からの訓練、郷土愛による士気の高さがあった。 |
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2014年6月3日 |
日本史 20140602 |
・第一次長州征討 幕府は威厳を回復するために、朝敵となった長州の征討を行った。 一方英米仏蘭は5月10日の攘夷の反撃の機会を狙って、 この機会に下関を砲撃して、下関砲台を占領した。 長州に攘夷は無意味であると言うことを思い知らせようとしたのである。 ただ、幕府軍側と戦闘にならないように、四カ国側は幕府に事前に連絡している。 結局長州は一時的に保守派が勢力を握り、蛤御門の変の責任者を処罰して、 全面降伏した。 しかし、賠償金を支払うことはしなかった。 攘夷は幕府の命令によるという理屈である。幕府は300万ドル負担することになった。 同じ頃薩摩でも動きがあった。1863年、薩摩の島津久光が江戸を退去するとき、 生麦事件が起きた。イギリスは幕府と薩摩に対して首謀者の処罰と賠償を求めた。 これに幕府は応じたものの、薩摩は応じなかった。そこでイギリス艦隊7隻が 鹿児島湾を攻撃した。薩英戦争である。これに薩摩軍は激しく応じ、 イギリスは、目指した鹿児島上陸を果たせなかった。結局勝敗不明のまま、 講和条約を結んだが、これにより薩摩は攘夷が不可能なことを悟ることとなった。 cf.錦江湾沿いの薩摩軍の墓地 ・条約勅許、改税約書 その後、四カ国の公使はは兵庫沖に軍艦を派遣し、 幕府に対して、賠償金減免と共に、条約勅許と兵庫開港(1868年予定)を求めた。 ちょうど将軍も長州征討のために大坂にいたため、 朝廷と幕府双方に圧力を加えることが出来た。 四カ国は、井伊直弼が独断で条約を承認したときと情勢が変わって、 仮の統治者である「タイクン」でなく、 実質的統治者の「ミカド」の勅許がなければ、条約を安定して運用できないと 考えたのだ。 これについて、1866年(慶応元年)10月に御前会議が開かれた。 御前会議は、近代史では初めて登場するが、 それだけ朝廷の力が強くなったことを示している。 これによって、兵庫以外の開国、開市を許可した。 違約条約はここで正式な条約になったとも言える。 兵庫は大坂、京都に近く、 極度の外国人嫌いだった孝明天皇は開港させたくなかったのだ。 兵庫開港の勅許は1867年6月のことであったが、 このときは既に明治天皇と慶喜の時代になっていた。 続いて1866年改税約書の締結を迫られる。 日米修好通商条約は締結5年以降関税率の改定を認めているが、 条約の勅許とともに、ようやく改定が可能になったとも言える。 この改定は、イギリス公使、パークスが中心になって行われたが、 パークスは日本を下に見る傾向の強い人だった。 そこに兵庫不開港を認める代わりに、清国と同じ方式での改定を要求したのだ。 その内容は、輸入関税を一律5割(それまでは0〜35%)として、 従価税でなく従量税を採用した(現在、自動車重量税や酒税が従量税)。 これによって自由貿易が促進されたが、 資本主義は基本的に弱肉強食の世界である。 日本に安価な製品が大量に流入することに反して、産業界は大打撃を被った。 現在でも、TPP交渉が行われているが、同じような問題が起こりうる。 現在特に問題になっていものはブタであるが、ブタ産業が成り立たなくなる可能性がある。 かつては、牛、レモン、紅茶、バナナなどが問題となったが、 牛はブランド牛化することで対応した。 さらに従量税のため、高価な商品ほど利潤が大きかった。 これらを通じて外向の主導権は朝廷に移っていた(事実上の明治維新の始まり)。 ・英仏と薩摩、幕府 このような流れの中で、イギリスは幕府を見限り、 安定した市場を求め、条約を履行できる強固な新政権の成立を期待し始めた。 薩摩も文久改革後の薩摩と幕府の確執と (国学VS水戸学:大老の会議は64年に開かれなくなる)、 薩英戦争の結果、開国論に移り、イギリスと接触し始めた。 同時に西郷隆盛、大久保利通若手改革派の下級武士が藩の実権を握った。 薩摩はイギリスに留学生を送るなどするほか、近代工場を造るようになった。 パークスも薩摩を訪れている。 これに対抗した国がフランスである。 ナポレオン三世の時代で、イギリスに対抗して拡張政策をとっていた。 フランスは横須賀製鉄所の建設についての契約書を幕府と交わした。 仏蘭西公使ロッシュの働きかけで、 病気によって壊滅的打撃を受けているフランス養蚕界のために、 蚕卵紙や生糸をフランスに売り、その売り上げを製鉄所建築に回すこととした。 幕府からすれば、貿易を独占することが出来るので、利害関係が一致したのである。 こうして、 イギリス、フランスの対立を背景に、事態は急速に倒幕に向かうのである。 |
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2014年5月30日 |
日本史授業 20140530 尊王攘夷運動と八月十八日の政変 |
F尊王攘夷運動 1862年7月に始まった文久の改革は、島津、慶喜の思想面の違いと、 京都の事情でうまく行かなかった。 攘夷派が集まっていた京都では、京都警備役の島津久光が京都を去り、 1862年後半、譲位派、特に長州の力が強くなった。 長州藩では松下村塾出身者が政権を握り、攘夷が藩是となった。 また、土佐でも土佐勤王党が力を持つ。 そして、長州藩主毛利敬親、土佐前藩主山内豊信が上洛した。 これによって、京都の主導権は攘夷派が握ることになった。 彼らは「天誅」を合い言葉に京都に集まってきた。 一方、幕府側は、これに対抗して 京都守護職会津松平容保傘下の近藤勇(調布近郊の生まれ)に新選組を作らせて、 京都を警護させる (好きな人は、ずっと語っていてもらいたいだろうなと思いつつ、さらっと流す)。 このような状況を背景に孝明天皇は、攘夷の命令を下しに、急進的攘夷派の公家、 三条実美を江戸に派遣する。 さて、三条実美の江戸訪問を受けて、1863年3月家茂は京都に上がる。 天皇は和宮の兄であるとともに、攘夷を約した相手だった。 家茂は3000の兵を連れて二条城に入った。 将軍に指導力があることを示し、朝廷を牽制するためであった。 ちなみに、将軍が京都に行くのは家光以来、229年ぶりのことであった。 しかし、家茂は天皇の意向を抑えることが出来ず、 5月10日攘夷決行を約束してしまった。 これを受けて1863年5月10日、長州は下関で英仏蘭の船を攻撃した。 G八月十八日の政変 このように攘夷派の力が強くなったことを良く思わなかった会津、薩摩などと 公武合体派の公家は、8月18日、攘夷派を抑えるためにクーデターを行った。 すでに攘夷派と結んで親政をめざした孝明天皇は 藤原家の神社、春日大社と神武天皇陵を参拝しており、 親政後には天照大神を祀った伊勢神宮に参拝する予定まで立てていた。 しかし、公武合体派に宮中を抑えられ、 長州藩士や三条実美ら七卿は変化記できずに都落ちをした(七卿落ち)。 京都は公武合体派が実権を握った。 孝明天皇も「自分の意思は8月18日以降の動きである」と宣言した。 攘夷派はハシゴを外されてしまった。 そして、長州は再起をかけて新たな動きを起こすこととなる。 そのきっかけは64年6月の池田屋事件であった。 再び京に参集し始めた長州藩士は池田屋に集まってクーデターについて 相談していた。大風に乗じて京都に火をつけ、そのすきに孝明天皇を 長州に連れ出すと言うことであった。しかし、藩士の一人が新選組につかまり、 ばれてしまった。その結果、会津、桑名などの兵が囲む中、池田屋が襲撃され、 死者6人などの惨事になって仕舞った。 これを受けて、長州は三条実美らの名誉回復を求めて1500の兵で京都に向かった。 しかし、7月、皇居近くで薩摩、会津、桑名と戦い敗退した。 これを蛤御門の変、禁門の変という。このとき砲弾一発が宮中に落ち、 それによって後の明治天皇が失神したという逸話が残っている。 長州はこの戦いで負け、朝敵とされてしまった。 というのも、 孝明天皇が(本心とは別として)公武合体派を支持していたのであって、 長州はそういう天皇の立場に反して、天皇のいる皇居を襲撃したからである。 |
Posted by hajimet at 21:50
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2014年5月27日 |
日本史 20140526 公武合体とその背景 |
C公武合体(1) |
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2014年5月12日 |
日本史授業 20140512 2時間目(政局の転換) |
政局の転換 |
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日本史授業 20140512(開港の影響:1時間目) |
開港の影響…続き |
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2014年4月30日 |
日本史授業 20140428 開国とその影響(2) 日米修好通商条約 |
前回続き (2)日米修好通商条約 ・開港場:神奈川(横浜)、長崎、兵庫(神戸)、新潟(+箱館。下田は閉じる) 居留地は警察権が及ばない。教会の設置が認められる(全国は1873)。 長崎の大村教会は居留地の中に築かれた教会であるが、潜伏していた 地元の隠れキリシタンも礼拝に来た。 それがばれて、多くの人が弾圧された。 ・開市:江戸、大坂 逗留のための居留地(警察権が及ぶ)。東京は築地。墓地は青山墓地 ・自由貿易:幕府の貿易統制が出来なくなる。 ・領事裁判権(治外法権は若干意味が異なるので、使わない方がよい) 「万国公法」上、日本は半開国に属する(文明国、半開国、未開国)。未開国は文明国が植民地にしても構わないが、半開国は伝統があり強固な王権があるため、植民地にはしない。ただ、法制度が異なるために、文明国民に対する法の適用はしないようにさせた。また、実際に鈴ヶ森、小塚原、神奈川の木戸口などで処刑された人を見たら、同じ法で裁かれたくないと考えた。 cf.「首」、「県」の字源 ・税率:輸入は0から35%(大部分は20%)。輸出は5%(5年後に見直し) 関税自主権は無し。 日米和親条約との関係は、和親条約+修好通商条約という関係。下田港のように、和親条約の内容を変更する場合は、修好通商条約で修正する。したがって、片面的最恵国待遇は引き継がれることとなる。 日米修好通商条約は3点に於いて不平等条約であるが(領事裁判権、関税自主権なし、片面的最恵国待遇)、この3点を解消することが今後の課題となる。半開国から文明国に格上げされることが重要だった。そのため「涙ぐましい努力」を行った。それでも、領事裁判権などが解消するのは明治の後半であるし、完全に平等になるには大正に入るまで待たなければならなかった。 1858年には同様の条約をオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも結んだ(安政の五カ国条約)。そして、その批准のために、1860(万延元)年、外国奉行新見正興が渡米(条約は締結手続きと批准の手続きが必要)。咸臨丸で太平洋横断(勝海舟)。 cf.最初のアイスクリーム。 (3)影響 開港することによって、日本は資本主義の国際経済の波に呑まれることとなった。資本主義は市場経済、自由経済ともよばれるが、経済活動を自由に行うことが、結果的に経済を安定させ、発展させると考える(cf.アダム=スミス:「神の見えざる手」)。しかし、一面においては弱肉強食の世界でもある。負け組に入るとなかなか這い上がることが出来ない。当時の日本は圧倒的に経済的には弱者であった。そのため経済的に植民地化される可能性も十分あった。半開国が未開国扱いになるということである。 1)1859年より横浜、長崎、箱館で貿易開始。イギリスが中心。アメリカは南北戦争により力が落ちる。 輸出:生糸、茶、蚕卵紙(フランス、イタリアで蚕の病気が流行ったため)、海産物 輸入:毛織物、綿織物、鉄砲、艦船など …続く |
Posted by hajimet at 10:25
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2014年4月26日 |
日本史授業 20140425 ペリー来航(2)、開国とその影響(1) |
ペリーは琉球へと去ったが、ペリーがいるときは江戸は混乱状態であった。 |
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2014年4月22日 |
日本史授業20140421 欧米の進出(3)、ペリー来航(1) |
4)アメリカ。 |
Posted by hajimet at 20:46
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2014年4月19日 |
日本史授業20140418-2 欧米の進出。開国前夜(2) |
3) イギリス ロシアに続けて来航(1808)。 1808年 フェートン号(長崎) (年表を見る)1804年 ナポレオン法典 1805年 トラファルガー海戦 1806年 大陸封鎖 1814年 ウィーン会議 ヨーロッパではナポレオン戦争が行われていた。 長崎出島のオランダ商館を攻撃しに来た。船はオランダ国旗でカモフラージュ。 この当時オランダは日本に来フェートンは出島のオランダ商館を攻撃しようとして来た。オランダ=フランスだったから。 そのようなことが続いたため、1825年、幕府は異国船打払令を出す。 史料:「打ち払いの所」と「間違えても構わない」の部分に線を引く しかし、イギリスは軍事力によって強引に植民地化を進めていた。 1840年にアヘン戦争、1856年にアロー号事件(アロー戦争)。 アヘン戦争はイギリスがインド、中国と三角貿易を行おうとした結果である。 イギリスは中国に輸出するものがなかった。 そのため、中国から金を回収することが出来なかった。 それを回収するため、インドからアヘンを送り、 インドを通じて中国の金を回収しようとした。 cf. アヘンと覚醒剤の違いについて cf.アロー号事件のきっかけについて。 アヘン戦争の様子をみて、不慮の攻撃を避けるために、幕府も体制を改め、 1842年、天保の薪水給与令に改めた(史料)。 1844年、オランダ国王も日本に開国を勧告した。 自国だけで日本貿易を独占出来なくなったこともある。 |
Posted by hajimet at 13:22
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日本史授業20140418-1(欧米の接近1 開国前夜) |
開国、 1) 背景。ヨーロッパの変化。 ・民主主義 ・産業革命の進展。 a 蒸気機関の改良(1772)、蒸気機関車の登場(1802)、蒸気船の大西洋を横断(1838)。 cf.大西洋と太平洋の文字の違いの意味 〔マゼランの航海と西にある大洋…ハワイが有るか無いかではない)。 b 大量に安価に生産できるようになったこと。 原料供給地と市場が必要となる。 その結果植民地化が行われる+軍事力。 19世紀後半まで力による植民地化が行われる (韓国を植民地にした時は力による植民地化が無理になってきた時期)。 2) ロシア まず日本に来たのはロシア。 ロシアは15世紀中頃に発展しはじめ、18世紀中頃には沿海州、18世紀末にはアラスカまで進出する。 ロシアのキーワードは南下政策と東進政策〔と言う言葉はないが〕。 cf.いまのクリミア半島情勢。⇒ここに勢力の衝突がおきると大きな戦争になる。 かつて数回大きな戦争が起きている。 ロシアのアラスカ進出により、アラスカ−中国貿易が始まる。 陸路やウルップ島を中継地にするのは不便。 同時に千島列島の漁業の問題が出てきた。 そこで日本と交易を求める。 1792年 ラックスマンが根室に来航(エカチェリーナ二世のとき)。 船を長崎に回航した後(長崎奉行所:外国に対する唯一の奉行所)、 鎖国(多分当時は違った言葉を使った)は「祖法」として帰国させた。 つづいて1804年、レザノフが来航。幕府が冷淡だった目、樺太と千島を攻撃して帰国。 幕府も対応として蝦夷地を天領とし、間宮林蔵を探検させて、樺太が島を発見した。 ロシア側はアムール川(図表は黒竜江)の河口と思っていた。 実際に間宮海峡の塩分濃度は低く、流氷が出来るのもその影響。 日本方面への南下政策が失敗したロシアは、その後カリフォルニアに関心を示した。 したがって、ロシア船の来航はとりあえず収まった。 |
Posted by hajimet at 12:57
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2014年4月16日 |
日本史授業20140414(いわゆる鎖国体制) |
1.いわゆる「鎖国」:キリシタンを抑えることと幕府による貿易統制策として |
Posted by hajimet at 09:50
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日本史授業20140411(幕藩体制と江戸初期の外交) |
開国前史 |
Posted by hajimet at 09:41
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