大正政変(2) 大正政変によって桂内閣は倒されたが、次の内閣も薩摩藩系の山本内閣だった。 民衆のエネルギーは倒閣に向かったが、そのエネルギーを、政党内閣結成の方向に まとめることが出来なかったのである。そのために、再び藩閥系と言うことになった。 しかし、完全にそれまでの流れを無視することは出来ない。山本は立憲政友会の協力を あおいだ。これによって政友会は分裂する。すなわち、政府に協力しようとする原敬を 中心とする人びとと、尾崎のように脱党する人が出た。 また、立憲国民党の犬養は政友会と断絶することになり、これにより憲政擁護運動は 終わってしまった。 山本は、文官任用令を改正し、政党系も高級官僚になれるようにし、 軍部大臣現役武官制も緩和して、予備役、後備役も大臣になれるようにした。 (軍部大臣の緩和は大隈内閣で元に戻される) また行政整理、財政整理も行ったが、 1914年、外国製の軍艦の輸入を巡る収賄事件が起きた(ジーメンス事件)。 これについて、国民、陸軍の反発が強まり、海軍関係の予算が議会で否決され、 退陣することとなった。 この次の内閣は第2次大隈内閣である(第1次は隈板内閣)。 大隈はすでに政界を引退していたが、国民人気が高いという理由で元老より指名された。 大隈が出ることで、立憲政友会に打撃を与えようとしたのである。 実際、1915年に行われた衆議院の選挙では、少数与党だった立憲同志会が、 立憲政友会を破って第一党になった。 これにより、大正政変のそもそもの原因であった、陸軍二個師団増強が議会で承認された。 時代はすでに第一次世界大戦に入っていたのである。 第一次世界大戦 (1)前提:三国同盟と三国協商=ヨーロッパにおける対立 ヨーロッパではドイツ、オーストリア、イタリアが三国同盟を組んでいた。 ドイツ、イタリアは新興国で、ヨーロッパにおける後進国。オーストリアはドイツ統一の中心に なれずに、国力が落ちてくる時期であった。 ドイツは1890年ヴィルヘルム2世により、植民地を獲得する「世界政策」を採用した。 その勢力を進める軸としてベルリン、ビザンチウム、バグダードを結ぶ鉄道を計画する 3B政策を採った。 ドイツの国力強化とフランスの孤立化を図ろうとしたのである。 ドイツは普仏戦争の結果成立した国で、ドイツ皇帝の戴冠式はベルサイユ宮殿で行われた。 (外国大統領や首相が、わざわざ日本に来て皇居で就任式を行ったらどう感じるか?) そのような経緯から、フランスはドイツに対して強い敵愾心を持っていた。 一方、1907年、露仏協商(日露戦争の対立軸だった)にイギリスが加わることによって、 三国協商が出来ていた(英仏協商 1904、英露協商 1907)。日本も三国協商側である。 イギリスは植民地の軸として、カイロ、ケープタウン、カルカッタを結ぶ3C政策を採った。 だが、カイロ-カルカッタ間は、ドイツの3B政策のラインと完全に平行することとなり、 英独が対立し始めた。 また、日露戦争によって極東での南下政策が失敗に終わったロシアは、 再びセルビアを拠点にバルカン半島に南下するようになっていた。これはドイツの軸と交叉する。 バルカン半島に勢力の交叉が起きると、これを「死の十字架」といい、 世界中を巻き込む戦争が起こる可能性がある。近代に入ってから少なくとも5回あった。 即ち、東方問題、第一次世界大戦、第二次世界大戦(本来はここでの対立ではないが、 結果的にここでの問題が火に油を注いだ)、 ユーゴスラビア危機、ウクライナ危機(クリミア半島)である。 というのもバルカン半島は民族関係が複雑で、いろいろな国が勢力を伸ばしてくる可能性が あるからである。「ヨーロッパの火薬庫、弾薬庫」と言われるくらい微妙な地域なのだ。 1914年、ボスニアのサライェヴォでオーストリア皇太子がセルビア青年に暗殺された。 ボスニアはオーストリア側の勢力圏の国、そこに訪問した三国同盟側の皇太子が、 三国協商側のロシアが拠点としたセルビアの青年によって殺害された。 両国は外交交渉で解決しようとした。周囲の国も外交交渉でまとまると考えて、 首脳も夏のヴァカンスを取るような雰囲気であった。 ところが、7月オーストリアがセルビアに宣戦布告した。 そうなると、同盟関係などによって多くの国が戦争に巻き込まれていった。 8月1日にはドイツとロシアが戦争状態になり、 8月4日にはイギリスとドイツが戦争状態になった。 なし崩し的に第一次世界大戦が始まったのである。 この戦争は、初めて飛行機、軍艦、毒ガスなどが使われる戦争になった。 戦争は短期戦で終わるとした大方の予想に反して、膠着状態に陥り、 3年間もの長期戦となってしまった。 このように、日本とは関係のない所で起きた戦争であったが、 日本もこの戦争に参加した。なぜ、参加したのかは次回に。
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