大正政変 前提 20世紀末頃、日本は対外的にも対内的も問題を抱えていた。 対外的には、朝鮮の独立運動を押さえることと、 中華民国における日本資産と居留民保護の問題。 対内的には不況対策と、社会運動、労働運動に対する対策である。 対外問題に対応するには、軍拡(増税)を行う必要があるが、 対内問題に対しては、財政整理と緊縮が必要になる。 与党や軍部は軍拡、積極財政路線を要求するのに対して、 国民は軍拡に反対する路線を支持していた。 このような中、第2次西園寺内閣は緊縮路線をとった。一方で海軍増強をはかった。 これに対して陸軍や山県が反発した。陸軍は辛亥革命の時に、対外資産を確保の必要から、 辛亥革命への介入を要求していた。しかし、西園寺内閣は列強と足並みを揃えて不干渉政策を とった。このことを軍部は曖昧な外交とみていた。 1912年軍部は朝鮮対策のために 二個師団(独立した作戦行動のとれる最大の固定編成部隊)増強を要求した。 西園寺内閣は緊縮財政をとるために、これに反対した。 ところで、その最中、7月に明治天皇が死去して、大正時代になった。 また、美濃部達吉が『憲法講話』を出版するなど、新しい風潮が出てきて、 国民の間には新しい時代の始まりが期待されていた。 (新たに元号が変わると、新しい時代が来たように感じるものである) そのなか、12年末に陸軍大臣上原勇作が単独で大正天皇に辞表を出した(帷幄上奏)。 陸軍と山県、軍部大臣現役武官制をたてに、新たな陸軍大臣を送らなかったために、 第二次西園寺内閣は瓦解した。 現行憲法では内閣総理大臣は内閣の長とされ、国務大臣の任免権を握る。 しかし、大日本帝国憲法下では総理大臣は国務大臣のひとりであって、 内閣の代表としての立場でしかない。総理大臣に任免権はないので、 このような上原のようなことが可能になるのである。旧憲法か何回か同様の事態が起きている。 山県ら元老が指名した次の総理大事は桂太郎であった(第3次桂内閣) だが、藩閥に対する不満が国民の間にある上に、桂が大正天皇の内大臣兼侍従長に 就任していたために、藩閥が天皇の力を利用して政治を行うのではないかという反発がおきた。 これを背景に立憲国民党の犬養毅と、立憲政友会の尾崎行雄が中心となって、 12月17日、「閥族打破、憲政擁護」をスローガンとする国民大会を行った。 これが、各地に広がり、1913年に入ると、桂内閣は、国民党、政友会を切り崩すために 立憲同志会を結成した。これは第二党となったが、 かえって国民党と政友会の結束を強めてしまった。 1913年2月5日、尾崎は国会内で内閣不信任案を提出したが、 桂は国会を五日間休会とした。ほとぼりを冷ますという意味である。 不信任案が出されれば、辞職するか、衆議院を解散するしかないのだが、 時間をおこうと言うことである。 2月10日、国会は再開された。議事堂(日比谷)の周りを多くの国民、警官、憲兵が取り囲む中、 尾崎は胸に白バラの記章をつけて登院した。 だが、民衆の耳に聞こえてきたのは、再び休会と言うことであった。 これに失望、激怒した民衆は、派出所を襲撃し、 都新聞、国民新聞、報知新聞、読売新聞社などを襲撃した。 この暴動は広島、京都、大阪などにも飛び火した。 民衆の耳には休会しか聞こえてこなかったが、実は議会内では桂は辞職を決めていた。 衆議院議長から、「議会を解散すれば、国民の怒りは広がり内乱状態になる。それを どうするかは桂自身が決めれば済むことだ」と説得されていたのである。 桂は2月11日、正式に辞職を宣言した。 その次に選ばれた総理大臣は海軍大将山本権兵衛であった。
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