飛鳥仏教 仏教は538年、もしくは552年に百済より公伝した。 仏教は中国を中心とする東アジアの国々の中で、支配者に伝えられた。 したがって、北九州などは、公伝以前に仏教が入っていた可能性がある。 仏教は欽明天皇に対して伝えられたが、天皇はただちに仏教を採用することはなく、 臣下に信仰させた。それまでの神とは余りにも異質だったのである。 その図式は、崇仏派(蘇我氏)×廃仏派(物部氏)である。 結果的に蘇我氏の勢力が伸び、仏教が採用されていくこととなる。 蘇我氏は氏寺として飛鳥寺を建築する。建築工集団はペルシア人集団であった。 飛鳥仏教の中心人物は聖徳太子(厩戸王)である。日本仏教の基礎を作った。 伝承部分も多いが、聖徳太子は、 ・仏教興隆の詔 ・十七条の憲法(和をもって…、篤く三宝を…、凡夫なり)…儒教の影響も見られる。 ・三経義疏(法華経などの解説) 遺言「世間は虚仮(無常) 唯、仏のみ是れ真なり(絶対)」 法隆寺(聖徳太子を祀る)の西院、中宮寺の「天寿国曼荼羅繍帳」、東院の釈迦三尊像 奈良仏教 奈良時代に入ると、本格的に中国から仏教が流入する。 鎮護国家仏教(呪術的要素)…国を守る=民の平安を祈る。 国家仏教として律令と密接な関係を持つ。 仏教は、単に思想だけではなく、教団、儀礼、建築、工芸、医療などが付随するため、 国家が管理する必要もあった。 瓦などは寺院建築のためのものであったし(今でも古代の遺跡のある場所で、 古瓦が散乱している所は、寺院のあとか官衙の跡のことが多い) なお、茶道は栄西(平安末〜鎌倉初)が持ち込んだとされるが、茶は薬として持ち込まれた。 今でも、中国や韓国では寺に付随して茶畑が作られることが多い。 聖武天皇(仏教を保護) 752 東大寺大仏開眼(毘盧遮那仏) (それより前に)741 国分寺建立の詔(国分寺、国分尼寺) なお、このころ、アマテラスを中心とする神祇体制が出来上がった、 鑑真 僧侶になるための受戒制度を伝える。東大寺に戒壇を作る。 南都六宗 官寺で六宗を研究。 「宗」は、現在イメージする宗派(この寺院は○○宗)の意味ではなく、 研究の「学派」に意味。一つの寺にいくつもの宗が存在することもあった。 仏教は国が管理するから、個人的に僧侶になる事(私度僧)は禁止された。 しかし、山に籠もり個人的に修行する僧(山=神聖な山→仏教と習合し修行の山へ)や 私度僧も多くいた。とくに行基(cf.行基図)は民衆への布教や社会事業を行った。 行基は最初のうち僧尼令違反で布教を禁止されたが、のちに聖武天皇の帰依を受け 大仏建立に協力し、日本最初の大僧正となった。 このような行基らの民衆布教が、仏教を民衆に定着させる最大の力となった。 (中国や韓国と異なり、民間で広く信仰されるきっかけになったと考えられる)。
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