日本仏教 日本仏教の課題:中国仏教をいかに受容し、自分たちの納得いくように変容するか。 (参考)中国仏教 9世紀頃までの中国仏教を見る。中国仏教が9世紀を境に大きく変わること。 日本も894年遣唐使廃止(派遣の最後は838年)し、大陸文化の受用から国風文化に移るから。 1世紀 西域より仏教伝来。ガンダーラ(現:アフガニスタン)で盛行していた仏教が、 ソグド人とともに入ってきた。仏典はすぐに漢訳された。 入ってきた当初は儒教や道教との軋轢が大きかった。 道教は漢民族の民間信仰で、日本の神道にあたるもの。 儒教は政治理念であるが、親に孝であることが基本となる。 この儒教的感覚からすれば、衣鉢が整わない僧侶の服装は異様だし、 髪の毛を剃るのは、親からもらった体を傷つけることになる。 そもそも出家すれば、親に孝を行うことは出来ないから、儒教の教えに反する。 また、世の中を「苦」とみる仏教に対して、世の中を「楽」と見る中国では そもそもの考え方が合わない。 インドでは輪廻したくないために「解脱」が問題になるのに対して、 中国では長生きするために努力する。祖先祭祀を行うことで、 死んだ後も「死んでいない」のである。魂はつねに子孫と一緒にいるからである。 だが、仏教も受容されるようになる。それは老荘思想を通じてであった。 この中で中国的な習合も起きた。 たとえば、仏像に食物を備えること。これは道教で功徳を積む所から来ているし、 儒教の影響で祖先祭祀が仏教に取り入れられた(お盆の原形)。 インド仏教は個人の問題だから、祖先祭祀は関心外のはずだった。 仏教は、南北朝時代に大きく発達した。特に北朝で栄えた。 というのも、道教が漢民族の思想であって、北方異民族には受用しにくかったこと。 「護国仏教」として受容したこと、すなわち「呪術的性格」により国によって受容されたのだ。 なお、「護国」とは国自体を守ると言うことではなく、それによって国民の幸せを願うという ことである。 インドにおける仏教は時代を経るに従って、ヒンドゥー教の影響を受けて現世利益的、 呪術的要素を取り込んでいった。その力が道教より強いと判断されたのである。 さらに、隋が中国を統一する。皇帝が鮮卑出身と言うこともあるが、 多くの異民族を統治するために、仏教を指導理念とした。 さらに唐は政治権力によって仏教が統制されるようになった。 仏教は宗教のみならず、建築、医術など様々な技術が付随するからである。 すなわち、「国家仏教」として、律令とともに他国に渡される存在となった。 日本が受容した仏教はこの時期のものである。 国が自国を守るために、仏教を採用しているのだから、仏教以外のものがよければ、 そちらを採用する。唐の武帝の時(840-46)、「会昌の廃仏」によって、それが現実と なった。徹底的に仏教関係のものは破壊され、中国仏教再建のために、 日本や朝鮮に経典をもとめたほどであった。 これにより、中国仏教は廃れ、全く別の系統のものとして禅宗があらわれるようになった。 日本仏教の特徴 (1)現実的傾向 仏教を初めて受容したとき「蕃神」として、神道の神の一種として受容した。 そして、氏族繁栄祈願(飛鳥寺、法隆寺)や病気平癒(東大寺大仏)など、 きわめて現世利益的なものを求めている。 現在でもお寺に行って拝礼することは、仏教理論について学ぶためではなく、 大学合格祈願のような現世利益的なことを祈願しているし、正月のCMに出る、 「○○厄除け大師」の厄除けも「病気などにならないように」という意味である。 (2)神仏習合 神道と激しく集合した。これは日本に限らずどの国でも基本の宗教と習合する。 明治になって神仏分離令が出て、一応整理されたが、最近また習合現象が現れ始めている。 (3)生活に密着 これは、外の仏教にない特徴である。インドでは専門集団化してしまい、衰退したし、 中国でも民間信仰にはならなかった。 日本は古代こそ皇族、貴族の信仰であったが、中世以降、特に鎌倉時代に大きく仏教変革が あったため、武士や庶民が信仰するものとなった。 そのなかで、道徳観、芸術、芸能、文学、武道などに大きく影響を与えた。 たとえば、座禅は武士の作法に繋がり、礼儀作法を作り出した。 また、書院造りの床の間に花を飾るところから、華道が出来た。 さらに、茶道は宋に渡った栄西が抹茶法を導入したことがきっかけであった。 また、無常観、もののあはれの考えから、わび、さびが出きてきて様々な面に影響を与える。 ここから徒然草、方丈記、山家集などが書かれる。 仏教のことを意識するかどうかに拘わらず、 様々な面で生活の中に仏教が入り込んでいることが、 日本仏教の大きな特徴なのである。
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