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2014年11月18日
日本史授業 20141112 中国分割と日英同盟(2)

(3)日英同盟
北清事変のとき、ロシア軍は満州を事実上占領した。
名目はシベリア鉄道を満州でショートカットする東清鉄道を保護するということである。
しかし、鉄道だけでなくその附属地なども含んでいる。

また、ロシアは朝鮮に圧力を加えてきた。
このような状況の中、日本はそれまでの対露政策を変更することになった。
それまでは協調外交をとっていた。冬にロシア艦船を長崎に係留していたりもした。

伊藤、井上は満韓交換論で日露の勢力範囲を分けることを考え、ペテルブルクへ行った。
しかし、何れは両者が再び衝突するであろうという懸念があった。
両国とも新興工業国であって、利害を求める場所が共通だったからである。
そのため、山県や小村寿太郎は日英同盟論を採った。
この方が日露で協商した後、イギリスと関係を再調整するよりも有利だったからである。
しかも、日本は工業立国のためにイギリス資本に多く依存していた。

イギリスもまた、中国弱体化に脅威を感じ、日本の軍事力を利用してロシアを牽制しようとした。
そこで両国は1902年2月に日英同盟(第一次)を締結した。
両国とも清韓それぞれに特殊権益を持っていること、
それを守るために軍隊を出す事は認められるが、その場合、一方は中立であることとした。
日露が衝突した場合に、英仏が衝突しないようにするためである。

これで、
日本は日露が衝突した場合にイギリスの援助が期待できるようになり、
イギリスにとってはロシアを牽制することが出来るようになった。
また、世界史的には露仏同盟に対する日英同盟という、対立軸が出来たことを意味する。

ロシア軍は一度撤退したが、1902年にシベリア鉄道が開通すると
再び、満州での兵力を増強するとともに、韓国の竜岩浦(ヨンアムポ)に軍を進めた。
これについて日本と露西亜は交渉を行った。勢力圏を分けようとしたのである。
北緯39度で勢力圏を分けるという考えもあった。しかし、交渉はうまく行かなかった。

日露戦争
日露戦争は日清戦争に比べて兵力の大きな戦争である。
100万の兵が送られ、22万名が死んだ。各村で数十名が死んだことになる。
各地の神社では日清戦争の慰霊碑よりも、日露戦争の慰霊碑を目にする。

また、石炭をめぐる戦争でもあった。東アジアで良質の石炭は主に日本から出ていた。
日露両国とも戦争に備えて、1902年頃から石炭の備蓄をはじめていたが、
ロシアはドイツ商人を通じて日本の石炭を手に入れいていた。
しかし、戦争が始まると、日本産石炭はイギリスが購入し、ロシアには回らなかった。
また、ロシアの艦隊はバルト海にいたが、これをウラジをストークまで移さなければならない。
しかし、途中の港で、イギリスの押さえている港には入港できない。
 
英国が中立を宣言しているためである。
中立は黙認義務、避止義務、防止義務があって、
いずれにしてもロシア軍艦はイギリス側の港に入れないのである。
そのため良質な石炭が手に入らなかった。

1904年2月8日国交を断絶。仁川、旅順を攻撃。翌日には黄海の制海権を押さえた。
宣戦布告は2月10日

日本は1903年頃から、キリスト教者の内村鑑三や、社会主義論者の幸徳秋水らによる
非戦論をおさえて、開戦論が強まっていた。対露同志会や七博士の影響が強かった。
 
一方でロシアも皇帝(ツァー)の専制政治に対して労働者や失業者の不満がたまっていて、
国民の視線を外国にそらす必要があったのである。しかし、両国とも資金がない。
そこで、日本は好況だったロンドンで外債を発行し、ロシアもパリで外債を発行して資金を得た。

1904年12月、日本は軍事拠点の旅順要塞を陥落させた。
日本は港口に船を沈めたり、周囲から旅順を攻撃しようとしたが、
ロシア側は旅順の周囲全体を要塞化していて、日本側はここを落とすことに苦労した。
あまりに遺体が多くなり、一時休戦して、
両国の兵が遺体をかたづけなければならないほどであった。

3月には奉天会戦(陸戦の最後)が行われ、5月には日本海沖海戦が行われた。
11月にバルト海を出発したバルチック艦隊は対馬海峡を通って日本海に入るルートをとった。
時速7ノットと20ノットの船が一緒にいて、性能も新旧交ぜこせの艦隊である。
しかも燃料が悪く、野菜不足で脚気にかかる兵士も多かった。
 
一方で日本軍は韓国の鎮海に拠点を置いていたため、戦場はすぐ目の前であった。
新型の船で性能も良い。バルチック艦隊と闘っても、勝敗は目に見えていた。

このころ、日露両国とも資金難に陥っていた。
一方で、国内では与謝野晶子「君しにたまうことなかれ」に代表される反戦論が唱えられ始めた。

戦争はアメリカのT.ルーズベルト大統領の仲介で終えることとなった。
アメリカは戦争によって日本の満州進出が進むことを恐れ、
血の日曜日事件のような革命の動きがヨーロッパに波及することを警戒した。

9月、小村寿太郎、高平小五郎、ヴィッテ、ローゼンの間でポーツマス条約が締結された。
 1.日本の韓国に対する特殊権益と指導権。
 2.旅順、大連の租借地を清の許可を取って日本へ。
 3.長春、寛城子以南の東清鉄道の支線を清の許可を取って日本へ。
 4.北緯50度以南の樺太を日本へ割譲。
 5.沿海州、カムチャツカの漁業権を日本へ。

条約には賠償金が入っていなかった。両国とも入れる余裕がなかったのだが、
国民は資金が尽きていることは知らされておらず、また戦争で物価が高くなっていたため、
これを不満に感じた。

そのため、日比谷公園で講和反対の国民大会を開いたが、
それが暴徒化し、日比谷焼打事件に繋がってしまった。

Posted by hajimet at 15:13 | Comments (0)

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