(1)租借 日清戦争により中国の弱体化がはっきりしたため、列国が中国の分割と勢力圏を設定した。
98年 ドイツ:膠州湾(青島) ドイツはビスマルク失脚後「世界政策」に舵を切った。 しかしそれまでのドイツの植民地は植民するには適切でなかった。 そこで中国に目をつけ、イギリスが目をつけていなかった良港、膠州湾を租借した。 ロシア:大連、旅順(南下政策) イギリス:威海衛(ロシア牽制のため) 九竜半島(香港の隣。100年間租借。1999年香港返還) 99年 フランス:広州湾
各国は鉄道の敷設権や鉱山の経営権を手に入れて影響圏を設定していった。 ところで、租借地は期限を決めて、その国から土地を借りることであるが、 実際は事実上の植民地である。ドイツが租借という方法をとったのは、 ドイツが三国干渉を行ったため、植民地を獲得するわけには行かなくなったからである。
一方アメリカは中国進出が遅れた。 98年 ハワイ併合、フィリピン植民地化(米西戦争)。 フロンティアが太平洋西岸に達したときには、すでに中国は分割された後であった。 そのため、ジョン・ヘイ国務長官は「門戸開放」「機会均等」を主張し、 自由貿易体制を維持するように主張した。
cf.自由貿易と保護貿易
(2)義和団の乱と北清事変 清国国内では内政改革の動きが出てきて、康有為、梁啓超らを中心に変法運動が起きた。 彼らは1898年、光緒帝の許可を取って実際に政治改革を行った。 だが、この改革は西太后によって止められてしまった(百日維新、戊戌政変)。
このような政界の動きは、 外国の圧力を強く感じている中国人にとっては不満のたまるものであった。 特にドイツの進出の著しい山東半島では、 義和拳という反キリスト教民俗信仰団体を中心にして、外国人を攻撃する動きが出てきた。 彼らは「扶清滅洋」をスローガンとして活動した(義和団の乱)。
同年、乱は北京にまで広がり、外国公使館を攻撃するに至った。 清国政府も義和団に同調して、各国の宣戦布告をした(北清事変)。 清国政府はこれによって外勢を追い返させると考えたのである。
公使館はその国を代表して相手国政府と交渉する公使の勤務する場所で、 その国の領域と同じように保護されなければならない所である。 それゆえ、その場所は警備されなければならない場所でもある。
各国(日英米露独伊墺)は連合軍を結成して義和団を制圧した。 このとき、日本軍の力は大きかったが、 第2次山県内閣は最初から連合軍に加わることには消極的であった。 中国に勢力を広げるためであった。 そこで、3回、出兵要請が来てから、軍を北京に出す事にしたのである。
結局1801年 北京議定書が締結された。これにより清国政府は ・賠償金 ・公使館の地域を治外法権にすること ・公使館警備のため、守備隊を駐屯させることを認めることになった。
北清事変鎮圧に貢献した日本は「極東の憲兵」と目されるようになり、 中国に勢力を拡張し、ロシアを牽制し、朝鮮に進出する足がかりを作った。
|