三国干渉 国民にとっては寝耳に水であったが、「臥薪嘗胆」のスローガンの下、軍備拡張を支持した。 戦争の結果、日本は多額の賠償金を得ることが出来た。これにより資本主義が進展した。 また、朝鮮の市場を確保したことにより、紡績が好調となり、第一次産業革命が進んだ。 さらに、銀2億両を金に換算して受け取ったため、金本位制が確立するなどの効果があった。 一方朝鮮ではロシアが進出してきて、日本の進出を押さえたい朝鮮政府は、ロシアの勢力を 引き込んだ。一方、これを不服に感じた日本の三浦梧楼は、1886年深夜王宮に忍び込んで、 閔妃を殺害し、大院君を担ぎ出そうとした。しかし、この事件は漏れてしまった(乙未事件)。 高宗はロシア公使館に避難したが、1887年ここから出て、国号を「大韓帝国」に変更した。 朝鮮という国号は、明、清国から冊封体制の下で、王に与えられたものであったからだ。 清国との関係が切れたことで、独立の国であることを占めそうとしたことと、 王が皇帝になる事によって、清国や日本と同格の国であることを示そうとした。 高宗は皇帝を象徴する色である「黄色」の服を着るようになった。 清国は国の弱体化が明かになり、列国に分割されるようになった。 一方で、民族的自覚が高まり、「滅満興漢」「扶清滅洋」の傾向が強く出るようになった。 立憲政友会の成立。 (1)隈板内閣 日清戦争は日本の国内の様子も変化させた。 資本主義化が飛躍的に発展して市民の発言力が伸びたこと、 政府も軍備拡張のために市民の協力が必要になったことなどがあげられる。 すでに第2次伊藤内閣の時、自由党と政府は提携していたが、 1896年、第2次伊藤内閣では自由党の板垣退助が内務大臣として入閣し、 同年、第2次松方内閣でも進歩党(旧立憲政友会)の大隈が外相として入閣した。 第2次松方内閣は、財政破綻による増税問題で衆議院を解散したが、 結果は自由党の敗北に終わって退陣し、続いて第3次伊藤内閣となった。 伊藤内閣は政党の支援を受けられなかったために、超然主義をとるしかなかった。 そのため、伊藤系と山県系官僚で内閣を構成した。 だが、これに反発して、自由党と進歩党は合同して憲政党を結成した。 憲政党は衆議院の90%近い議員で占められたため、 伊藤は議会運営の見通しを失って辞職し、 大隈首相、板垣内相によって構成される第1次隈板内閣が成立した(98年6月)。 この内閣は、陸海軍大臣以外はすべて憲政党で構成された。 日本で最初の政党内閣である。 だが、自由党系と進歩党系の内部対立と、藩閥系の圧力で内閣は思うように運営できなかった。 さらに尾ア行雄が自由党系を攻撃しようと、「共和演説」をしたが、これに対する反発から、 尾アは文部大臣を辞職することとなった。そして、憲政党は分裂し、旧自由党系が憲政党、 旧進歩党系が憲政本党を名乗った。 これによって、98年11月隈板内閣は辞任し、第2次山県内閣が成立した。 (2)立憲政友会の成立 第2次山県内閣は、自由党の協力を得て、地租増徴案を通過させた。 しかし、山県は 99年に文官任用令を改正し、政党の影響力が行政に及ぼさないようにし、 00年に軍部大臣現役武官制を定め、現役の大将、中将以外は大臣につけないようにした。 さらに、00年に治安警察法が公布された。 これは事実上超然主義の形が変わっただけだったので、 協力関係だった自由党は山県を批判し始めた。 一方、 伊藤は政治を行おうとすれば、自分が引っ張ることの出来る政党が必要と考えるようになった。 第3次伊藤内閣の失敗などが背景にある。 この利害が一致して、1900年立憲政友会が結党され、伊藤が総裁となった。 これにより、政府と政党の対立は妥協にいたり、政党政治の基礎が出来上がった。 そして、第4次伊藤内閣が成立したが、山県系の貴族院の反対にあい、退陣した。 次の内閣は桂太郎内閣である。山県の後継の長州閥であった。 一方で、立憲政友会は西園寺公望が、伊藤の後継として総裁となった。 この二人の間で政権がやりとりされる様になったために、この時代を桂園時代という。 一方で伊藤、山県は政界の表舞台から引退し、元老として政界を裏からリードするようになった。
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