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2014年11月12日
倫理 20141111 対抗宗教改革とその伝播

1.宗教改革
トマス・アキナスによって集大成されたスコラ哲学に見るように、
中世のカトリックは、宗教だけでなく、政治や学問に対しても絶対的権威を持っていた。
しかし、絶対的権威を持っているものは、平家物語を見るまでもなく腐敗する。
 
金銭的にも困窮に陥ったカトリック教会は、免罪符を発行して、
それによって神に罪を許してもらえるなどと主張した。
しかし、誰が救われるかは、神の恩寵によって決定されているのはないか?。
 
カトリックのあり方対して疑問を持ったマルティン・ルターは「95箇条の意見書」を発表した。
これにより、宗教改革が始まる。
カトリックを旧教というのに対して、宗教改革による新教をプロテスタントという。
(カトリックに)抵抗する人という意味で、英語のprotectと同じ意味である。
 
ルターは
 ・信仰のみ(信仰義認)
 ・聖書中心主義
 ・万人司祭主義をといた。
 
さらに、スイスのカルヴァンは従来の商業、特に儲けを得ることが認められない
(だから金融はユダヤ人が担当した)、カトリックの立場ではなく、
予定説を説くことによって商業活動の自由を認めた。
 
すなわち、誰が救済されるかは予め神によって決められている。
救済されると信じて信仰すれば良い。つまり、信仰に関しては免罪符で救われようとしても
ダメで、意思の自由は存在しないのである
 
2.対抗宗教改革
これに対抗してカトリックも改革を始めた。少し古い本では反宗教改革とも言う。
1534年、ザビエルを含む7人の宣教師が「イエズス会」を結成した。
彼らは教皇絶対主義を認め、カトリックを広く普及させようと海外布教を始めた。
キリスト教の広まっていないところである、アジアと中南米が目標地であり、
これによってカトリックの拡大が始まった。
 
また、教会勢力を背景に、経済的にも政治的にもヨーロッパの進出が始まり、
中南米はスペインやポルトガルの植民地になっていった。
アメリカ大陸からは世界中に梅毒が広がり、アメリカにはインフルエンザが広まった。
 
日本にはザビエルが来た。ザビエルはボランティア活動にも繋がる「自己犠牲の情熱」で
インドにやって来た。インドでヤジロウに出会ったザビエルは、日本での布教を考えて
鹿児島に上陸した。1549年、ルターからわずか32年後のことである。
 
ザビエルは平戸を拠点に布教活動を始めた。そして天皇に会おうと京都まで行ったが、
応仁の乱の後の混乱のため、天皇に会えずに、平戸に戻った。その後中国へ行こうとしたが、
上陸前に船中で死亡した。
 
サビエルは日本で神学、法学、医学を教える大学を造ることを夢見ていた。
それが実現するのは300年後のことで、それが上智大学である。
 
ザビエルは日本人のことを
異教徒の中で最も優れた国民で、名誉心があり、貧困も恥としない」と評価した。
また、偶像崇拝をしないこと(神道)、大日を信仰すること(これはザビエルの誤解)を評価した。
 
3.日本での普及
イエズス会は日本の伝統文化と生活様式を尊重する方針をとった。
ほかの宗派は必ずしもそうではなかったが、このイエズス会の方針は日本にとって幸運だった。
 
彼らは南蛮寺、コレジオ、セミナリオを作り教育をした。
賛美歌なども歌っていたという(聞かせる)。これにより、
 切支丹大名(宗教心、貿易などの理由)
 信者(カトリック墓の話をする。東京でも発見されている)も増えた。
またキリスト教の布教が成功したことをローマに伝えるため、天正遣欧使節も送った。
 (最近千々岩ミゲルの墓が発見されている)
 
4.禁教
しかし秀吉によりキリスト教は禁止される。その後江戸幕府に入り、西国大名の権力を削ぎ、
幕府が貿易を独占するためと、西欧諸国によって植民地化されることを防ぐために、
禁教政策は強くなる。そんな中で天草島原の乱が起きた。この乱は島原の住民が
殆ど殺されるほど激しいものであった(その後小豆島から移住させる…島原素麺)。
 
そのため、家光の時代に禁教は徹底された。この一連の動きで、人びとは寺に所属させられた。
(だから、寺に墓地ができ、寺が葬式、法事を行う)。転向しない人には容赦ない弾圧が
加えられた(丸の内線本郷三丁目付近の大量の白骨発見の話)
 
信仰を守るためには隠れるしかなかった。しかし、集団を越えて交流することはできない。
そのために、どんどん土着化し、神道や仏教の影響を受けることとなった。
 
その例の一つとして、生月島の隠れキリシタンの例がある。
葬式について、表向きは寺の檀家となっているため、人が死んだときには僧侶がお経を上げる。
しかし、その脇で「お経消し」のオラショ(Oratio)をあげるようなこともしている。
 
賛美歌も「おらしょ」に変わった(聞かせる)。口伝で行われるため大きく変化した。
しかし、随所に「さんたまりあ」などの言葉が入っている。変化していっても遺伝子は残るのだ
 
ただし、唱えている人は意味が分からない。日本は「有り難きもの」に神性を認めるから
意味が分かる必要は無いのだ(お寺のお経の文句も同様)。
 
また、箏曲の六段もクレド由来とされる。段数が偶数であること。箏曲に歌が付かないなど、
異質な要素を多く持っている曲である。
 
キリスト教が禁教となり、南蛮寺などからオルガンが消えた。しかし彼らは信仰を守りたい。
心の中で歌って、その伴奏を琴で弾いたことがきっかけとされる。時代がたって、
信仰していた人が絶えると、曲だけが残ったと言うことだ。
 
隠れキリシタンの信徒の中には、明治以降カトリックに改宗した人も多い。
一方で、この「キリシタン」を守った人たちを祀る仏壇を無くすことなどに抵抗して、
信仰をかえなかった人もいる。そのくらい変質しているのである。
 
ただし、元は、14、5世紀頃のカトリックの典礼を持ち込んだとされる。
その後カトリックも大きく変化しているので、現在のカトリックとは異なるが、
研究者によると、かなり当時の状況を遺伝子として強く残しているとのことであった。
 
これでキリスト教はお終い。
次回から仏教。

Posted by hajimet at 16:53 | Comments (0)

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