1890年代から1900年代にかけて、日本では重工業が発展した。
(1)日清戦争 日本は賠償金を軍事産業に振り向け、造船奨励政策をとった。 これによって三菱長崎造船所が作られた。 だが、造船材料の鉄鋼は輸入しなければならなかった。 そこで、1897年八幡製鉄所を設立し、1901年に操業した。 工場はコストがもっとも低くなる点に立地するが、製鉄所の場合は原料が 安く入手出来る場所に立地する(原料立地、例:セメント工場(チチブセメント)。 すなわち、清国大冶の鉄を輸入しやすい港があり、地元の筑豊炭田の石炭が利用でき、 地元農村の労働力を期待できたからである。
(2)日露戦争後 政府は外債の拡大と造成によって戦後経営を進めるとともに、 政府の保護の下に民間重工業も発展した。
鉄鋼:1907年 日本製鋼所が室蘭に設立。幌内、空知、夕張炭田の石炭、 良港の室蘭港の存在により立地。これにより軍事、造船の水準が世界水準となった。 機械:池貝鉄工所(池貝氏創立、当時は芝区金杉川口町)が1905年に国産旋盤を作製。 電力事業の勃興。このころは家庭で使われる電灯程度の発電であったが、 小規模の発電所が各地に作られるようになった。
また、資本の集中により、財閥が出現した。 寡占化が進行することによって企業はカルテル(企業協力)、トラスト(企業合同)、 コンツェルン(企業連携)の形態を取り始めるが、財閥は企業連携の形態である。 三井財閥では1909年に三井合名会社という持ち株会社を設立し、三菱、安田、住友も 同様の会社を興した。
貿易は植民地の比重が高くなった。 満州には綿布を輸出する一方で大豆粕を輸入した。 朝鮮へは綿布を移出するとともに米を移入した。 朝鮮米は良質とされたため、朝鮮米の移入は日本国内の農業に大きな影響を与えた。 台湾からも米や原料糖移入などが行われた。 また、貿易全体では、綿布、生糸が輸出の主力であったが、 原料綿糸、軍需品、重工業資材などの輸入の方が多く、 貿易赤字は深刻となった。
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