1.農業 日本の農業はアジア式農業に属していて、米作中心の零細経営が多かった。 明治に入り品種改良が進み、単位当たりの収穫量は増加していた。 だが、都市部の人口増大により、米の供給は不足し、米価も高騰した。 また、輸入品の方が安い綿花、麻、菜種の生産は落ちた一方、 輸出の主力となる桑、養蚕の生産量は増えた。 一方、大地主は耕作が離れて、小作料に依存するようになった(寄生地主制)。 多くの小作人から小作料が入ってくるが、 小作料は生産量の一定の割合を現物で納める一方、 支払う地価は金銭で一定額を支払えば良いからである。 生産量が増えることと、米価の高騰は地主にとっては財産を増やすこととなった。 米を保管するための蔵をいくつも持ち、それを管理する人を雇い、 大きな敷地で「殿様」と呼ばれるような生活となっていった。 地主はカネを運用するために、企業を興したり、公債や株式に投資したりした。 一方で小作人は非常に貧しい生活に陥った。
2.社会問題
(1)労働組合 工場制工業の勃興によって賃金労働者が増えた。 その大半は繊維産業で、女子が中心であった。 女工と呼ばれた女子労働者は小作人の子女など、家計を助けるために働かされた者であり、 工場から賃金を前借りして働きに出されたケースが多い(「おしん」参照)。 労働時間は6時から21時まで食事以外は休みなしが常態であり、苛酷な労働状況だった。 糸から出る細かい繊維片が浮遊し、つねに湯を沸かしているため湿度100%近く、 そこで働くため、肺病(結核)も多かったが、 企業はそれを救済することもしなかった(「あヽ野麦峠」参照)。 そのような中、 日清戦争前後には待遇改善や賃金引き上げ要求のストライキが頻発するようになった。 それらを背景にして1897年、高野房太郎、片山潜らを中心として 労働組合期成会が結成された。アメリカの労働問題に刺激を受けて結成されたが、 社会主義運動(無産主義運動)の影響も受けている。 また鉄工組合や日本鉄道矯正会が結成されて、熟練工を中心に 資本家と対立するようになった。
(2)公害問題 産業の発達に伴い、公害問題が発生するようになった。 1891年足尾銅山の鉱毒事件が起きた。渡良瀬川流域の深刻な鉱毒問題をおこした。 栃木県出身の衆議院議員であった田中正造らが解決に向けて活動し、 議員を辞めた後に天皇に直訴しようとしたこともあった。 この問題は解決まで15年かかったが、 結局、利根川との合流点の谷中村を遊水池にすることで解決した。 なお、遊水池の中心に墓地が残っているため、遊水池の形はハート型をしている。
(3)政府 労働問題を押さえるために、政府は治安警察法を制定するとともに、 労働問題を緩和するために工場法を制定した。
(4)社会主義政党 このような資本家と労働者との対立などを背景として、 社会主義政党が作られるようになった。 1901年、最初の社会主義政党である「社会民主党」が設立された。 安部磯雄、幸徳秋水、片山潜らが中心となったが、 創党直後に治安警察法によって解散させられた。 一方で幸徳秋水、堺利彦らは1903年に平民社を結成して、「平民新聞」を出版した。 その後1906年に「日本社会党」が結成されたが、 議会政策派(片山潜)と直接行動派(幸徳秋水)の対立が起こり、 1907年に直接行動派が権力を握ると、解散を命じられた。 その後1910年の大逆事件によって、 1920年頃まで社会主義活動は日の目を見ることはなくなった。
(5)社会主義思想 この頃の資本家と労働者の対立の背景には社会主義(無産主義)の影響も強い。 マルクスやエンゲルスによって体系化されたもので、「科学的社会主義」という。 これはマルクスが提唱した言葉で、一方の フーリエやサンシモンの社会主義を「空想的社会主義」と呼んだ。 マルクスによれば、人間の徳は「生産」である。 生産を通じて自分と他人が交流するのであるが、 現時点では労働者は生産手段を持っていない。 生産手段は資本家が所有しているのであって、 労働者は商品と同じ扱いである。 生産したものは自分で分配することが出来ず、資本家によって分配される。 従って、利益は直接労働者に入らず、資本家に搾取される。 労働者が人間の本姓を取り返すためには、社会的革命が必要である。 ところで、 「人間の意識がその存在を規定するのではなく、人間の社会的存在がその意識を規定する」。 社会、文化のような「下部構造」が、 国家機構、政治、法律のような「上部構造」を決定づけるのである。 資本主義が発達することで経済が発展するが、 それによって資本家と労働者の対立が激化する。これは資本主義の構造的な問題である。 対立が激化すると経済の発展も阻害されることになるから、 下部構造の経済の発展によって、上部構造も変えなければならない。 そのために革命が必然的に起こると考えた。 このような思想が1980年代まで社会の対立軸の一方に強くあったため、 この考え方自体は知っておく必要がある。
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