1.産業革命・軽工業 (1)松方財政 松方デフレ後、輸出の回復が回復した。また、 1885年 銀本位制が確立した。 本来は金本位制だが、金の準備が間に合わなかったことと、 アジア貿易が銀本位制だったからである。 これにより物価が安定し、金利が低下し、株式取引が活発となった。
金利が低下すると、預金をしていても利息が付かないから、お金を使うようになる。 同時に、株を扱った方がもうけが大きいから、株式取引が活発となる。 ところで、株とは企業の経営に必要な資金を細かい株に分割して、 倒産した場合のリスクを減らそうとしたもの。企業に利益が出れば、 持ち株分の配当を受けることが出来る。
このような流れの中で1886年から89年に第1次企業勃興(会社設立ブーム)がおきた。 紡績業(綿、絹は製糸)と鉄道がきっかけである。 紡績業は幕末にイギリスから安価な綿製品が流入したことで、一時衰退した。 だが、輸入綿糸を用い、飛び杼による手織機改良、ガラ紡の発明などで生産を回復していた。 その中で、1883年大阪紡績会社が機械紡績機を使用して開業した。 これに刺激を受けて紡績業が勃興し、同時に第一次産業革命が始まった。 鉄道は、1881年に政府の保護受けて日本鉄道が開業し、成功した。 それまでの官営鉄道だけでは建設が間に合わなかったこともある。 1889年に官営鉄道の東海道線が全通したが、 日本鉄道は1889年に上野青森間を全通させ、山陽、九州などでも鉄道が開通した。 このように鉄道が全国に引かれるようになったが、 戦争の軍事輸送などで一体的に運用する必要があるときに、 各会社間の調整などに手間取った。 そのようなことを背景に1906年第1次西園寺内閣の時に鉄道国有法が制定された。
このような第1次企業勃興は1890年の恐慌で終わる。 恐慌とは突然景気が悪化すること。景気は不況−回復−好況−後退を繰り返す。 通常人びとは景気の動きを先読みしながら業務計画を立てることが出来る。 しかし、突然景気が悪くなると、予想していなかった事態が起こることになるから 「恐怖におちいり、慌てる」ことになるのである。 なお、バブルは景気の動きから離れて、見かけ上好況のようになっている現象である。 前回の日本のバブルは不動産業を中心に起きた、 明治の初期には東京で兎のバブル、ヨーロッパではチューリップの球根でバブルが 起きたこともある。一種のハイの状態だからここから景気が落ち込むと反動も大きい。 1980年代のバブルの後遺症は未だに癒えていない。 統計上は好景気はあるのだが、「実感なき好景気」と言われている。
恐慌の原因は、まず、株式への払い込みが集中し、銀行が資金を回収出来なかったこと。 新設の会社に銀行が資金を融資するとき、銀行は安価で企業の株を買取り、 創業後高く売ることで資金の回収を考えていた。 しかし、恐慌が起きてそれがうまくいなくなった。 また前年の凶作で物価が上がったことで、企業の経営計画が狂ったこと、 そして生糸の輸出が半減したことが理由として挙げられている。
この恐慌で日本銀行が市中銀行を通じて産業界に資金を供給する態勢を整えた。 日本銀行(中央銀行)の機能の中に金融により景気を調整する金融政策があるのだが、 これまでその態勢は整っていなかったのである。 ただし、本位貨幣制度の下では現行の管理通貨制度ほど効果的にはできないが、 一般的に好況の時には、貨幣の流通量を減らし、景気が過熱しすぎないようにし (使えるお金が減るから)、不況の時には貨幣の流通量を増やすようにする。
(2)日清戦争後 日清戦争により日本は巨額の賠償金を清国から得た。 これを軍事面の拡充に使うとともに、金融、貿易面の整備に使った。 それにより、1897年に貨幣法を制定して1988年まで使われた。 これによって金本位制が採用された。日本は新貨条例によって貨幣単位として 円、銭、厘を採用し、金本位制を採用していたが、すでに見てきたように実質的には 銀本位制であった。 金と銀の交換比率は1対16であったが、日清戦争前後には1対32になっていた。 多くの国が金本位制に移行していたため、円も安くなっていた (念のため、1ドル=100円と1ドル=200円では後者の方が円安。 日本から同じ1000円のものを米国に輸出しても、100円時代は10ドルするのに対して、 200円時代は5ドルで買えるから)。 円安のために一時的に輸出に有利になるが、機械、鉄鋼など多くのものを輸入していたので、 国内経済に与える影響も大きかった。同時に交換比率が不安定であるために、 長期的には貿易に与える影響が大きいと考えた。そこで日清戦争の賠償金 (+遼東半島を返還したときの賠償金)を金に換算して受け取ることとして、 これを準備金として金本位制を実施して、貿易を振興した。 同時に、日本勧業銀行、日本興業銀行のような特殊銀行を設立させた。
日清戦争後鉄道、繊維業を中心に第二次企業勃興が生じたが、 資本主義的恐慌が起きた。過剰生産が原因である。 この頃の貿易は産業革命の進展に伴って綿花や機械、鉄の輸入が増え、 大幅な貿易赤字となっていた。
(3)日露戦争後 日露戦争後、資本の集中がおきた。 資本主義経済は多くの供給と多くの需要の間で成り立つことが前提となっていて、 自由に経済活動をしても需要と供給のバランスが決まるから、 「神の見えざる手」に導かれるかのように経済は安定、発展する。 その基準になるものが価格である。 しかし、カネによる競争だから、経済的に力が落ちるものは淘汰される 弱肉強食の世界でもある。一方で力のあるものは大企業へと成長する。 SONYは東京通信工業というラジオの修理屋さんであった。 この結果、市場は寡占、独占状態となる。大企業へと成長し、資本金も大きくなるために、 株式会社が出現するようになる。歴史的には帝国主義の段階に入る。 紡績会社も大紡績会社が出現し、独占的地位を占めた。 大形力職機を用いて大量生産を行い、朝鮮、満州に進出した。 一方、地方では、それまで問屋制家内工業の時代であったが、 豊田佐吉の力職機の発明によって、小工場に転換するところが増えた。
紡績の発展は輸入の増加を意味する。 原料綿花をインド、清国、中国から輸入していたからである。 発展すればするほど輸入超過が酷くなる。これを解消するために製糸業が注目された。 製糸業も手動の座繰製糸から山梨、長野を中心に器械製糸に変化した。 これにより1900年には輸出量が、清国を抜いて世界一位となった。
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