金解禁 日本は1917年、アメリカにならって、金輸出を禁止した。 これによって金本位制は停止した。
金本位制は、自由兌換、自由鋳造、自由溶解、自由輸出ができることでなりたつ。 自由輸出によって金の保有量が調整されることによって、物価が安定するとされる。
金輸出が禁止されると、金の裏付けがなくなるから、銀行券が増刷されるようになり、 インフレーションが進んだ。そのため、財界では金輸出解禁を求めるようになった。 1925年頃から、各国で金解禁されていたからである。 だが、日本では恐慌が続いたため、金解禁が出来なかった。
1929年成立した浜口雄幸内閣の井上準之助蔵相は、金解禁論者であった。 金解禁をするために、 緊縮財政によって物価を下落させ、 それにより為替相場を安定させてから、 金解禁をすることを目論だ。
1930年1月1日、金解禁が「旧平価」で行われた。1ドル=49.85ドルである。 だが、新平価論もあった。というのも、 金輸出を禁止してからレートが変わっていたからである。 1928年の平均為替相場は1ドル=46.5ドルだった。 井上は日本の体面も考えて円高時代の旧平価を採用したが、結 果として円高になったために、輸出はふるわなかった。輸 出が振るわなかった理由はもう一つある。世界恐慌が起きていたのである。
世界恐慌 1929年10月、アメリカニュー欲の株式が暴落して、世界恐慌が始まった。 ヨーロッパはアメリカの資金により再建されたが、 ヨーロッパが復興すると、生産設備が過剰となった。 同時にソ連が出現して市場も大きく欠落した。 そのような状態なのに、投機ブームで株式市場は騰貴をつづけた。 その過剰生産が表面化して、あっと言う間に恐慌となったのである。
日本では、恐慌によって再び金輸出が禁止になると考えて、財閥がドルを買い占めた。 その結果金が日本から流出して、デフレーションとなった。
1930年3月、4月に株式が立て続けに暴落した(昭和恐慌)。 特に4月は、東京株式取引所の立ち会いを停止し、株価が6割、物価も7割に減少した。 世界物価の低下も激しいため、貿易額が6割前後に落ち込み、輸入超過となった。 その結果、中小企業の減資、解散が相次ぎ、大企業も生産制限を行った。
政府は対策として、1931年、初の統制法である、重要産業統制法を定め、 指定産業の不況カルテル結成を認めた。 すなわち、生産、価格の制限ができるようになったのである。 この法律により、独占資本本位の重工業化が行われ、産業の合理化が行われた。 まもなく満州事変が始まる時期だが、結果として、戦時体制の下準備が行われたことになる。
農業恐慌 昭和恐慌は農村にも波及した。 農村の中心的副業は繭産業だが、米国への生糸の輸出量が低下したため、 繭価は4分の1に下がり、1930年の米価も、大豊作と植民地米移入により2分の1に下がった。 これによって農家は打撃を受けたが、 農産物の価格の下落は大きく、キャベツ50個でタバコ1箱と同じ15銭にしかならなかった。
その後も、1931年、東北地方の大凶作、32年、凶作、33年、三陸大地震、 34年、室戸台風と続き、32年の1軒あたりの農家の負債が平均837円という状態になった。 これは、平均所得とほぼ等しい額である。 農村では娘の身売り、欠食児童が増え、青田売りも増えた。
さらに、都市への出稼ぎや賃金労働の機会は閉ざされ、働き口がない上に、農村では 都市から帰農人口を多くかかえた為に、惨憺たる生活をおくらなければならなくなった。
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