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2015年2月23日
日本史授業 20150219 金解禁

金解禁 
日本は1917年、アメリカにならって、金輸出を禁止した。
これによって金本位制は停止した。

金本位制は、自由兌換、自由鋳造、自由溶解、自由輸出ができることでなりたつ。
自由輸出によって金の保有量が調整されることによって、物価が安定するとされる。

金輸出が禁止されると、金の裏付けがなくなるから、銀行券が増刷されるようになり、
インフレーションが進んだ。そのため、財界では金輸出解禁を求めるようになった。
1925年頃から、各国で金解禁されていたからである。
だが、日本では恐慌が続いたため、金解禁が出来なかった。

1929年成立した浜口雄幸内閣井上準之助蔵相は、金解禁論者であった。
金解禁をするために、
 緊縮財政によって物価を下落させ、
 それにより為替相場を安定させてから、
 金解禁をすることを目論だ。

1930年1月1日、金解禁が「旧平価」で行われた。1ドル=49.85ドルである。
だが、新平価論もあった。というのも、
金輸出を禁止してからレートが変わっていたからである。
1928年の平均為替相場は1ドル=46.5ドルだった。
井上は日本の体面も考えて円高時代の旧平価を採用したが、結
果として円高になったために、輸出はふるわなかった。輸
出が振るわなかった理由はもう一つある。世界恐慌が起きていたのである。

世界恐慌
1929年10月、アメリカニュー欲の株式が暴落して、世界恐慌が始まった。
ヨーロッパはアメリカの資金により再建されたが、
ヨーロッパが復興すると、生産設備が過剰となった。
同時にソ連が出現して市場も大きく欠落した。
そのような状態なのに、投機ブームで株式市場は騰貴をつづけた。
その過剰生産が表面化して、あっと言う間に恐慌となったのである。

日本では、恐慌によって再び金輸出が禁止になると考えて、財閥がドルを買い占めた。
その結果金が日本から流出して、デフレーションとなった。

1930年3月、4月に株式が立て続けに暴落した(昭和恐慌)。
特に4月は、東京株式取引所の立ち会いを停止し、株価が6割、物価も7割に減少した。
世界物価の低下も激しいため、貿易額が6割前後に落ち込み、輸入超過となった。
その結果、中小企業の減資、解散が相次ぎ、大企業も生産制限を行った。

政府は対策として、1931年、初の統制法である、重要産業統制法を定め
指定産業の不況カルテル結成を認めた。
 
すなわち、生産、価格の制限ができるようになったのである。
この法律により、独占資本本位の重工業化が行われ、産業の合理化が行われた。
まもなく満州事変が始まる時期だが、結果として、戦時体制の下準備が行われたことになる。

農業恐慌
昭和恐慌は農村にも波及した。
農村の中心的副業は繭産業だが、米国への生糸の輸出量が低下したため、
繭価は4分の1に下がり、1930年の米価も、大豊作と植民地米移入により2分の1に下がった。
これによって農家は打撃を受けたが、
農産物の価格の下落は大きく、キャベツ50個でタバコ1箱と同じ15銭にしかならなかった。

その後も、1931年、東北地方の大凶作、32年、凶作、33年、三陸大地震、
34年、室戸台風と続き、32年の1軒あたりの農家の負債が平均837円という状態になった。
これは、平均所得とほぼ等しい額である。
農村では娘の身売り、欠食児童が増え、青田売りも増えた。

さらに、都市への出稼ぎや賃金労働の機会は閉ざされ、働き口がない上に、農村では
都市から帰農人口を多くかかえた為に、惨憺たる生活をおくらなければならなくなった。

Posted by hajimet at 15:56 | Comments (0)

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