浜口内閣の外傷は幣原喜重郎であった。再び協調外交が始まった。 1930年、一時的に中国と友好ムードになっていた。 その中で、日中関税協定が締結され、条件付きで中国に関税自主権が認められた。 中国は北伐終了後、国権回復と不平等条約解消を求める国民の声が強くなっていた。 そこで、国民政府は一方的に不平等条約の無効を宣言していたのである。
また、ロンドン海軍軍縮会議に参加した(30年1月〜、4月、ロンドン海軍軍縮条約)。 1927年のジュネーヴ会議が決裂したことを受けて開かれたもので、 ワシントン会議で決められなかった補助艦の比率を話し合うものであった。 海軍は対米比率7割を主張した。 その結果、主力艦建造禁止を5年延長すること、 補助艦総トン数比を米:英:日=10:10:7、 大型巡洋艦の比率を10:8.2:6と決めた。
これに対して野党、政友会は海軍軍司令部、右翼と結託して条約に反対する態度を示した。 理由は統帥権干犯である。天皇は軍を統帥する権利を持っていた。 一方、軍は軍隊の編成、兵器の備用、給与など行政面を扱う軍政と、 国防計画、作戦計画、兵力の使用に関する統帥面の軍令に分けられる。 軍令は軍部大臣が天皇を補弼して行うもので、 天皇に直属する海軍司令部などが行うもので、 その司令部に相談せずに、勝手に比率を変えたのは、 統帥権を侵すものだと批判したのである。
結局、10月に、枢密院と宮中側近の支援を受けて、条約を批准したが、 11月、浜口は東京駅駅頭で狙撃された。 一度回復したように見えたものの、翌年死亡した。
浜口が、軍を排除して事故の方針を貫いた点では、政党政治の勝利と言える。 しかし、協調外交、緊縮財政に終止符を打つこともはっきりしてきた。 それゆえ、対英米協調も、満蒙の問題も行き詰まりを見せるようになった。 さらに、政友会が海軍や右翼と結託したことは、彼らに政治意識を持たせることとなり、 のちの軍部の独裁へとつながるきっかけとなったといえる。(おわり)
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