« 前のエントリー | Main | 次のエントリー » | Comments | Post a comment


2015年2月23日
日本史授業 20150219 外交政策の転換

田中義一は日露戦争で満州軍に参加したり、シベリア出兵に対して積極派であり、
武力による対中進出を主張していた。
(ただし、欧米に対しては巨超外交で、1928年に不戦条約を締結している)

1926年、中国では、国民党(蒋介石、25年孫文死亡のため)が北伐を開始して、
上海、南京などが占領されるに至った。
北伐が始まったことで、対中貿易は伸び悩み、幣原の外交政策は批判を浴びるようになった。
 
北伐軍が山東省に近づくと、
田中内閣は、3度にわたって山東省に軍を派遣した(山東出兵 27年5月、28年4月、5月)。
名目は居留民保護であるが、張作霖支援が本来の目的であった。
第一次山東出兵によって、北伐の動きは一時止まった。

この最中、27年6月、東京で東方会議が開かれた。
対中政策の確立が目的で、東京に在外公館の外交官はじめ、
関東軍司令官、陸軍次官らが集められた。
その結果、武力「現地保護」政策、満蒙分離政策、親日派の育成をはかることが決められた。
このことによって、ワシントン会議で後退した日本の対中政策を復活したのである

28年、北伐が再開されたために、再度軍隊を山東半島に送り、済南に軍を進めた。
済南は山東半島からの鉄道や、北京から南下する鉄道が交叉するところで、
近くに黄河も流れる交通の要衝であって、外国人も多く居留していた。
 
ここに国民党軍も済南城に入城した。
 
5月3日、日本軍と国民党軍の間で小競り合いが起きたことをきっかけに、
本格的な衝突にまで至った。済南事件という。
これによって城内の軍民5000人が死傷した。日本側は、引き続き山東を制圧した。
その一方、国民軍は山東省を迂回して北京に向かっていた。

一方で、対中貿易の方針を巡り、2つの流れがあった。
それは、満州武力制圧派(関東軍)、
      張作霖傀儡政権樹立促進派(田中)であった。

北京にいた張作霖が北伐軍に攻撃されると、
政府は張作霖に北伐軍との交戦をやめて、満州に「退去」し、
日本の「援助」の元に事実上独立することを勧めた。
張作霖は最初拒んだものの、北伐軍に敗退して日本の意見を飲んだ。
28年6月3日、北京発の特別列車で奉天に向かったが、
翌日朝、奉天駅手前で列車ごと爆破されて死亡した(張作霖爆殺事件、満州某重大事件)。

事件は関東軍の河本大作大佐らによるものであった。
軍の言いなりにならない張作霖を暗殺し、こ
れをきっかけにして満州に武力紛争を起こさせようとしたものであった。
政府は高元を重罰に処するつもりであったが、陸軍の反対で停職処分だけで終わった。
田中義一は、天皇に対して、関東軍は無関係と説明していたが、
天皇に「偽装は明白」といわれた。天皇の信頼を失った田中内閣は総辞職した。

一方で張作霖暗殺後、張学良が後をついだ。
そして、国民党に帰順したため、28年、北伐は終了した。

Posted by hajimet at 15:51 | Comments (0)

Comments


Post a comment