金融恐慌 (2)第2段階 取り付け騒ぎに続き、1927年4月に台湾の鈴木商店が破産した。 鈴木商店は砂糖や、防虫剤などに使われる樟脳を扱う会社で、 第一次世界大戦で、傍系会社を50近く持つ大商社となった。 その勢いは、三井や三菱にせまるほどであった。 しかし、戦後恐慌、震災恐慌で打撃を受け、 27年3月、台湾銀行が新規貸し出しを停止してしまった。 しかし、この結果、台湾銀行が資金を回収出来なくなり、経営の危機に陥った。
政府は緊急勅令で台湾銀行を救済しようとしたが、枢密院に拒否された。 表向きの理由は議会が開けるので、勅令は必要なと言うことであったが、 実際は一銀行、一商店のためでなく、 政策を失敗した中国にそのお金を向けるべきと言うことであった。 在華紡の権益を守れという三井の圧力によるものであった。
4月18日、台湾銀行は休業した。同日、若槻内閣が総辞職して、田中義一内閣となった。 預金者は一斉に取り付けにはしり、恐慌の第二段となった。
預金者は中小銀行に対して不安を持つことになり、 預金が大銀行に集中し、五大銀行が確立した。 一方中小銀行が取引している中小企業は経営に行きづまり、 大企業による整理統合が行われた。
(3)終息 田中内閣の蔵相、高橋是清は、4月22日から3週間、モラトリアム(支払い猶予)を実施した。 22日、23日は休業して、銀行はその間に資金を調達した。 日銀も紙幣印刷が間に合わず、裏面が白紙の200円紙幣が発行された。 5月に台湾銀行救済法が提出され、恐慌は終息した。
社会主義運動の高まり 普通選挙法の通過は、社会主義運動にも変化を生じさせた。 議会を通じての社会改革をめざすようになった。 1925年12月、労働農民党が結成された。共産党系を排除して成立したが、 26年3月に共産党系の勢力が伸び、 同年12月には 労働農民党(左派)、 日本労農党(中間派)、 社会民衆党(右派)に分裂した。
1928年2月、第1回普選が行われた。その結果、労働農民党が8議席をとった。 議席数は少ないのだが、得票率は5%の高さであった。 治安維持法などで運動を抑えていた政府は、この結果に衝撃を受けた。
1928年3月15日 共産党、労働農民党系を約1600名検挙する3.15事件がおき、 5月には治安維持法が改正された(緊急勅令)。最高刑が死刑に高められたことと、 特別高等警察が創設された。 10月には共産党議長が台湾キールン(基隆)で自殺、 29年3月には労農党山本宣治が殺されるなどの事件も続いた。 さらに、29年4月16日、共産党系の人物が800名検挙される4.16事件がおきた。 このように政府は、共産党再建の動きを徹底的におさえ、共産党活動は地下化した。
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