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2015年2月22日
日本史授業 20150212 護憲三派内閣 恐慌の時代

護憲三派内閣

1924年清浦奎吾内閣が成立した。清浦は枢密院議長で、政友会の協力がなかったため、
完全な超然内閣として成立した。

普選運動が広がっている中でのことだったこと、3代続いて非政党内閣だったことから、
政党側の三派が連合した。すなわち、
  政友会(高橋是清)、
  憲政会(加藤高明)、
  革新倶楽部(犬養毅)である。

政府は24年1月に政友本党(政友会から分裂した右派)を味方につけてて議会を解散した。
だが、5月の選挙は護憲三派の勝利に終り、加藤高明内閣が成立した(三派連合内閣)。
政党内閣はこの後1932年、犬養内閣が崩壊するときまで続く。

加藤内閣の外相は幣原喜重郎で、協調外交が行われた。
1925年、普通選挙法が成立し、25歳以上の男子に適応された。
有権者は4倍の1200万人に増えた。
 
だが、法案提出後、枢密院の諮問により、無産主義対策が求められた。
そのため、抱き合わせで治安維持法が成立し、
国体の変革と資本主義を否定するものを最高刑は10年の懲役、禁固とされた。

治安維持法は普選法の関係で制定されたのみならず、
同年、日ソ基本条約が締結されたことも関係する。

だが、1925年立憲政友会で田中義一が総裁となると、革新倶楽部が政友会に吸収され、
加藤内閣は単独内閣となった。その、加藤は25年に病死し、若槻礼次郎内閣となった。

1926年12月25日、大正天皇が死去して、昭和が始まった。
元号は「百世昭明、万邦共和」から来ていた。

恐慌の時代
1.戦後恐慌
 1920
大戦景気の反動で。ヨーロッパの産業が復興して、アジア市場も再開された。
大戦景気では投機的性格もあわせもったが、
日本の生産水準は世界市場に対抗できるほどではない。
そのために、株価が急落して恐慌が起きた。

この恐慌は日銀の非常貸し出しで乗り切ったが、中小企業の倒産は避けられなかった。
一方、財閥は堅実な経営を行い、地位が向上した。同時に財閥系銀行の地位も向上した。

2.震災恐慌 1923年9月1日
戦後恐慌以来の慢性的不況が続く中、関東大地震が発生した。
これにより銀行手持ちの手形の決済が出来なくなった。
地震によって東京にある会社が被災し、払い込みが出なくなったケースが続出したからである。
そのような手形を日銀の特別融資によって解消しようとしたが、なかなか旨く行かなかった。

3.金融恐慌 1927.3.15
(1)その1
 震災手形の処理は失敗した。財
界の動揺を防ぐために、企業の整理が行われなかったからである
(諸外国では、このような場合、整理する)。

ところで、1925年に成立した若槻内閣は、正常な貿易関係を開こうとした。
そのために、
金輸出禁止の解除(1917年に禁止、30年解除)、財政整理、産業の合理化が必要と考え、
まずは銀行の建て直しが必要と考えた。

そのためには震災手形の処理を改めて行おうとした、
1927年、片岡直温蔵相は公債発行によって処理を行おうとした。
一方、野党は不良銀行の公表を迫った。
そんな中、蔵相が東京渡辺銀行とあかぢ銀行で支払いを停止したと失言してしまった。
実は、この日、資金融資ができず支払いを停止したのだが、
2時には融資が出来て支払いを再開していた。
その情報が蔵相に入っていなかったのである。

これをきっかけに二流銀行で取り付け騒ぎが起き、
東京で6行が閉店に追い込まれるという事態になった(金融恐慌)

Posted by hajimet at 22:07 | Comments (0)

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