« 前のエントリー | Main | 次のエントリー » | Comments | Post a comment


2015年2月19日
日本史授業 20150212 社会運動の勃興と普選運動

第1次世界大戦は各国で普選の流れを加速させた。
欧米における第一次世界大戦は、
それまでの訓練された兵士による局地戦の戦争と異なり、
国力を総動員して戦う総力戦だったからである。
 
各国では戦時体制を組んだ。
すなわち、
 ・軍事工業優先
 ・女子、青少年の軍需工業への動員
 ・食糧配給などを柱とする体制となった。
 
これに対して民衆は反戦ストライキを行った。
また、自分たちの生活が統制されるのに、
その政策を決定する政治に参加できないのはおかしいという理由から、
参政権=普通選挙権を求めるようになった。

一方、日本における大戦は局地戦であったが、
物価高騰、実質賃金下落による生活苦と、
ロシア革命、米騒動が刺激となって、社会運動が高揚した。
 
これが普通選挙運動につながるのである。

1.労働運動
1912年、鈴木文治が「友愛会」を結成。
鈴木はクリスチャンで、キリスト教精神に基づく相愛相扶による
労働者階級の地位向上、労働組合の育成を図ろうとした。
 
だが、全国組織化するうちに、次第に労働組合としての性格が強まり、階級闘争化した。
その結果、1919年、大日本労働総同盟友愛会となり、20年に第1回メーデーを主催した。
さらに21年には大日本労働総同盟となり、
21年の日本製鋼所や三菱長崎造船所の闘争に協調したりした。

2.農村
農村でも1919年以降、小作争議が頻発するようになった。
これに対して、1922年、賀川豊彦、杉山元治郎らが日本農民組合を結成した。
賀川はキリスト教社会運動、社会改良を志して労働運動を行ったが、
それに失敗して農村に拠点を移した。鈴木文治とも接している。
 
杉山は牧師で、賀川から協力を求められて運動に参加した。

3.社会主義運動の高揚
大逆事件以来、社会主義運動は下火になっていたが、
社会運動が盛んになるにつれて、その理論的背景となり得る社会主義運動も再開された。
1920年、運動家らが一同に会して日本社会主義同盟が結成されたが、
これは21年に禁止された。

学会で東大の森戸辰男が、近代社会の弊害を除く窮極の考え方は無政府主義であるとして
ロシアの革命家であるクロポトキンを研究した。だが、これにより森戸は休職に追い込まれた。

無政府主義とは社会主義を純化して突き詰めていくと出てくる考え方で、
政府の存在自体を否定する立場である。

運動界では
大杉栄の無政府主義路線と堺利彦らによるマルクスレーニン主義路線が対立していた。
マルクスレーニン主義とは、ソ連政府がとった社会主義路線のことで、
資本主義を経なくとも社会主義革命が出来ることと、
現段階においては政府の存在を必要とする立場である。

だが、ロシア革命の影響から堺の路線の方が優位になり、
1922年、堺、山川均らによって「日本共産党」が創党された。
非合法であるが、正式にコミンテルン支部と認められた。

4.女性運動
1911年、青鞜社創設。平塚らいてうによる。青鞜の創刊後の出だしの文句は非常に有名。
1920年 新婦人協会 平塚、市川房枝

5.被差別部落 
1932年 全国水平社

いずれも大衆の立場からの運動であって、参政権=普選を主張した。
1919年から20年の世界的デモクラシーも背景としている。
加藤友三郎内閣では普選について検討を始めた。
もはや原内閣のような立場はとれないほど、運動が盛り上がっていたのである。

第二次山本内閣も普選に賛成であったが、
内閣が成立した日に関東大地震が起こり、それに対応しなければならなかったことと、
皇太子(昭和天皇)が虎ノ門で狙撃されるという虎ノ門事件で引責辞任したため、
普選法が取り上げられることはなかった。

Posted by hajimet at 21:33 | Comments (0)

Comments


Post a comment