3.ワシントン会議(1921年11月から) ヴェルサイユ条約はドイツの賠償金を英仏伊に支払うことが内容の一つであったが、 英仏伊もアメリカに対して債務を負っていたため、 債務返済をドイツの賠償金で行うことが期待された。 しかし、ドイツは賠償金を返済できず、 結果的にアメリカに対する債務が返済されないという状況になった。
一方、極東においてはソヴィエトが連邦制をとる動きを見せ (22年、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、ザカフカスでソ連を構成)、 日本は中国進出を露骨に行い、 その中国では民族運動が活発化するなど、 新たに対応しなければならない事態が発生していた。
こういう状況の中で、アメリカのハーディング大統領がワシントン会議を提唱した。 ヴェルサイユ条約は、中国が未調印、 米国もモンロー主義が強まった影響で未批准だったため、 東アジア、太平洋地域における戦後体制は確立していなかった。
アメリカの目論見は、 @建艦競争を終了させ、各国の財政負担を軽減させることと、 A膨張する日本を押さえることであった。 このとき、日本はシベリア、満州、山東省、南洋群島に勢力を伸ばしていて、 直接アメリカの権益と衝突することになるからである。
日本は原内閣野路痔で、対米協調路線をとっていた。 その他絵、加藤とも三部労、幣原喜重郎らを全権大使としてワシントンに派遣した。
その結果、3つの条約が結ばれた。 @四か国条約(1921 日英米仏) 太平洋諸島における各国の領有権を尊重 A九カ国条約(1922 日英米仏中伯蘭葡伊) 中国の領土と主権尊重、門戸開放、機会均等(中国の政治的独立と列国の既得権の保護) Bワシントン海軍軍縮条約(1922年 日英米仏伊)。 今後10年間主力艦(戦艦、巡洋戦艦、空母)を建造しない。 主力艦の総トン数を米英:日:仏伊=5:3:1.67とする。 海軍は対米7割(3.5)を主張したが、海軍大臣だった加藤が海軍を抑えて妥結した。
しかし、四か国条約を結んだ結果、日英同盟が廃棄された。 日英同盟は日露戦争後両国の思惑がずれてきて、条約を改正を繰り返していた。 また、日本が日英同盟を利用して第一次世界大戦に参加した。 そのようなことから、英国が日本に対して同盟の廃棄を申し入れたのである。 これによって、日本の外交の基軸がなくなり、日本は孤立化の道を進むこととなった。
また、九カ国条約の締結によって、石井ランシング協定が廃棄された。 特殊権益が認められなくなる結果、日本の中国進出が阻止されたことになる。
このような3条約による体制をワシントン体制と言い、東アジア協調体制が完成した。
4.協調外交 ワシントン体制は加藤友三郎内閣、山本内閣と引き継がれた。 これは日米のの経済関係が良好だったためである。 1924年、護憲三派による加藤高明内閣が成立すると、 幣原喜重郎外相の下で、いわゆる幣原外交が始まった。
幣原は協調路線をとり、経済重視の外交姿勢をとった。 すなわち、 ヴェルサイユ・ワシントン体制の尊重、列国との協調、中国に対する不干渉政策をとった。 ただし、対中不干渉は表向きで、とくに経済関係には非妥協の体で臨んでいた。 というのも、中国への輸出は日本の総輸出の2割以上で、 なかでも繊維は5割以上の輸出割合を占めていたからである。 しかし、英米の対中輸出が復興したため、1921年から対中輸出は減少していたのである。
日本としては、経済面での輸出拡大と、満州権益維持を図らなければならなかった。 一方、中国では北伐の動きが強まり、 孫文率いる中国国民党と、1921年に創党した中国共産党が手を組む 第一次国共合作が行われていた。
そんな中、1825年、上海で日本人が経営する在華紡でストライキを行った。 ここで中国人労働者が死亡するという事件が起きた。 日本人監督とイギリス人警官の横暴に怒った民衆は、 5月30日に反帝国主義のストライキとデモ行進を行ったが、 イギリス警官の発砲によって13名が殺される事態となった。 この抗議は広東、香港にも広がった(5.30事件)。
これについて日本政府は中国に対して同条のポーズをとった。 中国市場を守るためのことで、怒りの矛先をイギリスに向けさせるためであった。 だが、実際は北方軍閥の張作霖に武力鎮圧を要請していたのである。
協調外交は軍縮の推進でも現れた。 海軍では老朽艦の廃棄、軍艦の建造中止を行い、 陸軍でも近代化を行うことで軍縮をした。 加藤友三郎内閣の山梨半造陸将の軍縮を山梨軍縮、 加藤高明内閣の宇垣一成陸将のそれを宇垣軍縮という。
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