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2014年11月25日
日本史授業 20141121(1) 韓国併合(2)と南満州経営

c.韓国側の対応と韓国併合
1905年第2次日韓協約によって韓国は日本の保護国となり、植民地化への道を進み始めた。
これに対して自国の独立を守ろうとしたのが、皇帝高宗であった。
 
1907年7月、高宗はオランダのハーグで開かれた第2回万国平和会議に密使を送った。
日本側は派遣前から事態を把握していて偵察をしていた。
結局日本側にばれてしまい、失敗に終わった(ハーグ事件)。
 
高宗は世界に対して「日本の不当性」をアピールしようとしたことと、
ロシアの力を借りようとしたのであった。
 
朝鮮半島で日本を牽制するとすれば、ロシアしかないからである。
 
しかし、このときロシアも露仏同盟のフランスも朝鮮半島は関心外になっていた。
というのも1907年、日仏協商で両国はアジアでの利益を相互に承認していたし、
この事件の直後のに締結された第1次日露協約では両方の勢力圏を、
日本は韓国、南満州。ロシアは北満州、内蒙古(のちに外蒙古)としていたからである
(この部分は秘密協定)。

一方、伊藤博文は高宗に対して、条約違反をせまり、
同月高宗は退位して純宗に皇位を譲った。
結局高宗は国王になったときから、自国の独立に力を注いだ王だと言うことが出来る。
 
また、同月、第3次日韓協約。施政改善を指導するということで、日本が内政を掌握した。
さらに、韓国軍解体。これによって、外交、内政、軍事と国家の基本的権利が
自由にならなくなったことを意味する。
 
韓国軍の解体で武器が日本の勢力をはね除けようとする人びとに渡った。
これによって義兵運動が展開されたが、
実質は内戦であった(当時の新聞で朝鮮の動きは、戦時扱いで描かれていた)。

このような状況を見て、伊藤は韓国併合は時期尚早と考えた。
歴史が長いこと、しっかりした文化を持っていて、併合しても一筋縄でいかないことを
感じていたからである。
 
しかし陸軍は早期併合論であった。
また桂内閣が「適切な時期に韓国併合」を決めたことで、統監を辞職した。
だが、伊藤は1909年6月ロシアと会談するためにハルビンに行き、
安重根(アンジュングン)に暗殺された
 
結局、1910年8月28日、韓国は日本に併合され植民地になった
調印は寺内正毅李完用(イ・ワンヨン or イ・ワニョン)の間で行われた。
日本では韓国併合を見越した新聞記事が早くから出ていたが、
そのような記事を書いた新聞は、韓国では輸入禁止となった。
また、併合条約は8月23日に締結されたが、そのことは韓国内では一切秘密にされていた。

この様子は当時の韓国でどのように受け止められていたか、プリントを見て見たい。
http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/blog2220_115512.htm

d.併合後
韓国は植民地、「朝鮮」となった。
植民地とは外国から見たときには「その国」であるが、自国内では「外国」扱いになる。
法律も制度もまったく異なるからである。
首都、皇城、漢城から京城になった。
統治機関は天皇直属の朝鮮総督がつき、京城の朝鮮総督府が統治した。
初代の総督は寺内正毅で、以降、現役の軍人(陸軍中心)が総督となった。
また、警察も憲兵が上層部に入り、厳しい統治を行った。これを武断統治という。
 
統治の最初の段階で総督府は土地の所有権を確認する土地調査事業を行った。
所有権のはっきりしない土地は総督府の所有となった。
生産手段を失った農民は国外に移るしかなかった。南部は日本へ、北部は満州に移動した。
総督府に所有権の移った土地は、日本人地主や、朝鮮を開拓する東洋拓殖会社
払い下げられた。


Posted by hajimet at 21:37 | Comments (0)

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