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2013年11月2日
韓国併合(二時間目)

科目:日本史B(50分、3単位)
単元:日露戦争後の国際情勢の変化(三時間のうち二時間目)
目標:日露戦争後の国際情勢の変化とともに、韓国併合、南満州進出通じての東アジア情勢の枠組みの変化を学ぶ(国際社会全体の枠組みの変化は日露戦争で既習済み)。
 
1時間目:(1)日露戦争中:韓国の局外中立宣言と日韓議定書、第一次日韓協約
      (2)桂タフト協定、第二次日英同盟とポーツマス条約、第二次日韓協約
        韓国側の見方についても、簡単に触れることとする。
2時間目(本時):(3)ハーグ密使事件から韓国併合
 導入:3分
前時ハーグ密使事件に簡単に触れたことを受けて、高宗が密使を派遣したこと。日本側は韓国を出るときから把握していたこと。その動きが韓国併合に繋がることに触れる。
 
 展開1:15分
(要約)韓国はロシアに頼ろうとしたが、すでに第一次日露協約を締結するときだったため、ロシアの関心が韓国から離れていた。一方皇帝は伊藤によって退位させられる。その直後、1907年7月、第三次日韓協約を締結し、内政権も日本側に移るとともに、韓国官吏に日本人を採用できるようにした。さらに8月には韓国軍も解散せられ、それによって義兵闘争(要するに内戦)が盛んになる。これは1909年まで続く。
 
韓国の植民地化について、伊藤は「時期尚早論」をとるが、軍部の力によって桂内閣はて「適当な時期に併合」を決める(要するに、山県の力)。伊藤は統監を辞任するが、その後哈爾浜で安重根に殺される(旅順刑務所のはなしなども少々)。
 
展開2:20分
1910年8月韓国併合。条文を読ませる。その後プリント配布。併合が韓国人、日本人にどう捉えられたか当時の新聞の題目で見ようと考えた。
プリント三枚。一枚ずつ配る。また、これら新聞の縮刷版のコピーを持って行き、現物を見せながら話を進行する。
 
1.大韓毎日申報の題目

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大韓毎日申報は、日本による植民地化を防ごうとする論陣を張る新聞で「民族紙」といわれる。最初の題字は併合前日のものだ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大韓毎日申報と書かれ、上の年号は鳰、4年8月28日となっている。翌日は新聞は停刊。この前後は日本の新聞も輸入禁止になっていた。併合のことを知られないためだ。次の日にはこうなった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「大韓帝国」は無くなったのだから「大韓」の文字は消える。さらに年号が明治43年になる。改元は日本でもあるが、かならず元年から始まる。突然43年になることは、それまで「鳰、」で来た人たちがどう感じるだろうか。
 
さらにその翌日にはこうなる。この新聞はこの後、総督府の朝鮮語紙として御用新聞となる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日本風の縦書きになる。では、もう一紙見て見よう(2枚目配布)。
プリント2

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
皇城新聞。皇城とは「漢城」のことで、皇帝がいる城だからこのようにも呼ばれた。併合前最後の題字を見て見よう。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
皇城新聞と書かれ、皇城と新聞の間には韓国の旗が描かれている。中央には大韓鳰、4年と書かれている。このすぐ下には朝鮮の様々な年号がかかれ、合わせて日本暦、清国暦、西暦が書かれている。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ところが、29日に号外が出て30日に出された新聞はこうなった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「皇城」が消えて「漢城」になる。ここで設問。なぜ皇城は駄目になったのか。生徒:「皇帝がいないから」。ところで、「漢」は急いで差し替えたことが判る。元号は明治43年。脇に書かれていた様々な朝鮮の暦も消えた。まだ韓国の旗は描かれている。では、次の物を見て見よう。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ついに韓国の旗も消えてしまった。「皇」が消えて、明治になって、自分たちが使ってきた旗も消えてしまう。ところで、当時韓国で出ていた日本語紙はどうだったのだろう(3枚目配布)。
プリント3

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
居留地の日本人向けにだしていたもの。では、新聞は一面は小説で始まっている。併合前日の題字を見よう。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
年号は明治43年のまま。では、併合直後の新聞は?

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
紙面はどう?「何も変わっていない」の声が出る。このとき、日本で出ていた新聞は併合を喜ぶ、お祭り騒ぎのような記事だった。でも、この新聞は何も変わっていない。中を見ると併合に触れているが、現地に住んでいる日本人にとっては、ただ、自分の住んでいるところが「日本」なって土地が増えた事と、居留地が無くなっただけで、それまでの生活と連続していることが読み取れる。
 
韓国の人がよく「併合の痛み」を知って欲しいと言ってくる。しかし、日本人の立場ではそれを感じることは難しい。というのも歴史上他国に支配される経験が無いから(沖縄は除く。戦後の一時期も日本政府はあった)。英、仏=ローマ、独=ローマ、西、葡=イスラム、東欧=モンゴル、トルコ、ロシア…などと具体的に考えさせる。
 
歴史的に体験していないが、このような史料などをつかって擬似的に考えることは出来る(実際に元号が変わったところと、3枚目のプリントには大きく反応していた生徒が数名いた)。
 
展開3:10分 総督府の機構・武断政治と土地調査事業(略)、
まとめ:2分 次回の導入のための動機づけ。
 
3時間目:日本の南満州進出と国際関係。特に対米関係悪化と、第一次世界大戦の枠組みが出来ることに重点を置く。

Posted by hajimet at 21:39 | Comments (2)

Comments
中学校の歴史の時間に、国語と歴史を担当してた先生が、ナポレオンがエルバ島から脱出してパリに近づくにつれて起こった新聞の論調の違いを克明に説明してくれたのを思い出します。
何にも知らない中学生でも、新聞がこれほど権力におもねるものかと衝撃を受けました。
中学生だと思ってバカにしてはいけない。
私はあの日の授業をよく覚えています。
同じ先生から教わった、与謝野晶子の「ああ弟よ、君を泣く」のことも。
その先生にはこのことを伝える機会もありませんでした。波
  Posted by: 波田野節子 at 2013/11/03 21:56:34
波田野節子さん。ナポレオンのエルバ島脱出についての新聞記事。今は、多くの世界史の資料集に新聞の見出しが掲載されています。私も世界史を担当するときは、意識してこの項目を扱うことにしています。

与謝野晶子も授業で取り上げました。前段を生徒に読ませましたが、自分の思いがどこまで伝えられたか。日露戦争の話をしているときは、対馬のナヒモフ号の記念碑と203高地を初めとする旅順の光景が頭の中で重なっていました。与謝野晶子に至っては、池上本門寺にある墓石まで重なっていました。
  Posted by: hajimet at 2013/11/04 0:20:27


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