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2014年6月18日 |
日本史 20140616の(1)戊辰戦争(2) |
A江戸城開場 江戸に新政府軍が近づく中、 フランスは幕府に武器を与え、徹底抗戦することを勧めた。 だが、徳川慶喜は新政府に恭順の意を示し上野寛永寺に移った。 上野寛永寺は、現在の藝大、国立博物館裏だけではなく(籠もった部屋も残る)、 上野の山全体が寛永寺であった。 ここに移った慶喜側の眼目は、慶喜の助命嘆願であった。 慶喜側は新政府側と何回か交渉をしたが、埒があかなかった。 というのも、西郷隆盛等は慶喜の命を奪うことを主張していたからである。 慶喜が寛永寺に移った後、江戸城開場が焦点となる。 慶喜は勝海舟に交渉をさせた。 勝は交渉が成功しない場合は江戸を焼く計画であった。 勝は西郷隆盛と交渉した。場所は薩摩藩邸説と、先鋒隊がいた池上本門寺説がある。 結局、3つの条件で江戸城は開城された(68年5月)。その3つとは 1.無血開城 2.武器、艦船引渡 3.慶喜に対する寛大な処分(隠居―水戸謹慎〔最後は静岡で写真屋の主だった〕)。 実は、西郷等も慶喜に対する処分は妥協した方がよいと考えていた。というのも、 本格的に旧幕軍と争うことになれば、内戦となり、英仏につけ込まれる可能性が 出てきたからである。 一方、これに不満をもった旧幕臣の一部は彰義隊を結成して、寛永寺に籠もった。 これに対して、新政府軍は5月15日、彰義隊を攻撃して勝利した。 7時に黒門(国立博物館脇に現存、弾痕がすごい)を攻撃し、 完全に制圧したのは17時であった。 よほど怨みが強かったのだろう。新政府はこの戦いで死亡した彰義隊の遺体を 片付けることを認めなかった(後に認め、西郷像裏に慰霊碑がある)。 B奥羽列藩同盟 続いて、仙台藩、米澤藩を中心に奥羽列藩同盟が組織された。 だが、これも9月に平定された。特に、抵抗の激しかった所が会津であった。 8月に婦女子が鶴ヶ城に立てこもり、抵抗を始めた。最終的には9月22日、藩主 松平容保の降伏で終わった。だが、この時の戦いを見た、白虎隊の志士は、 会津城が焼け落ちて、主君が死亡したと勘違いして自刃してしまった。 ところで、白虎は四神の一つで、朱雀、青竜、白虎、玄武の一つである。 方向を表す神であり、中央は黄龍となる。 方向ごとに色があるのは五行説から来ている。 江戸でもこの色で場所を表している例がある。 目黒、目白、目黄、目赤、目青不動がそれ。 C箱館五稜郭の戦い ところで、榎本武揚等2000人の旧幕臣は、 江戸開城と共に、品川から船に乗り、函館五稜郭に移った。 五稜郭は「☆」型をした城で、攻めるのは難しいが、防禦には優れた形をしている。 ここに立てこもり、慶喜や旧幕臣を呼び、独立国を作る計画であった。 (実際に独立宣言をして、アメリカが承認する直前まで行っていた) これに対して、新政府軍が攻撃をして、69年5月に完了した。 こうして、戊辰戦争は終わったが、多くの使者が出た戦争であった。 このときの死者数は日清戦争の死者数に匹敵する数であった。 |
Posted by hajimet at 19:29
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