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2014年6月18日
日本史授業 20140616(2) 五カ条の誓文と政体書

五箇条の誓文と政体書

@五箇条の誓文
新政府は旧幕軍を破りながら支配範囲を広げていった。
1868年1月、鳥羽伏見の戦いに勝ち、西側各藩が帰順した新政府は、
諸外国に向けて、「王政復古、開国和親(原文読む)」を宣言した。

諸外国政府も新政府の状況を見て、新政府を国際法上の交戦団体と認めて、
局外中立を宣言した。

ほぼ関東以西を抑えた1868年3月14日、新政府は五カ条の誓文を出した。
その内容は(原文などを読みながら)
(1) 公議世論の尊重
(「広く会議を起こし」:福岡孝弟は「列侯会議を起こし」だったが、
 これでは公武合体になってしまう。そもそもこの文は「船中八策」以来
 公武合体の中で出てきた言葉。これを、新政府側が「尊王」の立場で
 組み込んだと言える)
(2)一君万民
「上下心を一にし」
…このことから、将来藩を廃止する方向が読み取れる。
(3)開国和親
「広く智識を…」

福岡は「会盟」としようとしたが、
これでは天皇と百官の関係が対等になるという公家の反対により、
天皇が百官を率いて、諸神に宣言する形式を取った。

A五榜の掲示
よく3月15日、それまでの高札に代わって五榜の掲示が出された(原文読む)。
その内容は幕府時代と変わらないものであった。

だが、新政府の支配地域では、幕府時代の高札を引き抜いて、
新政府の五榜の掲示に差し替えたのである。
すなわちこれにより、新政府が支配したことを宣揚しようとしたのである。

B政体書
閏4月、政体書が出された。

閏四月とは太陰暦の暦の進行(1月は29日か30日)と季節の進行がずれることを
防ぐために置かれるもので(19年間に7回)、同じ月を2回繰り返す。
(ちなみに、閏年はユリウス暦から来るもので、地球の公転の関係で、
4年に1度(ではない年もあるが)挿入される。
これは復活祭の時期がずれないようにするための挿入である。

政体書(原文読む)は五箇条の誓文の具体化である。
 太政官制を取ること(政令二途にならないように)
 三権分立で、互いの独立
 高級官吏は任期4年で公選制。
 中央と地方の関係などが定められている。

これはアメリカの制度を参考にして作られたもの。明治初期はこのようなものが
多いが、それまでの社会情勢に合わずすぐに形が変わってしまったものも多い。
政体書も同様。

ところで、藩、府、県が出てくるが、
 (江戸時代)   (新政府)  
  旧幕領(納地)===府(重要な所、9カ所)
   |       |
   |       |
   |       =県(それ以外)
   |
   藩========藩(廃藩置県前は藩はそのまま残る)

県(縣)は首をひっくり返した文字で、戦争で取ってきた首を村の入り口の
木に掛けておいたことをことに由来する。

中央から派遣した役人のいる役所のことで(郡県制)、
新政府では中央集権にすることを意味している(cf.道州制)。

江戸の場合、朱引き内の旧御符内は東京府、それ以外は武蔵県となったが、
武蔵県はのちに3つに分けられ品川県、小菅県、大宮県に分けられた
(このような県が最終的には200を越える)。

C明治改元
68年7月、江戸を東京(とうけい)と改称。
1868年9月8日、明治に改元。
 それまでは、凶事や瑞祥のときに元号を代えてきたが、天皇が中心となって
 支配するのだから、天皇の一代の間、改元しないことにした。一世一元という。
 天皇が王政復古を宣言し(68年12月)、1月に西国が帰順し、新政府の勝敗が
 ほぼ決まったと言うこともあるのであろう。改元は1月1日に遡って行われた。
 したがって、公式には慶応4年は存在しないことになる。
 
出典:「聖人南面而聴天下、嚮明而治(『易経』)」
古来、東アジアでは、君主が座る向きは南向きと決められていた。

その後、明治天皇が東京に行幸し、市民に酒をふるまった。
このときに、江戸城は皇居(東京城)と改名した。
さらに、1869年3月、正式に明治天皇は東京に遷った。

遷るとき、京都の公家から反発が出た。そこで、
「関東を抑えるためには、天皇が行く必要があるが、
 その必要が無くなったら京都に戻す」と理由を付けて東京に送り出した。

今でも、京都では「天皇をお貸しした」。だから首都は「京都」という
雰囲気が強く残っている。

Posted by hajimet at 19:58 | Comments (0)

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