C公武合体(1)
これまで、幕府の中では開国派と譲位派が対立していた。 開国派はそれまでの幕政の独立を維持しようとしてきた。 最後に井伊直弼が支えようとした。
だが、桜田門外の変で井伊が殺されると担い手がなくなり、 譲位派に妥協する政治をする。同時に朝廷をどう取り込むかが問題となる。 堀田正睦(安政の大獄で死去)の次の老中 安藤信正は、開国派であり、井伊の外交政策を継承しようとした。 一方政治的には井伊時代の反省もあって、穏健路線を取ることにした。 彼が考えたのは、 幕政を建て直し、権威を維持するために朝廷の力を利用しようとしたことであった。 これが公武合体である。
安藤の考えた公武合体は幕府を中心とした公武合体であった。 安藤が理由としたことは、表向きは朝廷が攘夷をするためには、公武合体が 必要と言うことであったが、 その裏では、朝廷が(内勅のように)幕府の政策に反対すれば、 廃帝もあり得るというものであった。 その象徴として和宮を家茂と結婚させることが図られた。 1860年末には結婚を朝廷に申し込んでいる。
しかし、朝廷側は、和宮にすでに婚約者がいること、孝明天皇と異腹の兄弟で、 そちらの母親から許可が取れていないことなどを理由に結婚を拒んできた。 そもそも荒い武士の跋扈する遅れた東国なんかに妹を送り出したくなかったのだ。 だが、次第に外堀が埋められ、1861年に孝明天皇は婚姻を許可した。 ただし、攘夷を実行し、鎖国にすることが前提である。 幕府側は10年以内の攘夷を約束した(実際にこの攘夷は実行に移せる)。 和宮も、江戸城でも御所と同じ生活をすることや、 年に一度の墓参りのために京都に戻ることを条件とした。 和宮は1861年11月に京都を出発した。 経路は中山道。道幅が狭いこともあって供奉の行列は50キロにも及んだ。 東海道は大井川の川止めがあって、予定が立たないことと、 結婚に反対する過激派の襲撃を受ける恐れがあった。 一方で、中山道は日光への例幣使の道に使うなど、 公家にとっては馴染みの道だった。
沿道の住民には、高いところから見ないとか、 犬や鶏は、鳴き声の聞こえないところに移させられた。 1862年2月、いよいよ結婚式。 しかし、和宮が内親王になっていたため、 将軍家の結婚式なのに、主人は和宮となった。
その後の生活は和宮にとって満足行くものではなかったようだ。 考えてみれば、御所風の生活と言っても、 ハモのようなものは江戸では手に入らない。 そうではあったが、和宮と家茂の中はとてもよかったようで、 近年、増上寺で行った発掘では、 家茂の姿が映った銀板を抱いて寝ていたことが分かった。 D坂下門外の変 このような幕府側の動きに対して攘夷派の反発が強まり、 1862年2月、安藤信正が坂下門外で襲撃された。 これも水戸藩浪士による者で、1860年から計画はされていた。 桜田門の変以来、警備が厳しくなっていたために、 安藤は大した傷も負わずに済んだが、これをきっかけに安藤は失脚した。 E公武合体(2):文久の改革
1862年、藩主島津忠義の父、島津久光は、朝廷から京都の警護を命じられた。 尊攘派が集まって治安に問題が出たからである。 久光は自己の独自の公武合体案をもって鹿児島を出発した。 京都に着き、朝廷より改革案の承諾をとる。 そして、朝廷の使者とともに、江戸に来て、将軍に謁見して、幕府もこの案を吞んだ。 その案とは幕府を改革すること、言い換えれば 『公』に重点を置いた合体であった。 1. 一橋慶喜を家茂の後見職とすること。 2. 薩摩、長州、土佐、肥前、仙台の藩主を五大老とすること (重要な港を持つ所による雄藩連合。倒幕を考えてはいない)。 3. 兵制を西洋式にする。 4. 参勤交代を1勤3年とし、滞在期間を100日に縮める。 人質として江戸にいた大名の妻子の帰国を認める。 これにより、一橋派の力が伸びた。 ところで、島津は上洛するときと、江戸から京都に戻るときに 大きな事件を起こしている。
1.1862年の寺田屋事件。 倒幕の動きが強まり、寺田屋に志士が集まると、久光は藩兵に命じて 寺田屋を襲撃させた。久光は倒幕までは考えていないと言うことだ。 2.生麦事件 江戸から戻るときには生麦事件を起きた。 これにより、島津を中心に改革がうまく行くかのように見えた。 しかし、次第に慶喜と島津の間で意見の違いが出てきて、改革はうまく行かなかった。 そこには、思想的な背景があった。つづく。 【参考】攘夷思想について 島津と慶喜の行き違いは思想的背景が違うとことに由来する。 当時攘夷に結びつく考えは大きく2つの流れがあった。
(1)国学 賀茂真淵−本居宣長−平田篤胤と続く。
平田は全ての古伝は日本にあったと考え、 アダムとイヴも実はイザナギとイザナミだったとする。 文字もそうで、漢字渡来以前に神代文字があったとする(ハングルで理解出来る)。 すべてが日本にあったわけだから、神道と天皇を尊重する流れとなる。 平田は多くの弟子を取り、影響は広がった。 地方では郷土史に関心を持つとともに、地方を改良とする人が多く出たし、 政治では「尊皇」が重視されるようになった。 そして、これと攘夷が結びつく。このため倒幕へと進む。 (2)水戸学 藤田幽谷、藤田東湖らによって作られていく。 こちらは、忠で以て互いの職分を果たすことを重視する。 また、天皇を中心に忠愛で結ばれている社会を国体という。 忠で結ばれている関係を重視するので、幕府を擁護する考え方に繋がる。 すなわち天皇から政治を委託された幕府は、天皇に対して忠で結ばれていれば良い。 これによって、政治は王道が求められる。 従って、「尊皇」ではなく、「尊王」であり、これと攘夷が結びつく。 京都の「尊皇派」と違い、「そんのうじょうい運動」は「尊王攘夷運動」である。 ところで、現在に於いても攘夷派克服されていない。 と言うのも開国の動き自体が、攘夷の発展系だからである。
国学者の大国隆正は、 攘夷をするためには、まず国力を付けなければならない。 すなわち、外国と交易をして、富国強兵をすることによって 初めて外国と対峙できるとした。
その後も、日本の歴史の中で、この考え方はときどき顔を出している。
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