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2015年2月7日
日本史授業 20150202 政党内閣の成立(1)

@寺内内閣
大戦中、大隈内閣につづき寺内内閣が成立した。
寺内正毅は長州閥で陸軍大将であった。初代朝鮮総督でもある。

このころ、民間では政治の民主化を求める声が高まっていた。
吉野作造が「民本主義」を唱えたからである。民本主義はdemocracyの訳であるが、
そのまま訳すと、国民主権の意味になってしまうので、
どの政体であっても国民主体で政治を行うという意味で「民本主義」と訳した。
国民のために政治を行うこと、国民の意見をとらえた政治をすることが要点である。

そのような中で超然内閣が登場したのである。
議会では寺内に対抗して、立憲同志会を中心として「憲政会」が結成された。
これに対して寺内は、1917年に議会を解散した。その結果立憲政友会が第一党となった。

しかし、寺内は政党の動きも無視することができず、
外交関係を統一するために作った「臨時外交調査委員会」のメンバーに
政友会の原敬と、立憲国民党の犬養毅を加えた。

A米騒動
ところで、第一次世界大戦による経済発展は、工場労働者数を増加させることになった。
彼らは都市に集中するので、米の消費量が増大することとなった。
しかし、農村の生産は停滞していたため、米価は上昇し、都市生活者の生活は苦しくなった。

その上シベリア出兵で軍用米を備蓄する必要が出てきた。これにともない、
米価はさらに上がることになった。

14年に1升10銭だった米価は、18年に入ると急上昇し、8月には1升50銭にまで上がった。
これは平均日給に当たる額である。

このような物価上昇に対して、投機目的で米を買い占めたり、
売り惜しみをする者が出てきて、民衆の怒りが高まっていた。

7月23日、富山県魚津で米価が値上がりした。
これに対して、8月3日魚津からほど近い西水橋町の漁師の主婦が、
米の県外移出を行うことを拒否するとともに、安売りを求めて米屋を襲撃した。
 
これが「女一揆」という題目で新聞報道された。
全国的に不満がたまっていたとであったために、騒動は一挙に全国に広がった。
1道39県、70万人が騒動に加わったとされる。
彼らは新聞社、米屋などを襲撃し、暴動化した。

政府は軍によって鎮圧をはかり、8月20日までには沈静化した(完全終結は10月)。
これまで秩父事件、日比谷焼き討ち事件などでも軍による鎮圧をはかったが、
全国規模(120地点、9万2000人出動)で展開したのは、これが初めてのことであった。

この事件の責任をとって、寺内は辞任した。

騒動は自然発生的に始まったものであった。
だが、無産者中心で、民衆団結の効果を人々に認識させる結果となった。
これをうけて元老、特に山県は、人々の力を押さえるためには、
政党内閣が必要と判断するようになった。
 
官僚中心による超然内閣政権では、このような事態をうまく収拾できなかったからである。

Posted by hajimet at 12:34 | Comments (0)

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