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2015年2月8日
日本史授業 20150205 政党内閣の成立(2)

3.原内閣
寺内内閣が瓦解した後、元老は人々の力を押さえるために政党内閣が必要と考えた。
そのため、立憲政友会の総裁であった原敬が首相に選ばれた。

原敬は、これまでの首相と異なり、家族でも藩閥でもない人物であった。
それゆえ、「平民宰相」と呼ばれた(ただし、南部藩家老の出)。
また、全閣僚(除、軍部大臣)が政友会であった。
西園寺内閣のときに、閣僚の大半が藩閥系だったことと大きく異なる。

政友会は内政については保守的、外交については対米協調の自由主義路線をとった。
それゆえ、西原借款は中止となった。
彼らの、支持基盤は財界や農村の富裕層だった。

政権の柱は積極政策であった。
高等教育の拡充、産業の拡充、鉄道網の拡充、国防の拡充である。
このなかで、高等教育については、それまで専門学校扱いであった
早稲田、慶応などの私立大学が、正式に「旧制大学」として扱われることになった。

一方で支持基盤の関係もあって、普通選挙については消極的であった。
当時、国際的には普通選挙が広がってきていたのにも関わらすである。
それまでも普通選挙権を求める動きは、20世紀に入る頃からあったのだが、
吉野作造の影響もあり、国民の間には普通選挙権を求める流れが強まっていた。

1919年から20年にかけて示威運動が繰り広げられた。
これに刺激をうけた憲政会と国民党は1920年に野党連合を形成して
普通選挙法案を国会に提出した。

これに反対した原は議会を解散し、その結果、与党立憲政友会が第一党となった。
原の考えは漸進的改革であった。
階級闘争としての普選法運動を否定していたのである(資料読む)。

このような原政権であったが、
1920年の恐慌によって積極政策が行き詰まってしまった。
また汚職事件が発生して、国民の不満がたまった。
そんな中、1921年11月、原敬は東京駅で刺殺されてしまった。

この後、
 21年11月 高橋是清内閣(政友会総裁、リーダーシップがとれず、内部対立が起きる)
 22年 6月 加藤友三郎内閣(海軍大将:非政党内閣)
 23年    山本権兵衛内閣(海軍大将:非政党内閣)
 24年   清浦奎吾内閣(枢密院偽証:超然内閣 内閣も貴族院議員で構成)、と短期
政権が続いた。

政権が流動化した理由は、山県の影響力が落ちたことが上げられる。
山県は、皇太子妃選定にあたって、候補に挙がっていた良子妃以外の人を考えていた。
そこで、21年、良子妃決定に反対する運動を繰り広げた。
宮中某重大事件と呼ばれた、この運動で山県は次第に孤立化するようになった。

さらに22年には山県が死亡する。
このことと関係するのである。

Posted by hajimet at 10:08 | Comments (0)

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