1.パリ講和会議(19年1月〜)、ヴェルサイユ講和条約(19年6月)
1918年8月、第一次世界大戦は休戦し、パリで講和会議が開かれた。 戦争の関係を清算する会議である。
会議はウィルソン米国大統領による14カ条の原則に基づいて行われた。 まずは、ドイツとその同盟国の領土処分と賠償金であった。
ドイツには1320億マルクという多大な金額の賠償金が求めら、 払いきれずにルール工業地帯をフランスに占領されたり、 物価が1兆倍にあがる事態になった。
つぎに少数民族の独立である。 これは、ウィルソンの「民族自決」の原則に従って行われた。 ただし、独立が認められたのは東ヨーロッパだけである。 しかも民族の境界線に必ずしも合致していない。 ドイツとソ連の拡充を防ぐことが目的だったからである。 (でなければ、バスク問題などは解決されているはずである)
3つ目が国際連盟の創設。 初の国際平和維持期間で、スイス、ジュネーヴに本部が置かれた。 ただ、ソ連、米国が加入していないこと、全会一致の原則、 経済制裁しかなく、武力制裁ができないことで、 国際連合に比べて力の弱いものであった。
山東半島で第一次世界大戦に参加した日本は、 西園寺公望、牧野伸顕らを全権として送った。
日本の目的は山東半島の権益確保と、21カ条の要求による権利確保である。 一方、中国は21カ条の要求の撤回を要求していたが、 日本の強圧的態度と米国大統領の説得を受けた。
また、中国国内ではヴェルサイユ条約締結に反対する五.四運動が起きた。 その結果、中国は条約締結を拒否した。
講和会議で、日本は 山東半島の旧ドイツ権益を確保した。 また、南洋群島は国際連盟による委任統治領となった。 委任統治はこの時に開始されたものである。 領土を分割して、いきなり植民地を建設することは 19世紀末頃から違法だという考えが広まっていた。 それゆえ、保護国を迂回させて植民地建設をするようになった。 (チュニジアに対してフランスが行ったことが最初)
しかし20世紀に入ると、植民地建設自体が違法と考えられるようになった。 そこで、国際連盟から統治を委任されるという形式をとったのである。 (国連時代には信託統治領に変わる) 委託された国は、国際連盟の枠の中で統治することになる。
一方で、この地域が委任統治領になると言うことは、 日本が太平洋に権益を広げることを牽制するという意味もあった。
日本に対して、このような権益が認められたにせよ、 欧米諸国の日本に対する不信は強まり、 日本の孤立化が進むこととなった。
2.三.一独立運動
(1)民族自決 1910年、朝鮮が植民地になって以来、 朝鮮では武断政治が行われ、人びとの間に不満が蓄積されていった。
一方、民族自決は朝鮮にも適応されることが期待された。 朝鮮では何らかの形で民族の意思を示すことが必要と考えられるようになった。
1919年2月8日 東京で独立宣言(2.8独立宣言) 東京にある朝鮮基督教青年会(現韓国YMCA) で朝鮮人留学生によって行われた。 韓国併合前から、日本に朝鮮人留学生は多く来ていたが、 特に、保護国化されて以降は、YMCAが朝鮮留学生の拠り所となっていたのである。 宣言文は朝鮮にも伝えられた。
1919年3月1日 京城のパゴダ公園で独立宣言(3.1独立宣言) 天道教(東学が発展した民族宗教)、基督教、仏教指導者が連合して行った。 朝鮮中に広がる。 「大韓独立万歳」を叫び示威を行ったので、万歳事件ともいう。
(2)なぜ3月1日だったのか。 この年1月21日に高宗が急死した。小豆がゆを食べた直後であった。 侍医側は病死と診断したが、毒殺説も広まっていた(今でも耳にする)。 高宗の葬儀は3月3日に決められた。全国から京城に人が集まってくる。 3月2日が日曜日だったために、3月1日に決められた。
総督府は、独立運動を弾圧をしたが、構造的な問題があることにも気がついた。 統治はうまく行っていると思っていたからで、 この事件は総督府にとっても大きなショックだったのである。
そのため、総督の資格を文官にも拡充し(実際に文官が総督になったことはない)、 憲兵警察も廃止された。また、民族誌の発行や会社の設立も認められるようになった。
このような統治を文化政治という。
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