不平士族が反乱を起こしている頃、 土佐を中心として言論により政府に反対していく動きがあった。 それが自由民権運動である。 自由民権運動とは議会を設立し、立憲政体を求めて行く運動であり、 大きく4段階に分けることが出来る。 1.漸次立憲政体樹立の詔 この頃の議会設立に関する考え方は大きく2つに別れた。 漸進派 教育や地方、社会経済制度が確立してから議会を設置すべき。時期尚早 急進派 議会を開設してこそ様々な制度を充実できる。 急進派はさらにイギリス立憲政体を目標とした「自由主義」と、 フランス式共和制を目標とした「天賦人権」の二つの流れに別れる。 政府は漸進派、一方で自由民権派は急進派であった。 1873年、大久保は立憲政体樹立に関する意見書を出し、議会開設は時期尚早とした。 そして、同年11月、内務省を設置して、官僚中心体制を築こうとした。 これの機先を制するように提出されたものが、 1874年1月の「民撰議院設立建白書」であった。 提出した人は板垣退助ら「愛国公党」。明治六年の政変で下野したのち、東京で結成された。 板垣等はこれを発表することで、世論を喚起しようとした。 4月には土佐で板垣、片岡健吉らが中心となって立志社を興し、 自由民権運動で中心的な役割を果たすようになった。 さらに、大阪で民権派の全国組織として「愛国社」が設立された。 建白書が出されると、世論が沸騰し始めた。 また、立憲政体派であるとともに、台湾出兵に反対だった木戸孝允が下野した。 このことは大久保にとって、大きな痛手であった。 そこで、大久保は従来の方針を変更し、民権派と妥協することにした。 すなわち、1875年1月、大阪で大久保、板垣、木戸が話し合う「大阪会議」が開かれ、 ・木戸、板垣の政府復帰 ・三権分立の確立 が、確認された(官僚の権限が制限されることになる)。 それを受けて、1875年4月、「漸次立憲政体樹立の詔」が出された。これによって、 ・元老院の設置(立法作業、華族、学者等)→右院(協議機関)、左院(立法)の廃止。 ・大審院の設置(司法、現在の最高裁判所に当たる) ・地方官会議の設置。 この後、木戸と板垣は再び下野した。 一方で政府は言論の沸騰を押さえるために、18775年6月、言論界を抑圧する法律を制定した。 1.讒謗律 言論機関による名誉毀損、侮辱の取締。 2.新聞紙条例 新聞、雑誌を発行する場合、内務省の許可が必要(発行取り消しもあり)。 国家転覆などを教唆する記事の禁止。 法令を非毀することの禁止 この背景に、この時期が新聞の発行ブームであり、政界と結びつきながら、批判記事を 多く書いていたことがある。これによって多くの言論人が逮捕された。 2.明治十四年の政変 1877年9月西南戦争が終わった。不平士族は軍事力による反乱は駄目なことを悟り、 言論による政府批判に舵を切った。 政府は、ある程度社会が安定したことを受けて、 郡区町村編成法、府県会規則、地方税規則の三新法を制定した。 一方、民権派は立志社を中心として(西南戦争中、立志社建白を提出しようとする)、 愛国社を再興した(板垣が一時政府に戻ったことで消滅状態だった)。 1880年、愛国社は国会期成同盟に発展解消し、 国会開設の請願書を政府に提出しようとした。 結果として、2府22県、8万人近い署名と、これとは別に2県の署名が集まった。 これに対して、伊藤博文等、参議の多くが時期尚早と考えていた。 一方大隈重信は国会開設の時機が来たと考え、伊藤たちと対立した。 実は、1877年、木戸孝允が病死、1878年大久保利通が清水谷で暗殺され、 政権では、伊藤と大隈が主導権争いをしていたのである。 このような中で、集会条例が制定された。
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