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2014年9月13日
日本史 20140912 自由民権運動(1) 

不平士族が反乱を起こしている頃、
土佐を中心として言論により政府に反対していく動きがあった。
それが自由民権運動である。
 
自由民権運動とは議会を設立し、立憲政体を求めて行く運動であり、
大きく4段階に分けることが出来る。
 
1.漸次立憲政体樹立の詔
 この頃の議会設立に関する考え方は大きく2つに別れた。
 
  漸進派 教育や地方、社会経済制度が確立してから議会を設置すべき。時期尚早
  急進派 議会を開設してこそ様々な制度を充実できる。
         急進派はさらにイギリス立憲政体を目標とした「自由主義」と、
         フランス式共和制を目標とした「天賦人権」の二つの流れに別れる。
 
政府は漸進派、一方で自由民権派は急進派であった。
 1873年、大久保は立憲政体樹立に関する意見書を出し、議会開設は時期尚早とした。
       そして、同年11月、内務省を設置して、官僚中心体制を築こうとした。
 
これの機先を制するように提出されたものが、
1874年1月の「民撰議院設立建白書」であった。
提出した人は板垣退助ら「愛国公党」。明治六年の政変で下野したのち、東京で結成された。
板垣等はこれを発表することで、世論を喚起しようとした。
 
4月には土佐で板垣、片岡健吉らが中心となって立志社を興し、
自由民権運動で中心的な役割を果たすようになった。
さらに、大阪で民権派の全国組織として「愛国社」が設立された。
 
建白書が出されると、世論が沸騰し始めた。
また、立憲政体派であるとともに、台湾出兵に反対だった木戸孝允が下野した。
このことは大久保にとって、大きな痛手であった。
 
そこで、大久保は従来の方針を変更し、民権派と妥協することにした。
すなわち、1875年1月、大阪で大久保、板垣、木戸が話し合う「大阪会議」が開かれ、
 ・木戸、板垣の政府復帰
 ・三権分立の確立
が、確認された(官僚の権限が制限されることになる)。
 
それを受けて、1875年4月、「漸次立憲政体樹立の詔」が出された。これによって、
 ・元老院の設置(立法作業、華族、学者等)→右院(協議機関)、左院(立法)の廃止。
 ・大審院の設置(司法、現在の最高裁判所に当たる)
 ・地方官会議の設置。
 
この後、木戸と板垣は再び下野した。
一方で政府は言論の沸騰を押さえるために、18775年6月、言論界を抑圧する法律を制定した。
 1.讒謗律
  言論機関による名誉毀損、侮辱の取締。
 2.新聞紙条例
  新聞、雑誌を発行する場合、内務省の許可が必要(発行取り消しもあり)。
  国家転覆などを教唆する記事の禁止。
  法令を非毀することの禁止
 
この背景に、この時期が新聞の発行ブームであり、政界と結びつきながら、批判記事を
多く書いていたことがある。これによって多くの言論人が逮捕された。
 
2.明治十四年の政変
1877年9月西南戦争が終わった。不平士族は軍事力による反乱は駄目なことを悟り、
言論による政府批判に舵を切った。
 
政府は、ある程度社会が安定したことを受けて、
郡区町村編成法、府県会規則、地方税規則の三新法を制定した。
 
一方、民権派は立志社を中心として(西南戦争中、立志社建白を提出しようとする)、
愛国社を再興した(板垣が一時政府に戻ったことで消滅状態だった)。
 
1880年、愛国社は国会期成同盟に発展解消し、
国会開設の請願書を政府に提出しようとした。
結果として、2府22県、8万人近い署名と、これとは別に2県の署名が集まった。
 
これに対して、伊藤博文等、参議の多くが時期尚早と考えていた。
一方大隈重信は国会開設の時機が来たと考え、伊藤たちと対立した。
 
実は、1877年、木戸孝允が病死、1878年大久保利通が清水谷で暗殺され、
政権では、伊藤と大隈が主導権争いをしていたのである。
 
このような中で、集会条例が制定された。
 
 

Posted by hajimet at 11:08 | Comments (0)

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