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2014年9月13日
倫理 20140912 アリストテレス(2) 質料と形相、最高善
(前回の続き)
導入 ソクラテスは、人間の本質は魂であって、魂への配慮が必要。
   そして、善美が何かを知ろうとすることが大切であるとした。

   プラトンは本質をイデア界に求め、善はイデアのイデアであるとした。
   そして、善のイデアを認識できる人こそ幸福とする。

アリストテレスは、本質はイデア界にあるのではなく、現実の中にあるとした。
すなわち
            現実体

             ↑ 
           |  | energeia(力が発散している状態)
           |形質|
      ---------------------↑(運動)
           |質料|
           |  | dyunamis(力が秘められている状態)

            可能態

と図示できる。質料だけではものは存在しない。粘土はただの粘土。
それが像の形相と結びつくと像になるし(像を彫るのはそれを助ける)、
磁器の形相と結びつくと磁器となる。

形相はイデアに当たるから、一つのものと言っても良い。種は花の形相と
結びつき、完全な花を咲かそうとする。だが、土や水、肥料などの影響で
結果として個性を持った別々の花となる。だが、目標は同じ「花」

人間は生まれたとき歩けないが、完全な魂の状態を実現しようとするから、
ハイハイをし、立ち上がり、言葉を喋る。そして成長する。そして日々変わっていく。

このようにアリストテレスが質料と形相によって素材と本質の関係を
説明したことが、実は、ギリシア思想を統合したことになる。

というのも、ギリシア思想には二つの流れがあったからである。

 ・素材に注目するもの(水、空気)   →質料
                     +
 ・形式に注目するもの(数、イデア)  →形相

目的論的自然観
また、こういうことも言える。
  花 種→(ハナの形相)→(運動)→花
 =花 種→(運動)→花→(花の形相の実現)目的

形相の実現を目的として、すべてのものが運動していると言うことになる。
すなわち、自然はすべて目的にしたがって運動している
このような考え方を目的論的自然観といい、キリスト教などに大きな影響を与えた。

現在はニュートンやガリレオ以来の考え方で、
すべての運動は原因と結果の因果関係で考えられている。
このような自然観を機械論的自然観という。 

たしかに、理系はこの考え方に基づいているが、機械論的自然観だと、
個人の「努力」は評価できなくなる。数値に表しようがないし、
入試などで面接が入ることも、数値だけでは評価できない所が多くあるからである。
そういう意味で、目的論的自然観の考え方も、今でも当てはまる考え方である。

(3)最高善

ソクラテスの善美、プラトンの善のイデアにあたるものであるが、
アリストテレスは、事物の運動が最終的に目指す先を「」とした。
すなわち、それぞれの運動ごとに「善」がある。
そして、人間の最高善は「幸福」であるとする。
幸福は他の目的にならないからである。(ソクラテスの福徳一致)

人間の幸福の態様には3種類ある。
 ・享楽的生活(快楽)
 ・政治的生活(政治)
・観想的生活(真理認識)
  蓄財的生活は、金を使う手段が目的となるから、幸福の態様には入らない。

では、この3つの中でどれが良いのか。
それは、「人間の魂」の性格から考えなければならない。
すなわち、「人間のみがロゴス(理性)を有する」
人間は生まれつき知ることを欲する。だから人間の徳は「知ること」である。
それゆえ観想的生活=テオリア的生活が最高の幸福だということになる。

それゆえ、競技場で試合をしている競技者と、それを眺めている人では、
眺めている人の方が幸福だと言うことになるのである。
         
では、その「魂」の状態はどうなのだろうか。これは、次回に。
Posted by hajimet at 10:32 | Comments (0)

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