西南戦争 明治初期、様々な改革が行われたが、しわ寄せを受ける人びとも多くいた。 農民は地租改正一揆、血税一揆など多くの一揆をおこした。 一方で士族も不満を強く持った階層である。 1.不平士族の反乱 士族は秩禄処分で収入の道が断たれた。これによって、生活は困窮し、 その原因を作った政府に不満を持った。 その不満は特に西南諸国で強かった。 彼らは討幕の功臣であったのにもかかわらず、その特権を奪われてしまったからである。 政治状況が悪いことから不満を持っていても、回避する道はいくらでもあるので、 反乱は起きにくい。だが、経済的困窮はそれを回避できないので、不満が爆発しやすい。 (イ)中でも下級士族が不満を強く持った。というのも、 元大名層は華族という特権階級になり、不満を持ち得なかったからである。 下級士族で軍人や役人になれなかったものは、生活が苦しかったため、反発した。 ただし、土佐藩は事情が違った。坂本竜馬を輩出したように、この藩は比較的進歩的な 傾向を持っていた。そのため、反乱よりも、言論で政府に反対する自由民権運動を 繰り広げたのである。さらに、 (ロ)廃刀令など、武士の特権が完全に奪われた上、 (ハ)明治六年の政変で西郷等が下野し、彼らが政府側から反政府側に移ったこと。 これらが重なって、実際の反乱が起きるようになった。 具体的には @土佐:板垣が「愛国公党」結成。 「民撰議院設立建白書」を提出し、自由民権運動に刺激を与えた。 A佐賀:佐賀の乱(1874)江藤新平が旗頭。佐賀の多くの士族が加わる。1ヶ月で鎮圧。 江藤は処刑 B熊本:敬神党(神風連)の乱(1876)。熊本鎮台を攻撃、一日で平定。 これに影響を受けて、同年秋月の乱、萩の乱が起こる。 ※鎮台:地域の治安を維持するための場所。連隊にあたるが、この頃の軍は対外戦争より 国内の治安維持を目的とした編成とされていた。 (2)西南戦争…日本最後の内乱 政変で政府から下野した西郷隆盛は鹿児島に戻り、私学校を作った。 ここに多くの士族の子弟が集まり、各地に分校が出来た。 学校の目的は子弟育成とともに大陸経営である。 それゆえ、学校の性格は政治結社であり、同時に私的軍をもつようになった。 鹿児島では、この学校の出身者が県政に進出するようになった。 明治政府は鹿児島県を警戒し、監視するようになった。 政府は鹿児島を調査しようとして警察官を派遣した。 しかし、薩摩側は西郷隆盛を暗殺しに来ると考えた。 そのことがきっかけとなって、77年1月、薩摩側が弾薬庫などを襲撃した。 これが西南戦争の始まりである。 2月、1万5千の兵で薩摩側は北上を開始する。 2月22日には薩摩は熊本城を包囲する。 一方、政府は反乱鎮圧のため、2月19日に命令を出し、徴兵制により軍隊を組織した。 これが、日本で最初の徴兵軍である。 2月、北進する薩摩軍と政府軍は「田原坂」で衝突した。ここに薩摩側は敗れ敗走する。 その後、薩摩側は人吉、宮崎と本陣を移すが敗退を繰り返し、 9月24日、鹿児島に残る兵も自刃して戦争は終わった。このとき西郷も自刃した。 遺体は損傷が激しく、西郷がどれか分からなかったが、 西郷が象皮症にかかっていたことから、 その部分の皮膚を見て、西郷の遺体としたと伝えられている。 (だから、西郷は死なずに逃げ隠れたという伝説が出来た) この戦争は、日本で最初の日本軍による戦争であった。 政府は勝利したが、後々まで大きな影響を残した。それは、 @不平士族に武力による反乱が無力であることを悟らせ、言論による反抗に流れが変わった。 実際、西南戦争後、自由民権運動は二度目のピークを迎える。 A平民を中心とする徴兵軍が勝利した。近代兵器を採用していたこともあるが、いずれにせよ、 これによって、徴兵軍に対抗できない士族は完全に没落した。 B政府は戦費を不換紙幣によりまかなった。これにより烈しいインフレーションがおきた。 政府は不換紙幣を回収し、財政状況を好転させようとしたが、かなりの時間がかかった。 C三菱は軍事輸送で力を付け、財閥の基礎を作った。 このように様々な影響を後々まで与えた戦争が西南戦争であった。
|