« 前のエントリー | Main | 次のエントリー » | Comments | Post a comment


2014年9月9日
日本史 120140908 西南戦争

西南戦争
 
明治初期、様々な改革が行われたが、しわ寄せを受ける人びとも多くいた。
農民は地租改正一揆、血税一揆など多くの一揆をおこした。
一方で士族も不満を強く持った階層である。
 
1.不平士族の反乱
士族は秩禄処分で収入の道が断たれた。これによって、生活は困窮し、
その原因を作った政府に不満を持った。
 
その不満は特に西南諸国で強かった
彼らは討幕の功臣であったのにもかかわらず、その特権を奪われてしまったからである。
 
政治状況が悪いことから不満を持っていても、回避する道はいくらでもあるので、
反乱は起きにくい。だが、経済的困窮はそれを回避できないので、不満が爆発しやすい。
 
(イ)中でも下級士族が不満を強く持った。というのも、
元大名層は華族という特権階級になり、不満を持ち得なかったからである。
 
下級士族で軍人や役人になれなかったものは、生活が苦しかったため、反発した。
 
ただし、土佐藩は事情が違った。坂本竜馬を輩出したように、この藩は比較的進歩的な
傾向を持っていた。そのため、反乱よりも、言論で政府に反対する自由民権運動
繰り広げたのである。さらに、
 
(ロ)廃刀令など、武士の特権が完全に奪われた上、
(ハ)明治六年の政変で西郷等が下野し、彼らが政府側から反政府側に移ったこと。
これらが重なって、実際の反乱が起きるようになった。
 
具体的には
@土佐:板垣が「愛国公党」結成。
     「民撰議院設立建白書」を提出し、自由民権運動に刺激を与えた。
A佐賀:佐賀の乱(1874)江藤新平が旗頭。佐賀の多くの士族が加わる。1ヶ月で鎮圧。
     江藤は処刑
B熊本:敬神党(神風連)の乱(1876)。熊本鎮台を攻撃、一日で平定。
      これに影響を受けて、同年秋月の乱、萩の乱が起こる。
※鎮台:地域の治安を維持するための場所。連隊にあたるが、この頃の軍は対外戦争より
     国内の治安維持を目的とした編成とされていた。
 
(2)西南戦争…日本最後の内乱
政変で政府から下野した西郷隆盛は鹿児島に戻り、私学校を作った。
ここに多くの士族の子弟が集まり、各地に分校が出来た。
 
学校の目的は子弟育成とともに大陸経営である。
それゆえ、学校の性格は政治結社であり、同時に私的軍をもつようになった。
 
鹿児島では、この学校の出身者が県政に進出するようになった。
明治政府は鹿児島県を警戒し、監視するようになった。
政府は鹿児島を調査しようとして警察官を派遣した。
しかし、薩摩側は西郷隆盛を暗殺しに来ると考えた。
 
そのことがきっかけとなって、77年1月、薩摩側が弾薬庫などを襲撃した。
これが西南戦争の始まりである。
 
2月、1万5千の兵で薩摩側は北上を開始する。
2月22日には薩摩は熊本城を包囲する。
一方、政府は反乱鎮圧のため、2月19日に命令を出し、徴兵制により軍隊を組織した。
これが、日本で最初の徴兵軍である。
 
2月、北進する薩摩軍と政府軍は「田原坂」で衝突した。ここに薩摩側は敗れ敗走する。
その後、薩摩側は人吉、宮崎と本陣を移すが敗退を繰り返し、
9月24日、鹿児島に残る兵も自刃して戦争は終わった。このとき西郷も自刃した。
 
遺体は損傷が激しく、西郷がどれか分からなかったが、
西郷が象皮症にかかっていたことから、
その部分の皮膚を見て、西郷の遺体としたと伝えられている。
(だから、西郷は死なずに逃げ隠れたという伝説が出来た)
 
この戦争は、日本で最初の日本軍による戦争であった。
政府は勝利したが、後々まで大きな影響を残した。それは、
 
@不平士族に武力による反乱が無力であることを悟らせ、言論による反抗に流れが変わった。
 実際、西南戦争後、自由民権運動は二度目のピークを迎える。
 
A平民を中心とする徴兵軍が勝利した。近代兵器を採用していたこともあるが、いずれにせよ、
 これによって、徴兵軍に対抗できない士族は完全に没落した
 
B政府は戦費を不換紙幣によりまかなった。これにより烈しいインフレーションがおきた
 政府は不換紙幣を回収し、財政状況を好転させようとしたが、かなりの時間がかかった。
 
C三菱は軍事輸送で力を付け、財閥の基礎を作った。
 
このように様々な影響を後々まで与えた戦争が西南戦争であった。

Posted by hajimet at 20:57 | Comments (0)

Comments


Post a comment