1.南満州経営 日露戦争に勝利した日本は、大連と旅順のロシア租借地を譲り受けることになり、 1906年清国より同地を租借して、関東州と名付けた。 関東州の統治機構は関東都督府で、南満州鉄道の管理、軍の管理などを行った。 一方、長春以南の東清鉄道の経営のために南満州鉄道株式会社が創設された。 満鉄は広大な付属地、撫順炭鉱などの鉱山経営権など莫大な権利を持っており、。 ここを警備する権利を持っていた。これは関東州に限らず、満州まで達していた。 さらに、関東州は租借地であるゆえ、日本人保護のため領事館も設けられていた。 この結果、関東州は関東都督府、満鉄、領事館の三頭体制で、それぞれの権力関係が 複雑に絡み合う状態であった。だが、これによって満州進出の足がかりが出来た。
2.米国の門戸開放 米国にとって、門戸開放の狙いは満州であった。 外の地域の勢力圏が比較的確固としたものであったのに対して、 満州は日露の角逐など勢力が不安定だったことがあるのであろう。 米国は日本の満州権益の独占に反対した。 それゆえ、1905年に満鉄の日米共同経営を提案したが、日本側の拒否にあった。 これによって日米関係は悪化し、1906年、サンフランシスコなどのカリフォルニア州を中心に 日本人排斥運動が起きた。 移民の日本人が底辺層の職種に就業したため、米国民の職が奪われたということに対する 反発と、黄禍論が作用したものであった。 その後1909年にも満鉄中立化を列国に提案している。 このようなことで、日米が開戦するのではないかという憶測が流れたほどである。
3.日本の対応 しかし、日本は第2次日英同盟と第1次日露協約によって満州権益を国際的に承認させた。 第2次日英同盟は「清帝国ノ独立及領土保全」をうたうが、 紛争が起きたときは第1次日英同盟のときのような中立の態度をとるのではなく、 互いに闘に参加する攻守同盟が特徴であった。 イギリスは米国の門戸開放政策を支持していたが、もし日米が衝突すれば英国は 日本側に立って参戦しなければならないことになるから、 結果的に日本の立場を支持するしかなくなるのである。 結局、日露戦争、満州経営をめぐって列国は対立の道を進み始めた。 日英、露仏が強調する一方で、 ロシアは南下政策の矛先をバルカン半島に向けドイツと対立。 ドイツは資本主義が本格的に進展し始めて、近東に進出しようとしてイギリスと対立。 日本はアメリカと対立するようになった。
4.辛亥革命 ところで、1911年、中国で辛亥革命がおこり中華民国が成立し、 孫文が臨時総統に就任した。この国は三民主義(民族、民権、民生)を国是とした。 満州権益の強化を主張する陸軍は、辛亥革命への干渉を主張したが、 政府は列国の意向と、財政問題を根拠に不感症主義の立場をとった。
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