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2014年11月3日
日本史 20141031 朝鮮問題(1)

朝鮮問題
1876年、日本は朝鮮との間に日朝修好条規を結び、朝鮮は開国した(日本側の立場)。
朝鮮では閔氏を中心として、日本式の開化政策を始めた。
 
朝鮮では大院君と閔氏政権が対抗関係となる。
大院君は国王の父親で、自己が王を経験していない人に与える称号で、
本名は李昰応(りかおう、イハウン)。
大院君の運動が功を奏して、高宗は幼くして王になり、実権を握っていた。
 
一方で、高宗も成長して、閔妃(びんひ、ミンピ)と結婚した。
そのために、閔氏一族の政治権力が伸びた(勢道政治)
そして大院君と対抗するようになる。
 
日朝修好条規が結ばれたのは、大院君から閔氏に政権が移った時期であった。
それまで大院君は鎖国政策をとっていたのである。
 
閔氏政権も大院君も、その後結びつく国が変わっていく。
朝鮮半島は様々な勢力が集まってくる場所で(この時代は日清露(英))、
その中のどの勢力と結べば、国が維持できるかが課題となっていたからである。
 
さて、朝鮮では開化政策が行われ、新式の軍隊が造られたが、
一方で従来の軍も残された。しかし、権力争いに敗れた方は令遇される
(現在の韓国でもそれははきりしている)。
 
旧軍は給料(米)が遅配となり、ついには石の混ざった米が配られた。
これがきっかけとなり、1882年、壬午軍乱が起き、大院君が権力を握ろうとしたが、
失敗し、閔氏政権は宗主国である清に接近し、朝鮮は清の影響力が強い国となった。
 
日本は公使館が襲撃されたり、館員が殺されたりしたため、
朝鮮との間で済物浦(さいもつほ、チェムルポ 仁川近くの港名)条約を結んだ。
 
日本側は朝鮮への進出を目論むために、朝鮮の現状を変えることを考えた。
1884年、甲申事変が起きた。中心人物は金玉均(きんぎょくきん、キムオッキュン)。
福澤諭吉が支援していた。福澤は清国、朝鮮を日本のように近代化させ、
共に西欧と対抗することを考えていたのである(脱亜論を発表する前である
 
しかし、事変は文字通り三日天下で終わった。宗主国の清が出てきたからである。
宗主国は藩属国が攻撃された場合に、藩属国を守る義務がある。
豊臣秀吉が朝鮮を侵攻したときに明が軍隊を送ったのもそのためである。
 
それとともに、清にとって、何が何でも朝鮮に軍を送らなければならない理由があった。
1884年、清仏戦争で清は藩属国だった越南を失った。
清国にとって最後の藩属国が朝鮮なのである。
 
冊封体制は、王が皇帝にその地域の支配を認めてもらうと言うこと共に、
皇帝と王が平和な関係を結んで皇帝を守るという意味もある
朝鮮を失えば、清は丸裸になってしまうのだ。
 
そのために清軍が朝鮮に送られた。福澤たちは金玉均のはしごを外してしまった。
結果的に金玉均は日本に亡命。その後、引渡をめぐって日朝間の政治問題になり続ける。
日本も金玉均を小笠原に移したりしたが、最後は上海で朝鮮側によって殺害された。
墓の一つが、青山墓地にある。
 
この結果、朝鮮では清国の力が圧倒的になった(大院君は一時清国に拉致される)。
そして、日清間で天津条約、日朝間で漢城条約が締結された。
 
実は、日本側も済物浦条約によって、公使館護衛の目的で、朝鮮に兵を駐在することを
認められていたのだ。そのままだと、日清軍が衝突しかねない。
そのために条約が締結された(つづく)。
 
 
 

Posted by hajimet at 11:03 | Comments (0)

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