教父哲学 初期キリスト教成立後、キリスト教はローマ帝国内に広がった。 ローマでは、本来の宗教があったため、当初キリスト教は異教として弾圧された。 特に、ネロの時には大弾圧が行われた。 同時にマニ教もローマで流行していた。 このような中、キリスト教徒は地下墓地(カタコンベ)を作り、信仰の場としていた。 4世紀、キリスト教が広がり、ローマの国教となった。 その前後から、よりキリスト教を理論化する動きが出てきた。これを教父哲学という。 その代表的人物はアウグスティヌスである(354-430)。 北アフリカ、現在のチュニジアの生まれ。カルタゴに遊学して演劇に夢中になり、 19歳でキケロの哲学にめざめ、マニ教の信者となる。29歳のときにローマに移り、 「パウロの手紙」に新プラトン主義の真理を読む。その後キリスト教に入信した。 cf:マニ教。 マーニー創設。イランの宗教、ゾロアスター教(善神、悪神、最後の審判)を土台に ヘレニズム文化が融合したもの。マーニーの両親はユダヤ教徒。ヘレニズム文化はギリシアの 文化を土台に各地の文化が融合したものだが、各地の文化、宗教を排斥することがなかった。 それゆえ、各地の文化が保存されると共に、各地の文化が融合。折衷的性格を持つ。 マニ教も折衷的な性格を持つもので、非常に複雑な教義を持つ。 それゆえ、一時爆発的に流行し、世界宗教的位置に立つも、衰退していった。 最後まで信仰された中国でも11世紀には消滅した。 マーニーは若いとき双子の精霊が訪問したとされるが、 その精霊は、聖霊、もしくはミトラ神とされる。ミトラ神は終末の時に救済する神として、 南アジアで信仰された神である。これはインドに入るとマイトレーヤとなり、仏教に入る。 漢訳は弥勒菩薩である。 アウグスティヌスは、パウロの「欲する善はなせず、欲しない悪を行う」ことを説明しようとする。 「悪は善の欠如」であり、人間の自由意思が「悪しき」行為の原因とする。 つまり、神は神の似姿として人間を創造したから、人間は「善なるもの」として造られた。 しかし、土から造る、いわば土のチリだから、悪が入り込むことは可能である。 悪は蛇によってもたらされた。 したがって、「本来の善を回復」することは可能である。 しかし、原罪は取り除くことは出来ない(人間の存在意義がなくなってしまう)。 善を回復できるのは、神の恩寵によるのみで、恩寵が与えられるかは神によって決められる。 恩寵予定説 歴史は「地上の国」から「神の国」に向かって行く。最後の時には悪魔の都が消えて、 神の国が出来るとする。教会は神のアガペーで結ばれた「神の国」であるとして、 教会のを位置を確定させた。 この説は、ニケーアの公会議で決定された「三位一体説」が強く影響している。 イエスの信仰として始まったキリスト教では、当然のこととして神とイエスの関係が問題になる。 様々な考えが提示されたが、その中で「父なる神」「子なるイエス」、聖霊は別のものであるが、 神聖において同じであるという三位一体説が提示され、正統のされた。 現在のヨーロッパのキリスト教の基本的な立場である。 しかし、なぜアウグスティヌスは神の恩寵は予定されていると考えたのだろうか。 実は、このときローマは壊滅の危機に襲われていた。 東からゲルマンが侵入してきたからである。中国北部のフン(多分、匈奴)が東進し、 それに押し出されるようにゲルマンがローマの地域に入り込んできた。 (中国北部で興った民族は西進する特徴がある。トルコ、モンゴルもしかり) 彼らは森に対する信仰を持っている(赤頭巾ちゃん、ヘンゼルとグレーテルなど参照) ローマに入っていった彼らは、キリスト教を否定した。 アウグスティヌスはさあ以後アフリカのヒッポで死亡するが、 ヴァンダル族が包囲する中で亡くなる。 そのような中で、いかにキリスト教を維持するか、理論づけるかが大切だったのである。 また、自分たちを攻撃するゲルマンは救われたくないと考えたこともあったのだろう。 スコラ哲学 ローマが亡びた後、ヨーロッパはゲルマンが支配する。フランクはキリスト教化するが、 ローマまで入っていたギリシア文化はゲルマンに受け継がれなかった。 ヨーロッパは世界史の中でも偉大な田舎になってしまった。 ところが、12世紀頃急にギリシア思想が復活する。 実はローマは東西に分裂し、東ローマが長く続いた。 そしてギリシア思想はイスラムに取り込まれていた。 実はイスラムは中国と並んで世界で最も繁栄した所だった。 11世紀、十字軍によりイスラムと接触したヨーロッパは、自己の元になるギリシア思想が イスラムに生きていることを知り、忘れられていたヨーロッパの中に取り込むようになった。 それが、ギリシア思想の復活なのである(12世紀ルネサンス) 教会では修道士らによってキリスト教義が研究された。 それによって確立した哲学をスコラ哲学という。 ここでは理性の真理(哲学)と神の真理(神学)との関係が問題になった。 導き出される真理が異なる場合があるからだ。 スコラ哲学者の代表者、トマス・アクィナス(1225頃〜74)はこれについて、 「哲学は神学の婢(侍女)」として、両者の関係を明快に位置づけた。 哲学は神学のためにあるというのである。 そして、「神の恩寵は自然を破壊するのでなく、自然を完成させる」とした。 自然は神を目的に運動する。すなわち、アリストテレス哲学を取り込んだのである。 また、神の真理を我々が理性で知覚したものを自然法として、後の法学などの考えに 大きな影響を与えることになる(法解釈の方法はスコラ哲学期限) その後時代は、近世に入る。 近世は再び神学と哲学が別れていくことになるとともに、 アリストテレスをどのように乗り越えていくかが課題になる時代でもある。
|