条約改正 憲法改正などの西欧の制度の導入は条約改正を睨んでの動きでもあった。 安政の五カ国条約以来、日本不平等条約(領事裁判権(治外法権)、関税自主権無し、 片面的最恵国待遇)の下にあった。それを対等にしようとした。、 1.岩倉使節団 72年 改正予備交渉の失敗 2.井上馨外務卿(外務大臣) 極端な欧化政策。欧化することで西欧と対等と言うことを示すため。 鹿鳴館外交(管弦楽の伴奏、ダンスパーティー…しかし、管弦楽の水準はどうだったのだろう。 今もその傾向があるが、当時の日本人にとってファとシは出せない音だったはず かえって西欧と違うことを際立たせただけではないか(独り言)) 82年 東京で予備交渉。〜84年 86年 本会議 87年一応の了解。 領事裁判権:撤廃 関税:輸入税を平均11%、輸出税を5%とする(自主権は、なし) しかし、これを実現するために、 外国人の内地雑居、各裁判所の半数以上の裁判官が外国人、西欧の法律の制定施行が 条件となっていた。 だが、これでは、経済力の弱い日本の産業は外国人産業に潰される 恐れがあるし、外国人が西欧法を使って裁判をするのでは、 実質的に領事裁判権が撤回されていないことと同じである。 これに対する反発は国内で強まった。同時に井上の極端な欧化政策に対する不満も 重なった。さらに86年に起きたノルマントン号事件の裁判の結果も不満を加速させた。 イギリス船ノルマントン号が紀州沖で沈没したとき、船長は日本人乗客を助けなかったが、 イギリスの領事裁判所は「英語が通じなかった」という船長の主張を通して、 船長が無罪になったというものであった。 結局伊藤首相は条約改正交渉を中断し、井上は辞任した。 3.大隈重信(黒田内閣) 井上を受けて、大隈は交渉方式を変更した。個別に交渉することとして、日本に好意的な 国から条約を締結しようとした。 89年 アメリカ、ドイツ、ロシアと条約締結を行ったが、これも国内の反対を受けた。 大隈は秘密交渉を行っていたのだが、条約の内容が漏れたからである。 それは、大審院に外国人裁判官を置くこと、西欧法を作ることを宣言する(宣言のみ)と なっていたからである。 大隈は玄洋社の来島恒喜に襲撃され、辞職。 政府は世論を読み誤っていたことがこの結果を招いた。 4.条約改正 (1)青木周蔵外務大臣 91年、青木はイギリスと条約改正交渉を開始した。 この当時、ロシアがシベリア鉄道の工事を開始し、極東における勢力バランスが 変わったからである。イギリスからすれば、自国の利権が侵される危険があった。 そのために、立憲体制が整い、経済力などがつき始めた日本に接近して、 ロシアに対抗しようとしたのである。 だが、この交渉は91年の大津事件で一旦中断する。 ロシア皇太子ニコライがシベリア鉄道起工式出席する途中で日本に立ち寄ったのだが、 大津で津田三蔵に切りつけられる。政府は皇室に対する殺人罪未遂で起訴したが、 大審院院長児島惟謙の主張を受けた初審裁判所は、謀殺未遂で判決を下した。 (司法権の独立) 大津事件を受けて青木は辞任する。次の榎本武揚外相の時は交渉は進展しなかった。 (2)陸奥宗光 しかし、その間も、日本の法治国家としての体制、軍事力強化、経済力増強は続き、 イギリスとしては日本と手を組む必要性を強く感じることになった。ただし、清国と日本の どちらに重点をおくかについては天秤に掛けていた。 陸奥宗光は青木にイギリスとの交渉をさせ、条約が調印された。 1894年7月 日英通商航海条約(99年施行) これにより、領事裁判権は撤廃(外国人裁判官の件は、なし)、相互的最恵国待遇が 認められた。関税自主権は触れていない。 というのも条約締結は日清戦争のわずか9日前だったからで、清国にも利権を持っている イギリスの了解を得る必要があったからである。それまでに、条約締結をはかった。 各国も日清戦争終了後条約改正を行った。 (3)小村寿太郎 完全自主権の回復は1911年まで待たなければならなかった。だが、これによって、日本は 条約上も列国と対等の関係になる事が出来た。だが、すでに明治44年。改正交渉は 明治一代かけて行われ、晴れて解決したと言うことが出来る。
|