漢城条約 甲申事変ののち、日清間は天津条約を結んだ。 天津は北京のそばの町で、東京に対する横浜にあたる。 両方の軍隊が衝突しないように 1.両軍の撤退 日本は済物浦条約で交換保護の目的で兵を送っていた。 2.朝鮮に事件が起きて軍を出すときは、互いに相手国に知らるせこと。 事件が解決したら速やかに撤兵すること。が決められた。 しかし、朝鮮では清国の力が圧倒的となり、日本は政治的に後退した。 だが、清との対抗は必要である。そのために壬午軍乱後、軍備拡張を図った 1878 参謀本部 1882 軍人勅諭 1888 鎮台を師団に改編。これによって、軍の性格は治安維持から対外戦争に変わった。 初期議会で軍事費が問題となった理由も、このことが背景となっている。 また、朝鮮、清に対する国民感情は悪化した。 福澤諭吉は「脱亜論」を発表して、朝鮮、清は切り捨てて、日本だけで 西欧化の道を進むべきと主張した。福澤は甲申事変まで朝鮮の「近代化」を考えていたが、 そのような「近代化」の道を清、朝鮮ともとらなかったからである。 一方で日本の経済的進出は進んだ。 政治的進出と、経済的進出は必ずしも一致しない。 93年までの朝鮮からの輸出の9割が日本向けであった。 その多くが米、大豆で、松方財政の影響で工業化が進み、労働者が多く住む関西に送られた。 関西に労働者が集中したこと。交通ルートの関係で、朝鮮から船で関西に行きやすいことが 理由である。また、このころの朝鮮米は、等級の上のものが多かったとされる。 一方、朝鮮では米価が高騰し、窮乏状態になる人も増える。朝鮮は日本に比べて夏の気候が 安定しない。梅雨前線がどこで留まるかによって旱魃になったり、洪水になったりする。 そのため、飢饉が発生しやすい。そのため、たびたび、穀物の輸出を禁止する防穀令をだした。 しかし、日本に米を輸出する商人は、予め必要経費を農民に貸付け、 収穫、輸出で回収するようにしていた。防穀令が出されると、貸付が回収出来ない。 商人保護のため、日本側は朝鮮に損害賠償を求め、最後通牒を突きつける事態になった。 これを防穀令事件という(1889) 甲午農民戦争(東学の乱) このような社会情勢を背景として、1894年2月、甲午農民戦争が起きた。 きっかけは、全羅道の郡守の圧政に対して、農民が蜂起したことである。 その蜂起を東学が指導した。 東学は迫り来る西洋、日本(西学)に抵抗することと、 平等思想から、朝鮮の両班(ヤンバン)体制に反対するという、朝鮮の民俗信仰である。 農民蜂起は、 あっと言う間に内乱状態となって全羅道一体に広がり、 朝鮮政府はこれを押さえることが出来なくなった。 そこで、1894年6月、宗主国である清に援軍を依頼し、清は朝鮮に軍を派兵した。 一方で、天津条約によって出兵の連絡を受けた日本政府も、 公館保護などを理由に朝鮮に派兵を行った。 この状況を受けて、内乱は停戦した。そのため政府は両国軍に撤退を申し入れたが、 日本軍は撤兵せず、朝鮮の内政改革を要求した。 最初の提案は日清両国で朝鮮の内政を改革するという提案であったが、 この改革案は清国の呑めるものでなかった。 宗属関係を否定するものだったからである。 当然のことながら、清はこれを拒否したため、日本は単独で内政改革することを目論んだ。 日本は王宮に軍隊を送り、大院君にクーデターを起こさせ、内政改革を断行した。 これによって清朝間の宗属関係は断たれた。1894年7月25日。 同日、日本軍は豊島(ほうとう、プンド)沖で清国の北洋艦隊を奇襲攻撃した。 日清戦争の始まりである。
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