憲法制定 1881年、政府は国会開設の詔を出して、それまでに憲法を制定するとした。 すでにプロイセン流の憲法を採用することにして、天皇の力を強めようとした。 1882年、政府は憲法調査のため、伊藤博文、伊東巳代治、西園寺公望をヨーロッパに派遣した。 訪れた国は、イギリス、ベルギー、オーストリア、ドイツ。報告書には外の国名も見られる。 伊藤はベルリン大学のグナイスト、ウィーン大学のシュタインから憲法学、行政学を学んだ。 帰国後、憲法草案作成に入る。お雇い外国人ロエスレルの指導。 作業は秘密に行われた。国民の権力を制限する方向で 作製される憲法だったので、内容が公になると民権派が収まらなくなるからである。 そのため、東京から離れた金沢文庫の旅館で作業をした。しかし、盗人が入り、 アタッシュケースが盗まれるという事件が起きた。 結果的に草案は紙くずと思われたのか、裏の竹藪から発見されたが、 再びこのような事件が起きないようにと言うことで、 伊藤の別荘のある夏島で作業が続けられた。 現在は埋め立てられて、日産の追浜工場になっている。 このように憲法草案を作っている一方で、憲法体制に合うように諸制度が整えられた。 1884年 華族令 華族を「公侯伯子男(爵)」に分け、これまでの華族の外に「国家に功績のあった者」も 華族とした(そうでないと伊藤博文らが華族になれない)。華族は永世華族であった。 次に1885年 内閣制度 太政官制度に代わる。行政の権限を強くするためで 内閣総理大臣:天皇に対して責任(初代、伊藤博文) 国務大臣:各省に対して責任。閣議を構成。天皇に対して責任 内閣の外に 宮内省、宮内大臣(宮中の行政職)。 内大臣:天皇を常時補佐。天皇御璽、日本国事を保管(今も内と外は分けられている)。 皇室財産の創設 そして地方制度の改革。モッセの助言で山県有朋が中心となって作った。 1888年 市制・町村制(市会の設置。東京、京都、大阪は有産者が少ないため特別市制) 1890年 郡制・府県制 さらに、憲法が制定された。1889年2月11日公布(発布) 2月11日は今なら「建国記念の日」。歴史が古すぎていつ国が出来たかは分からない。 (中国や朝鮮は、王系が代わると国号が代わるから、その「国」の成立年は分かる) 2月11日は「伝説上、初代(神武)天皇が即位したとされる日」。 神武以降、現在の天皇まで切れていないことになっている (天智、天武とか継体天皇の問題は置いておいて)。 神武の祖先はアマテラス、その祖先はイザナギ、イザナミ(ここで神話を語る)。 すなわち、「天皇=神」をイメージづけようとしたのである。 このような憲法であるが、アジア最初の憲法ということで国民は喜んだ。 しかし、内容は知らされていない。「絹布の法被」が貰えると喜んでいる人もいる。 そのような様子をドイツ人医師ベルツは「だが、滑稽なことに誰もその内容をご存じない」と 記した(ドイツ語を直訳すると「だれもその内容を知らないのだ!!!!」となっている。上手い訳だ)。 そのような憲法の内容だが、 ・帝国議会=天皇を協賛 欽定憲法 ・ 統治権を総覧 ・国務大臣=天皇を補弼。天皇に責任 | ・司法権=天皇の名に於いて 天皇− ・統帥権 万世一系 | 神聖不可侵 ・天皇大権 元首 | | 臣民(臣=誰かのためにある者=天皇のためにあるヒト) 臣民の権利。法律で制限できた(法律の留保)=天皇の恩恵で与えた権利だから。 憲法の制定の意義は ・アジア最初の立憲体制 ・条約改正に有利になる(日本が西洋法制を運用できることを明らかにしたから)
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