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2014年10月13日
日本史授業 20141010 憲法制定

憲法制定
 
1881年、政府は国会開設の詔を出して、それまでに憲法を制定するとした。
すでにプロイセン流の憲法を採用することにして、天皇の力を強めようとした。
 
1882年、政府は憲法調査のため、伊藤博文、伊東巳代治、西園寺公望をヨーロッパに派遣した。
訪れた国は、イギリス、ベルギー、オーストリア、ドイツ。報告書には外の国名も見られる。
伊藤はベルリン大学のグナイスト、ウィーン大学のシュタインから憲法学、行政学を学んだ。
 
帰国後、憲法草案作成に入る。お雇い外国人ロエスレルの指導。
作業は秘密に行われた。国民の権力を制限する方向で
作製される憲法だったので、内容が公になると民権派が収まらなくなるからである。
そのため、東京から離れた金沢文庫の旅館で作業をした。しかし、盗人が入り、
アタッシュケースが盗まれるという事件が起きた。
 
結果的に草案は紙くずと思われたのか、裏の竹藪から発見されたが、
再びこのような事件が起きないようにと言うことで、
伊藤の別荘のある夏島で作業が続けられた。
現在は埋め立てられて、日産の追浜工場になっている。
 
このように憲法草案を作っている一方で、憲法体制に合うように諸制度が整えられた。
1884年 華族令
 華族を「公侯伯子男(爵)」に分け、これまでの華族の外に「国家に功績のあった者」も
華族とした(そうでないと伊藤博文らが華族になれない)。華族は永世華族であった。
 
次に1885年 内閣制度
 太政官制度に代わる。行政の権限を強くするためで
  内閣総理大臣:天皇に対して責任(初代、伊藤博文)
  国務大臣:各省に対して責任。閣議を構成。天皇に対して責任
 内閣の外に
  宮内省、宮内大臣(宮中の行政職)。
  内大臣:天皇を常時補佐。天皇御璽、日本国事を保管(今も内と外は分けられている)。
  皇室財産の創設
 
そして地方制度の改革モッセの助言で山県有朋が中心となって作った。
 1888年 市制・町村制(市会の設置。東京、京都、大阪は有産者が少ないため特別市制)
 1890年 郡制・府県制
 
さらに、憲法が制定された。1889年2月11日公布(発布)
 2月11日は今なら「建国記念の日」。歴史が古すぎていつ国が出来たかは分からない。
(中国や朝鮮は、王系が代わると国号が代わるから、その「国」の成立年は分かる)
2月11日は「伝説上、初代(神武)天皇が即位したとされる日」。
神武以降、現在の天皇まで切れていないことになっている
 (天智、天武とか継体天皇の問題は置いておいて)。
 
神武の祖先はアマテラス、その祖先はイザナギ、イザナミ(ここで神話を語る)。
すなわち、「天皇=神」をイメージづけようとしたのである。
 
このような憲法であるが、アジア最初の憲法ということで国民は喜んだ。
しかし、内容は知らされていない。「絹布の法被」が貰えると喜んでいる人もいる。
そのような様子をドイツ人医師ベルツは「だが、滑稽なことに誰もその内容をご存じない」と
記した(ドイツ語を直訳すると「だれもその内容を知らないのだ!!!!」となっている。上手い訳だ)。
 
そのような憲法の内容だが、
 
                   ・帝国議会=天皇を協賛
欽定憲法       ・ 統治権を総覧 ・国務大臣=天皇を補弼。天皇に責任
         |                      ・司法権=天皇の名に於いて
  天皇−  ・統帥権
万世一系       |
神聖不可侵    ・天皇大権
元首 |
    |
  臣民(臣=誰かのためにある者=天皇のためにあるヒト)
        臣民の権利。法律で制限できた(法律の留保)=天皇の恩恵で与えた権利だから。
 
憲法の制定の意義は
  ・アジア最初の立憲体制
  ・条約改正に有利になる(日本が西洋法制を運用できることを明らかにしたから)
 
 
 
 
 

Posted by hajimet at 19:53 | Comments (0)

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